通鑑紀事本末呉、淮南を侵す(吳侵淮南)

呉の孫権が周魴の偽降で曹休を誘い出し、石亭に大破したところから、魏の満寵が揚州を鎮めて合肥新城へ城を移し、たびたびの呉の来寇を退けるまで。青龍二年には孫権が十万を号して新城に迫り、陸遜も襄陽に向かうが、明帝の親征と満寵らの計に阻まれて退く、七年間の淮南攻防。

年表(6件)

魏明帝太和二年(228年)石亭の役

  • 夏五月、吳王孫権は鄱陽太守周魴に、北方に名の知れた山中の旧族の名帥をひそかに探し、偽って揚州牧曹休を誘わせようとした。周魴は、民帥は小者で頼りにならず事が漏れれば曹休を釣れない、自分の腹心に書を持たせ、譴責を受けて誅を懼れ郡を挙げて北に降りたいので兵で迎えてほしいと誘わせたいと請い、吳王は許した。
  • その頃たびたび郎官が周魴のもとに来て諸事を詰問した。周魴はそれを利用して郡の門下に出向き髪を切って謝罪した。曹休はこれを聞いて歩騎十万を率いて皖に向かい周魴に応じた。明帝はさらに司馬懿を江陵に、賈逵を東關に向かわせ三道から並進させた。
  • 秋八月、吳王は皖に至り、陸遜を大都督として黄鉞を仮し、自ら鞭を執って見送った。朱桓・全琮を左右の督としてそれぞれ三万を督させ曹休を撃った。曹休は騙されたと知りながら衆を恃んで吳と戦おうとした。
  • 朱桓が吳王に進言した。曹休は親戚のゆえに任されただけで智勇の名將ではない。今戦えば必ず敗れ、敗れれば必ず走り、走るなら夾石か挂車を通る。この二道はいずれも険阨で、一万の兵で路に柴を積めばその衆は殲滅でき曹休を生け捕れる。自分に部下を率いてこれを断たせてほしい。天威を蒙って功を挙げられれば、勝に乗じて長駆し寿春を取り淮南を割いて許・洛を狙える。万世に一度の機会を失うべきでない、と。孫権が陸遜に問うと陸遜は不可としたので取りやめになった。
  • 尚書蔣濟が上疏し、曹休は敵地に深入して孫権の精兵と対峙するのに朱然らが上流にあって曹休の後を襲う、利があるとは思えないと述べた。前將軍満寵も上疏し、曹休は明果だが用兵の経験は少ない、今進む道は湖を背に江に沿い、進みやすく退きにくい兵の絓地である、無彊口に入るなら深く備えるべきだと述べた。満寵の上表への返答が来ないうちに、曹休は石亭で陸遜と戦った。
  • 陸遜は自ら中軍を率い、朱桓・全琮を左右翼として三道から並進し曹休の伏兵を衝いて追い散らした。敗走する敵を追って夾石に至り、斬獲一万余、牛馬騾驢と車乗一万両、軍資器械をほぼ手に入れた。
  • 曹休が周魴に応ずるため深入を請う上表をしたとき、明帝は賈逵に東へ進んで曹休と合流するよう命じていた。賈逵は、賊に東關の備えがないのは必ず皖に軍を併せているからで、曹休が深入して戦えば必ず敗れると見て、諸將を部署して水陸並進した。二百里進んだところで吳人を捕え、曹休が敗れ吳が夾石を断ったと聞いた。
  • 諸將は打つ手を失い後続軍を待とうという者もいたが、賈逵は、曹休の兵は外で敗れ内では路を断たれ、進んで戦えず退いて還れない、安危の機は一日を待たぬ、賊は後続がないと見てこうしたのだ、今急進して不意を突くのが「先んじて心を奪う」というものだ、賊は我が兵を見れば必ず走る、後続軍を待てば賊は既に険を断っており兵が多くても益はないと述べ、兼道して進軍し旗鼓を多く並べて疑兵とした。吳人は賈逵の軍を望み見て驚いて走り、曹休は還ることができた。賈逵は夾石に拠って兵糧を曹休に給し、曹休の軍はようやく立ち直った。もともと賈逵は曹休と不仲だったが、曹休は敗れて賈逵のおかげで免れた。
  • 九月、長平壯侯曹休が上書して謝罪した。明帝は宗室であることから問わなかったが、曹休は慙愧と憤りから背に疽を発し、庚子に死去した。明帝は満寵を揚州都督として代えた。

太和四年(230年)

  • 十二月、吳主が合肥に至ると声を揚げた。征東將軍満寵が上表して兖州・豫州の諸軍を召し集めたが、吳はすぐ退いて還り、詔で召兵は罷められた。満寵は、賊が大挙して還ったのは本意でない、偽って退いて我が兵を解散させ、反転して虚に乗じ不備を襲うつもりだと考え、上表して兵を罷めなかった。十余日後、吳は果たして再び合肥城に来たが克てず還った。

太和五年(231年)

  • 冬十月、吳主が中郎將孫布を偽降させて揚州刺史王淩を誘い、阜陵に兵を伏せて待った。孫布は人を遣わして王淩に、道が遠く自力で行けないので兵で迎えてほしいと告げた。王淩は孫布の書を送って兵馬による迎えを請うた。
  • 征東將軍満寵は必ず偽りだと見て兵を与えず、代わりに王淩の名で返書を作らせた。その内容は、邪正を弁え禍を避けて順に就き暴を去って道に帰そうとするのは大いに嘉すべきである、兵を遣わして迎えたいが、計るに兵が少なければ護衛に足らず多ければ事が遠くまで聞こえてしまう、まず密かに計って本志を成し、その時々に適宜に処すべきだ、というものであった。
  • ちょうど満寵が召されて入朝することになり、留府長史に、王淩が迎えに行こうとしても兵を与えるなと敕した。王淩は後に兵を求めて得られず、単独で一人の督將に歩騎七百を付けて迎えに行かせた。孫布は夜襲し、督將は逃げ、死傷は半を超えた。王淩は王允の兄の子である。
  • これに先立ち王淩は、満寵は年を過ぎて酒に耽り方面の任に堪えぬと上表していた。明帝が満寵を召そうとすると、給事中の郭謀が、満寵は汝南太守・豫州刺史二十余年で方岳に勲があり、淮南を鎮してから吳人が憚っている、上表の通りでなければ隙を窺われる、朝に還らせて東方の事を問い観察すべきだと述べた。明帝は従った。満寵が着くと体気は康強で、明帝は慰労して還らせた。

太和六年(232年)合肥新城の議

  • 十二月、吳の陸遜が廬江に向かった。速やかに救うべきという論者に対し、満寵は、廬江は小さいが將は勁く兵は精で守れば時をかけられる、また賊は船を捨てて二百里来ており後尾は空絶している、来ないなら誘い出したいところで、今はそのまま進ませるのがよい、走って追いつけなくなるのを恐れるだけだと述べ、軍を整えて楊宜口に急いだ。吳人はこれを聞いて夜に逃げた。
  • この頃吳人は毎年侵攻を計っていた。満寵が上疏した。合肥城は南は江湖に臨み北は寿春から遠く、賊が攻囲すれば水に拠って勢を得る。官兵が救うには賊の大軍をまず破らねば囲は解けない。賊が来るのは非常に易しく兵が救いに行くのは非常に難しい。城内の兵を移し、西三十里に依るべき奇険があるので改めて城を立てて固守すべきだ。これは賊を平地に引き入れてその帰路を掎むもので、計として便宜である、と。
  • 護軍將軍蔣濟は、天下に弱みを示すことになり、賊の煙火を望み見て城を壊すのは攻められる前に自ら退くことだ、ここまでになれば劫掠に限りがなくなり必ず淮北を守ることになると議した。明帝はまだ許さなかった。
  • 満寵は重ねて上表した。孫子は兵は詭道だと言った。だから能があるのに能なきを示し、利をもって驕らせ、恐れを示す。形と実は必ず相応するものではない。また「善く敵を動かす者はこれを形にす」と言う。今賊が至らぬうちに城を移して内に却くのは、形をもって誘うということだ。賊を水から遠ざけ利を択んで動く、外で得るところがあれば内に福が生ずる、と。尚書趙咨が満寵の策を長ずるとしたので、詔でようやく聴許された。

青龍元年(233年)

  • 吳主が出兵して新城を囲もうとしたが、水から遠いため二十余日たっても船を下りようとしなかった。満寵は諸將に、孫権は我が城を移したのを知って必ず衆中で自大の言をしている、今大挙して来たのは一切の功を求めているので、至れなくても必ず岸に上がって兵を耀かし余裕を示すだろうと語り、ひそかに歩騎六千を肥水の隠れた所に伏せて待った。吳主は果たして上岸して兵を耀かし、満寵の伏兵が突如これを撃って数百を斬り、水に赴いて死んだ者もいた。吳主はまた全琮に六安を攻めさせたがこれも克てなかった。

青龍二年(234年)明帝の親征

  • 五月、吳主が居巢湖口に入って合肥新城に向かい、衆は十万と称した。また陸遜・諸葛瑾に一万余を率いさせて江夏の沔口から襄陽に向かわせ、將軍孫韶・張承を淮に入らせ廣陵・淮陰に向かわせた。
  • 六月、満寵が諸軍を率いて新城を救おうとすると、殄夷將軍田豫が、賊が衆を挙げて大挙するのは小利のためでなく、新城を質にして大軍を招き寄せるつもりだ、攻城させてその鋭気を挫くべきで鋒を争ってはならぬ、城は抜けず衆は必ず疲れる、疲れてから撃てば大勝できる、賊が計を見抜けば攻城せず自ら走る勢いになる、進兵すればまさにその計に入ると述べた。
  • 当時東方の吏士はみな交替で休暇に出ており、満寵は中軍の兵を請い休暇中の將士を召し集めて撃つべきと上表した。散騎常侍の廣平人劉邵が議した。賊は新たに至って心は専一で気は鋭い、満寵は少数で自らの地で戦うのだから、すぐ進撃しても制せまい。満寵が兵を待つよう請うのは失ではない。まず歩兵五千・精騎三千を先発させ、声を揚げて進み形勢を震わせ耀かす。騎が合肥に到れば隊列を疎らにして旌鼓を多くし、城下で兵を耀かし賊の後に出て帰路を擬し糧道を要撃する。賊は大軍が来て騎が後を断ったと聞けば必ず震え怖れて遁走し、戦わずに自ら破れる、と。明帝は従った。
  • 満寵は新城の守りを抜いて賊を寿春に引き寄せようとしたが、明帝は許さず、昔漢の光武帝は兵を遣わして略陽に拠らせ最終的に隗囂を破った、先帝は東に合肥を置き南に襄陽を守り西に祁山を固めた、賊が来るたび三城の下で破られたのは必ず争うべき地があるからだと述べ、孫権が新城を攻めても必ず抜けないから諸將に堅守を敕せ、自分が自ら征きたいが、着く頃には孫権が走っているのを恐れると言った。
  • 秋七月壬寅、明帝は龍舟に乗って東征した。満寵は壮士を募って吳の攻城具を焼き、吳主の弟の子孫泰を射殺した。吳の吏士には疾病が多く、明帝が数百里に近づく前に疑兵が先に至った。吳主は初め明帝は出られぬと思っていたが、大軍が至ると聞いて遁走し、孫韶も退いた。
  • 陸遜が腹心の韓扁に上表を持たせて吳主のもとに向かわせたが、巡邏に捕えられた。諸葛瑾はこれを聞いて非常に懼れ、陸遜に書を送り、大駕は既に還り賊は韓扁を得て我が事情を詳しく知った、しかも水が乾いてきたので急ぎ去るべきだと伝えた。
  • 陸遜は答えず、人に葑豆を種えるよう催し、諸將と碁を打ち射戯をして平常どおりであった。諸葛瑾は、伯言は智略が多いから必ず考えがあるはずだと言い、自ら会いに来た。
  • 陸遜は説明した。賊は大駕が還ったと知ってもう憂いがなく、我に専力できる。しかも既に要害を守っている。兵と將の意が動いているのでまず自ら定めて安んじ、変術を施してから出るのだ。今すぐ退却を示せば賊は我が怖れていると考え、なお迫って来て必敗の勢いになる、と。
  • そこで密かに諸葛瑾と計を立て、諸葛瑾に舟船を督させ、陸遜は兵馬をすべて上げて襄陽城に向かわせた。魏人はもとより陸遜の名を憚っており、急いで城に還った。諸葛瑾は船を出し、陸遜は徐々に部伍を整え声勢を張り拓げて歩いて船に向かい、魏人は迫ろうとしなかった。
  • 白圍に至ると狩りに行くと称し、ひそかに將軍周峻・張梁らを遣わして江夏・新市・安陸・石陽を撃たせ、千余を斬獲して還った。
  • 群臣が、司馬懿は諸葛亮と相守って解けていないので車駕は西の長安に幸すべきだと言うと、明帝は、孫権は走り諸葛亮は胆を破られた、大軍で制するに足るから憂いはないと述べ、進軍して寿春に至り、諸將の功を記録して封賞に差を付けた。