通鑑紀事本末光武帝、漁陽を平定する(光武平漁陽)
王郎討伐に突騎と糧を供して功のあった漁陽太守の彭寵が、恩賞の薄さを恨み、幽州牧の朱浮との確執から召しに応じずに反乱した経緯を描く。寵は薊を落として燕王を称し、匈奴や張歩と結んだが、光武は麦の実りを待つ策を採り、涿郡の張豐を先に討った。耿況が匈奴の兵を破って寵の勢いを挫き、寵はついに下男の子密に殺されて家族も夷滅された。更始元年(23年)から光武建武五年(29年)までの7年間。
年表(6件)
- 淮陽王
- 更始元年23年彭寵が漁陽太守の事を行い、呉漢が安楽令に拝される
- 更始二年24年彭寵が上谷太守の耿況と約して大司馬の劉秀に帰す
- 漢光武建武二年26年恩賞を恨む彭寵が召しに応ぜず反し、鄧隆の軍を潞の南で破る
- 漢光武建武三年27年涿郡の張豐が呼応して反し、朱浮が敗れて薊城が彭寵に降る
- 漢光武建武四年28年伏湛の諫めで親征をやめ、祭遵が張豐を禽え、耿況が匈奴の兵を破る
- 漢光武建武五年29年彭寵が下男の子密に殺され、その子の午も斬られて家族が夷滅される
淮陽王更始元年(23年)
- 宛の人の彭寵と呉漢は亡命して漁陽にいた。同郷の韓鴻が更始の使いとして北州を徇え、制を承けて寵を偏将軍・行漁陽太守事に、漢を安楽令に拝した。
淮陽王更始二年(24年)
- 邯鄲の王郎が将を遣って漁陽・上谷を徇えた。上谷太守の耿況は寵と約してともに大司馬の秀に帰した。
漢光武建武二年(26年)
- 帝が王郎を討ったとき、彭寵は突騎を発して軍を助け、糧食を送ること前後絶えなかった。帝が銅馬を追って薊に至ると、寵は自らその功を負って期待するところが甚だ高かった。帝の遇し方が満足のいくものでなかったので、これによって不平を懐いた。
- 即位に及んで、寵が遣った呉漢と王梁がそろって三公となったのに、寵だけは何も加えられなかった。いよいよ怏々として志を得ず、嘆じて言った。「これでは私は王になるべきだ。それなのに、陛下は私を忘れておられるのか」と。
- 当時、北州は破れ散っていたが漁陽は比較的無事で、旧来の鉄官があった。寵はそれで穀を交易し、珍宝を蓄えていよいよ富み強くなった。
- 幽州牧の朱浮は年少で俊才があり、気風と実績を励まして士の心を収めようとし、州中の名望ある宿老および王莽の時のもと吏の二千石をみな召して幕府に置き、諸郡の倉の穀を多く出してその妻子を養った。
- 寵は「天下がまだ定まらず軍旅がまさに起こっている今、多くの官属を置いて軍需を損なうべきではない」として、その命に従わなかった。浮は性質が誇り高く気短で自負が強く、寵もまた強情だったので、嫌悪と怨みが積み重なった。
- 浮はたびたび讒言してこじつけ、「寵は兵と穀を多く集めており、その意図は測りがたい」とひそかに奏した。帝はその都度これを漏らして寵に聞こえるようにし、脅し怖れさせた。
- ここに至って寵を召す詔があった。寵は上疏して朱浮とともに召されたいと願ったが、帝は許さなかった。寵はいよいよ自ら疑った。
- 寵の妻はもとより気が強く、抑えつけられるのに堪えず、召しに応じぬよう固く勧めた。「天下はまだ定まらず、四方がそれぞれ雄を称している。漁陽は大郡で兵馬は最も精鋭。なぜ人に讒奏されてここを棄てて去るのですか」と。
- 寵はまた親信の吏と相談したが、みな浮を怨んでおり、赴くよう勧める者はなかった。
- 帝は寵の従弟の子后蘭卿を遣って諭させたが、寵はそのまま子后蘭卿を留め、ついに兵を発して反した。将帥を任命し、自ら二万余人を率いて薊に朱浮を攻めた。
- また耿況とともに重い功がありながら恩賞がともに薄いとして、たびたび使者を遣って況を誘ったが、況は受けずその使者を斬った。
- 八月、帝は游撃将軍の鄧隆を遣って朱浮を助けて彭寵を討たせた。隆は潞の南に、浮は雍奴に軍し、吏を遣って状況を奏した。帝は檄を読んで怒り、使いの吏に言った。「営が百里も離れていては、勢いとして助け合えるものか。北へ帰り着くころには軍は必ず敗れていよう」と。
- 彭寵は果たして軽兵を遣って隆を撃ち、軍を大破した。浮は遠くにいてついに救えなかった。
漢光武建武三年(27年)
- 三月、涿郡太守の張豐が反して自ら無上大将軍と称し、彭寵と兵を連ねた。
- 朱浮は帝が自ら彭寵を征しないので、上疏して救いを求めた。詔して答えた。「先年、赤眉が長安で跋扈したとき、私は穀がなくなれば必ず東へ来ると読み、果たして来て帰服した。今この反虜を測るに、勢いとして長く全うできず、その中で必ず内輪で斬り合う者が出る。今は軍資が充実していないので、麦の実りを待つ必要があるだけだ」と。
- 浮の城中は糧が尽きて人が食い合った。折しも耿況が騎兵を遣って救いに来たので、浮はようやく身を脱して逃げた。薊城はついに彭寵に降った。
- 寵は自ら燕王と称し、右北平・上谷の数県を攻め落とし、匈奴に賂を贈って兵を借りて助けとし、また南は張歩および富平・獲索の諸賊と結んでみな通じ合った。
漢光武建武四年(28年)
- 五月、帝は自ら彭寵を征そうとした。伏湛が諫めた。「今、兖・豫・青・冀は中国の要地でありながら寇賊が横行してまだ教化に従っておりません。漁陽は辺境の外で荒れ果てており、先に図るに足りましょうか。陛下が近きを捨てて遠きに務め、易きを棄てて難きを求められるのは、まことに臣の惑うところです」と。帝はそこで還った。
- 帝は建義大将軍の朱祐、建威大将軍の耿弇、征虜将軍の祭遵、驍騎将軍の劉喜を遣って涿郡に張豊を討たせた。祭遵が先に至って急ぎ攻め、豊を禽えた。
- そもそも豊は方術を好んでいた。ある道士が「豊は天子となるべきだ」と言い、五彩の袋に石を包んで豊の肘に結びつけ、「石の中に玉璽がある」と言った。豊はこれを信じてついに反した。捕らえられて斬られようとするときにも、なお「肘の石に玉璽がある」と言った。傍らの者が槌で割ってやると、豊はようやく騙されたと知り、天を仰いで嘆じた。「死んでも恨みはない」と。
- 帝は耿弇に彭寵を進撃するよう詔した。弇は父の況が寵と功を同じくし、また兄弟で京師にいる者がないので、独り進むのを憚り、洛陽へ行きたいと願い出た。詔して答えた。「将軍は一族を挙げて国のために尽くし、功績はことに著しい。何を嫌い何を疑って召されることを求めるのか」と。況はこれを聞いて改めて弇の弟の国を入侍させた。
- 当時、祭遵は良郷に、劉喜は陽郷に屯していた。彭寵が匈奴の兵を引き入れてこれを撃とうとしたが、耿況が子の舒を遣って匈奴の兵を襲い破り、二人の王を斬った。寵はそこで退いた。
漢光武建武五年(29年)
- 二月、彭寵の妻はたびたび悪夢を見、また怪異を多く目にした。卜筮や望気の者もみな「兵は内から起こる」と言った。寵は子后蘭卿を人質として漢に出したのに帰ってきたので信用せず、兵を率いて外に置き、内には親しい者がなかった。
- 寵が便室で斎戒していたとき、下男の子密ら三人が、寵が寝入っているのに乗じてともに縛って牀に括りつけ、外の吏には「大王は斎の禁忌に入られた」と告げてみな休ませた。寵の命と偽って奴婢を捕らえ縛り、それぞれ一か所に置いた。
- また寵の命と称してその妻を呼んだ。妻は入って驚き「奴が反した」と言った。奴はその頭を掴んで頬を打った。寵は急いで叫んだ。「早く諸将軍のために支度をせよ」と。
- そこで二人の奴が妻を連れて入って宝物を取り、一人の奴が寵を見張った。寵は見張りの奴に言った。「お前は小さいころから私が可愛がってきた者だ。今は子密に脅されているだけだろう。私の縛を解いてくれれば、娘の珠をお前に嫁がせ、家の財物もみなお前にやろう」と。小奴は解こうという気になったが、戸の外を見ると子密がその話を聴いていたので、ついに解けなかった。
- そこで金玉と衣物を集めて寵のいる所へ運んで荷造りし、馬六匹に負わせ、妻に二つの絹の袋を縫わせた。日が暮れてから寵の手を解き、城門将軍あての書状を書かせた。「今、子密らを子后蘭卿のもとへ遣る。速やかに門を開けて出し、留めるな」と。
- 書ができると、寵とその妻の首を斬って袋に入れ、そのまま書状を持って馬を駆って城を出、そのまま闕へ赴いた。
- 翌朝、閤の門が開かないので官属が塀を越えて入り、寵の屍を見て驚き怖れた。その尚書の韓立らは寵の子の午を王に立てたが、国師の韓利が午の首を斬って祭遵のもとへ持って降った。その家族は夷滅された。帝は子密を不義侯に封じた。
史論(権徳輿の議)
- 伯通(彭寵)の叛命と子密の主殺しは、ともに乱に帰するもので、罪は互いに覆い隠せない。それぞれ法に照らして王者の則を明示すべきである。それがかえって五等の爵を与え、しかも「不義」を名とした。だが不義を挙げて侯にできる道理はない。これで侯にできるなら、漢の爵は励みとするに足りぬことになる。春秋が斉豹を盗と書き、三人の叛人を名で記した義とは、およそ異なるのではないか。