通鑑紀事本末光武帝、斉を平定する(光武平齊)
更始のとき梁王に封じられた劉永が睢陽に拠って挙兵し、張歩・董憲・佼彊ら東方の賊帥と結んで青・徐の地を専有するに至る。光武帝は蓋延・呉漢・馬武・王霸を次々に遣って劉永を斬り、龐萌の叛乱と董憲の抵抗を自ら親征して破った。耿弇は歴下・臨菑を抜いて張歩を降し、呉漢は朐を抜いて董憲・龐萌を斬る。更始元年(23年)から建武六年(30年)まで、東方八年の平定の記録。
年表(8件)
- 淮陽王
- 更始元年23年劉永が洛陽に赴き、更始から梁王に封じられて睢陽に都する
- 更始二年24年劉永が国に拠って挙兵し、二十八城を得て東方の賊帥と兵を連ねる
- 漢光武建武元年25年劉永が睢陽で帝を称し、張歩は琅邪から斉の諸郡を徇えて下す
- 漢光武建武二年26年蓋延が睢陽を抜き、伏隆が節を持って青・徐の招降に向かう
- 漢光武建武三年27年蓋延が睢陽を百日囲み、劉永は将の慶吾に斬られる
- 漢光武建武四年28年蓋延らが命に背いて蘭陵へ向かい、董憲に賁休を殺される
- 漢光武建武五年29年帝が桃城で龐萌を破り、耿弇が臨菑で張歩を大破して降す
- 漢光武建武六年30年呉漢が朐を抜いて董憲・龐萌を斬り、江淮・山東が平定される
淮陽王更始元年(23年)
- 冬十月、もと梁王の劉立の子の永が洛陽に赴いた。更始は梁王に封じ、睢陽に都させた。
淮陽王更始二年(24年)
- 冬、梁王の永は国に拠って挙兵し、諸郡の豪傑を招いた。沛の人の周建らをそろって将帥に任じ、済陰・山陽・沛・楚・淮陽・汝南を攻め下して合わせて二十八城を得た。
- また使者を遣って、西防の賊帥で山陽の佼彊を横行将軍、東海の賊帥の董憲を翼漢大将軍、琅邪の賊帥の張歩を輔漢大将軍として青・徐二州を督させ、これと兵を連ねて、ついに東方を専有した。
漢光武建武元年(25年)
- 十一月、梁王の永が睢陽で帝を称した。
- そもそも更始は王閎を琅邪太守としていたが、張歩が郡に拠って拒んだ。閎は諭して降らせ、贛榆など六県を得、兵を集めて歩と戦ったが勝てなかった。
- 歩は劉永の官号を受けると劇で兵を治め、将を遣って泰山・東萊・城陽・膠東・北海・済南・斉郡を徇え、みな下した。閎は力が及ばず、歩のもとへ行って会見した。
- 歩は兵を大いに並べて会い、怒って「歩に何の罪がある。君は先にひどく攻めたてた」と言った。閎は剣を按じて「太守は朝命を奉じたのに、文公(歩)は兵を擁して拒んだ。閎は賊を攻めただけだ。何がひどいというのか」と言った。歩は立って跪いて謝し、ともに宴飲して上賓として遇し、閎に郡事を掌らせた。
漢光武建武二年(26年)
- 夏四月、虎牙大将軍の蓋延が駙馬都尉の馬武ら四将軍を督して劉永を撃って破り、そのまま睢陽に永を囲んだ。
- もと更始の将の蘇茂が反して淮陽太守の潘蹇を殺し、広楽に拠って永に臣従した。永は茂を大司馬・淮陽王とした。
- 秋八月、蓋延が睢陽を囲むこと数か月で克った。劉永は逃げて虞に至ったが、虞の人が反してその母と妻を殺した。永は麾下数十人とともに譙へ走った。
- 蘇茂・佼彊・周建が軍を合わせ三万余人で永を救おうとした。延は沛の西で戦って大破した。永・彊・建は逃げて湖陵を保ち、茂は広楽へ逃げ帰った。延はそのまま沛・楚・臨淮を平定した。
- 帝は太中大夫の伏隆に節を持たせて青・徐二州に遣り、郡国を招降させた。青・徐の群盗は劉永の敗北を聞いてみな恐れ、降を請うた。張歩はその掾の孫昱を隆に随行させて闕へ遣り、上書して鰒魚を献じた。隆は伏湛の子である。
- 帝は伏隆を光禄大夫とし、改めて張歩のもとへ遣って歩を東萊太守に拝し、併せて新任の青州の牧・守・都尉とともに東へ向かわせ、隆にその場で令・長以下を任命することを詔した。
漢光武建武三年(27年)
- 二月、劉永が董憲を海西王に立てた。永は伏隆が劇に至ったと聞き、やはり使者を遣って張歩を斉王に立てた。歩は王爵を貪って猶予し決しかねた。
- 隆が諭した。「高祖は天下と約して、劉氏でなければ王としないと定めました。今は十万戸の侯になれるだけです」と。
- 歩は隆を留めてともに二州を守ろうとしたが、隆は聴かず、復命することを求めた。歩はついに隆を捕らえて永の封を受けた。
- 隆は間道から使者を遣って上書した。「臣隆は使いを奉じて不首尾に終わり、凶逆の徒に捕らえられました。困厄の中にありますが、命を捧げて顧みません。また吏民は歩が叛いたと知って心が離れております。時をとらえて兵を進め、臣隆のことは念頭に置かれませんように。臣隆が生きて闕廷に至り、有司の誅を受けられれば、それが大願です。もし寇の手に身を没して父母兄弟のことで長く陛下を煩わすことになりましても、陛下は皇后・太子とともに永く万国を享け、天とともに極まりなくあられますよう」と。
- 帝は隆の奏を得ると、その父の湛を召し、涙を流して示した。「ひとまず許して、急いで帰らせなかったのが悔やまれる」と。その後、歩はついに隆を殺した。
- 帝は北は漁陽を憂え南は梁・楚に手を取られていたので、張歩は斉の地をもっぱらに集めて十二郡に拠ることができた。
- 夏四月、呉漢が驃騎大将軍の杜茂ら七将軍を率いて広楽に蘇茂を囲んだ。周建が招き集めて十余万人を得て救援に来た。漢は迎え撃って不利となり、馬から落ちて膝を傷め、営へ帰った。建らはそのまま兵を連ねて城に入った。
- 諸将が漢に言った。「大敵が前にあるのに公が傷ついて臥せておられては、衆心が懼れます」と。漢はそこで勃然として傷を包んで起き上がり、牛を屠って士に振る舞い、慰め励ました。士気は自ずと倍した。
- 翌朝、蘇茂と周建が兵を出して漢を囲んだ。漢は奮って撃って大破した。茂は湖陵へ逃げ帰った。
- 睢陽の人が城で反して劉永を迎えた。蓋延が諸将を率いて囲んだ。呉漢は杜茂と陳俊を留めて広楽を守らせ、自ら兵を率いて延を助け睢陽を囲んだ。
- 秋七月、蓋延が睢陽を囲むこと百日。劉永・蘇茂・周建が突囲して鄼へ逃げようとした。延が急ぎ追撃すると、永の将の慶吾が永の首を斬って降った。蘇茂と周建は垂恵へ逃げ、ともに永の子の紆を梁王に立てた。佼彊は西防へ逃げて保った。
漢光武建武四年(28年)
- 秋七月丁亥、帝が譙に行幸し、捕虜将軍の馬武と騎都尉の王霸を遣って垂恵に劉紆・周建を囲ませた。
- 董憲の将の賁休が蘭陵をもって降った。憲はこれを聞いて郯から来て囲んだ。蓋延および平狄将軍で山陽の龐萌が楚にいて、救援に行きたいと請うた。帝は「真っ直ぐ郯を衝けば蘭陵は自ずと囲みが解ける」と命じた。
- 延らは賁休の城が危ういとして、そのまま先にそちらへ赴いた。憲は迎え撃って偽って敗れ退いた。延らはそれに乗じて囲みを破って城に入った。翌日、憲が大いに兵を出して延らを囲んだ。延らは懼れて急ぎ突囲して逃げ、そのまま郯を攻めに行った。
- 帝は責めた。「先に郯へ赴かせようとしたのは、不意を衝けるからだ。今すでに逃げ走って賊の備えは立った。囲みが解けるものか」と。延らは郯に至ったが果たして克てず、董憲はついに蘭陵を抜いて賁休を殺した。
漢光武建武五年(29年)
- 二月、蘇茂が五校の兵を率いて垂恵に周建を救いに来た。馬武は茂と建に敗れ、王霸の営の前を走り過ぎて大声で救いを求めた。
- 霸は「賊の兵は盛んだ。出れば必ず二人とも敗れる。努めるがよい」と言い、営を閉ざして壁を堅くした。軍吏はみな争ったが、霸は言った。「茂の兵は精鋭でその衆も多い。わが吏士は内心怯えている。しかも捕虜将軍(馬武)とわれとが互いに頼み合い、二軍が一つにならぬのは敗れる道だ。今、営を閉ざして固く守り、援けぬ姿勢を示せば、賊は必ず勝ちに乗じて軽々しく進み、捕虜将軍は救いがないのでその戦いは自ずと倍する。こうして茂の衆が疲労したところでその疲弊に乗ずれば克てる」と。
- 茂と建は果たして総出で武を攻め、合戦は久しく続いた。霸の軍中の壮士数十人が髪を切って出戦を請うた。霸はそこで営の後ろを開いて精騎を出し、その背後を襲った。茂と建は前後に敵を受けて驚き乱れ、敗走した。霸と武はそれぞれ営へ帰った。
- 茂と建は改めて兵を集めて挑戦した。霸は堅く臥せて出ず、ちょうど士に振る舞って歌舞をさせていた。茂が営中へ雨のように矢を射かけ、霸の前の酒樽に当たったが、霸は安坐して動かなかった。
- 軍吏はみな「茂は先日すでに破れました。今なら撃ちやすい」と言った。霸は「そうではない。蘇茂は客兵として遠来し、糧食が足りぬのでたびたび挑戦して一時の勝ちを得ようとしているだけだ。今、営を閉ざして士を休ませるのが、いわゆる戦わずして人の兵を屈するというものだ」と言った。
- 茂と建は戦えず、そこで営へ引き返した。その夜、周建の兄の子の誦が反して城を閉ざして拒んだ。建は道中で死に、茂は下邳へ逃げて董憲と合し、劉紆は佼彊のもとへ逃げた。
- 帝は耿弇に張歩を進み討つよう詔した。
- 平敵将軍の龐萌は人となり謙遜で従順だったので、帝は信愛し、常に「六尺の孤を託し百里の命を寄せられるのは龐萌である」と称えていた。蓋延とともに董憲を撃たせたが、そのとき詔書が蓋延だけに下って萌には及ばなかった。萌は延が自分を讒言したと思い込んで疑い、ついに反して延の軍を襲って破り、董憲と連和して自ら東平王と号し、桃郷の北に屯した。
- 帝はこれを聞いて大いに怒り、自ら萌を討つことにし、諸将に書を送った。「私は常に龐萌を社稷の臣と言ってきた。将軍らはその言葉を笑うのではないか。老賊は族滅すべきである。それぞれ兵馬を励まして睢陽に集まれ」と。
- 龐萌は彭城を攻め破り、楚郡太守の孫萌を殺そうとした。郡吏の劉平が太守の身の上に伏して号泣し、身代わりを願い、七か所の傷を負った。龐萌は義として許した。太守はいったん息絶えたが蘇生し、渇いて水を求めた。平は自分の傷の血を注いで飲ませた。
- 六月、董憲は劉紆・蘇茂・佼彊とともに下邳を去って蘭陵へ帰り、茂と彊に龐萌を助けて桃城を囲ませた。
- 帝はそのとき蒙に行幸していたが、これを聞いて輜重を留め、自ら軽兵を率いて昼夜馳せた。亢父に至ったとき、「百官が疲れております。ひとまず宿営を」と言う者があったが、帝は聴かず、さらに十里行って任城に泊まった。桃城を去ること六十里。
- 翌朝、諸将が進撃を請い、龐萌らもまた兵を整えて挑戦した。帝は諸将に出るなと命じ、士を休ませて鋭気を養い、その鋒を挫こうとした。当時、呉漢らが東郡にいたので、使者を馳せて召した。
- 萌らは驚いて言った。「数百里を昼夜行軍したのだから、着いたら戦うと思っていたのに、任城に堅く坐って人を城下に招き寄せている。まことに向かってはいけない」と。そこで全兵で桃城を攻めた。城中は車駕が到着したと聞いて衆心はいよいよ固まった。萌らは二十余日攻めたが、衆は疲れ困じて落とせなかった。
- 呉漢・王常・蓋延・王梁・馬武・王霸らがみな到着した。帝はそこで諸軍を率いて進んで桃城を救い、自ら搏戦して大破した。龐萌・蘇茂・佼彊は夜に逃げて董憲に従った。
- 秋七月丁丑、帝が沛に行幸し、進んで湖陵に行幸した。董憲は劉紆とともに全兵数万人を昌慮に屯し、憲は五校の残賊を誘って建陽で拒み守った。
- 帝が蕃に至り、憲のいる所を去ること百余里。諸将が進撃を請うたが帝は聴かず、五校が糧に乏しく退くはずと知って、それぞれ壁を堅くしてその疲弊を待つよう命じた。ほどなく五校は果たして引き揚げた。
- 帝はそこで自ら臨んで四面から憲を攻め、三日で大破した。佼彊はその衆を率いて降り、蘇茂は張歩のもとへ逃げ、憲および龐萌は郯へ逃げて保った。
- 八月己酉、帝が郯に行幸し、呉漢を留めて攻めさせ、車駕は転じて彭城・下邳を徇えた。呉漢が郯を抜き、董憲と龐萌は朐へ逃げて保った。劉紆は帰る所がわからず、その軍士の高扈が斬って降った。呉漢は進んで朐を囲んだ。
- 冬十月、張歩は耿弇が来ると聞き、その大将軍の費邑を歴下に軍させ、また兵を祝阿に屯させ、別に泰山の鐘城に営を数十列ねて待った。
- 弇は河を渡ってまず祝阿を撃ち、朝から城を攻めて昼にならぬうちに抜いた。わざと囲みの一角を開けてその衆を鐘城へ逃げ帰らせた。鐘城の人は祝阿がすでに潰えたと聞いて大いに恐れ、ついに壁を空にして逃げ去った。
- 費邑は弟の敢を分け遣って巨里を守らせた。弇は兵を進めてまず巨里を脅し、軍中に攻城具の修理を急がせるよう厳命し、諸部に「三日後に力を尽くして巨里城を攻める」と布告した。ひそかに捕虜を緩めて逃げ帰らせ、弇の期日を邑に告げさせた。
- 邑はその日、果たして自ら精兵三万余人を率いて救いに来た。弇は喜んで諸将に言った。「攻城具を修理させたのは彼を誘い寄せるためだ。野戦の兵を撃たずして城を取ってどうする」と。ただちに三千人を分けて巨里を守らせ、自ら精兵を率いて岡の坂を上り、高きに乗じて合戦して大破し、陣頭で邑を斬った。
- そして首級を収めて城中に示すと、城中は震え上がった。費敢は全衆を挙げて張歩のもとへ逃げ帰った。弇はその蓄えを収め、兵を放ってまだ下らぬ者たちを撃ち、四十余営を平らげ、ついに済南を定めた。
- 当時、張歩は劇に都し、弟の藍に精兵二万を率いさせて西安を守らせ、諸郡の太守が合わせて一万余人で臨菑を守った。両城の距離は四十里。弇は軍を進めて画中に至り、二城の間に居た。
- 弇は見て取った。西安は城が小さいが堅固で、しかも藍の兵は精鋭。臨菑は名は大きいが実は攻めやすい。そこで諸校に「五日後に西安を攻める」と命じた。藍はこれを聞いて昼夜警戒して守った。
- 期日の夜半、弇は諸将にみな床の中で食事を済ませ、夜明けに臨菑城へ到着するよう命じた。護軍の荀梁らが争って言った。「臨菑を攻めれば西安が必ず救う。西安を攻めれば臨菑は救えぬ。西安を攻めるに如かず」と。
- 弇は言った。「そうではない。西安はわれが攻めると聞いて日夜備え、自分のことで手一杯だ。人を救う暇があるか。臨菑は不意に至れば必ず驚き騒ぎ、一日で必ず抜ける。臨菑が抜ければ西安は孤立し、劇とも隔てられて必ず逃げ去る。いわゆる一を撃って二を得るというものだ。もし先に西安を攻めてにわかに下せねば、堅城の下に兵を留めて死傷は必ず多い。たとえ抜けても、藍は軍を率いて臨菑へ逃げ、兵を併せ勢いを合わせて、こちらの虚実を窺うだろう。われは敵地深く入って後ろに輸送がない。旬月のうちに戦わずして窮する」と。
- そこで臨菑を攻めて半日で抜いた。入って城に拠った。張藍はこれを聞いて懼れ、その衆を率いて劇へ逃げ帰った。
- 弇は軍中に掠奪を禁じ、「張歩が来てから取る」として歩を激怒させようとした。歩は聞いて大笑いして言った。「尤来・大彤の十余万の衆でさえ、私はみなその営に迫って破った。今、大耿の兵はそれより少なく、しかもみな疲労している。何を懼れるに足りよう」と。
- そこで三人の弟の藍・弘・寿およびもと大彤の首領の重異らとともに、二十万と号する兵で臨菑の大城の東に至り、弇を攻めようとした。
- 弇は上書した。「臣は臨菑に拠って濠を深くし塁を高くしております。張歩は劇県から来て攻めるので疲労し飢渇しております。進もうとすれば誘って攻め、去ろうとすれば追って撃つ。臣が営に依って戦えば精鋭は百倍。逸をもって労を待ち、実をもって虚を撃てば、旬日のうちに歩の首を獲られましょう」と。
- そこで弇はまず菑水のほとりに出て重異と遭遇した。突騎が突撃しようとしたが、弇はその鋒を挫いて歩が進んで来なくなるのを恐れ、わざと弱みを見せてその気を盛んにさせ、小城へ引き返した。城内に兵を並べ、都尉の劉歆と泰山太守の陳俊に城下で陣を分けさせた。
- 歩は気が盛んで真っ直ぐ弇の営を攻め、劉歆らと合戦した。弇は王宮の壊れた台に登って眺め、歆らが鋒を交えるのを見計らって自ら精兵を率い、東の城下で歩の陣を横に突いて大破した。
- 飛矢が弇の股に当たった。弇は佩刀で切り取り、左右に知る者はなかった。日暮れになって兵を収め、翌朝また兵を整えて出た。
- このとき帝は魯にあり、弇が歩に攻められていると聞いて自ら救いに向かった。まだ着かぬうち、陳俊が弇に言った。「劇の虜の兵は盛んです。ひとまず営を閉ざして士を休ませ、主上の到着を待つべきです」と。弇は「乗輿がまさに到着される。臣子たるもの牛を屠り酒を漉して百官を待つべきなのに、かえって賊虜を君父に残そうというのか」と言った。
- そこで兵を出して大戦し、朝から日暮れまで戦って再び大破した。殺傷は数え切れず、濠は屍で満ちた。
- 弇は歩が困じて退くと見て、あらかじめ左右の翼を伏せて待った。夜が更けたころ歩は果たして引き揚げた。伏兵が起こって追い撃ち、鉅昧水のほとりまで八、九十里、屍が連なった。輜重二千余両を収めた。歩は劇へ帰り、兄弟はそれぞれ兵を分けて散り去った。
- 数日後、車駕が臨菑に至り、自ら軍を労った。群臣が大集した席で帝は弇に言った。「昔、韓信は歴下を破って基を開いた。今、将軍は祝阿を攻めて功名を起こした。これはみな斉の西境で、功は比べられる。しかも韓信はすでに降った者を襲撃したのに、将軍は独り強敵を抜いた。その功は信より難しい。また田横は酈生を煮殺し、田横が高帝に降ったとき、詔して衛尉に仇討ちを許さなかった。張歩も先に伏隆を殺した。もし歩が帰命すれば、私は大司徒に詔してその怨みを解かせよう。この事もまたよく似ている。将軍が先に南陽でこの大策を建てたとき、私は常に漠然として実現しがたいと思っていた。志ある者は事竟に成るものだ」と。
- 帝は進んで劇に行幸した。耿弇はまた張歩を追い、歩は平寿へ逃げた。蘇茂が一万余人を率いて救いに来た。茂は歩を責めた。「南陽の精兵と延岑の巧みな戦いをもってしても耿弇はこれを走らせた。大王はなぜその営を攻めに行かれたのか。茂を呼んでおきながら待てなかったのか」と。歩は「負けた、負けた。言うことはない」と言った。
- 帝が使者を遣って歩に「茂を斬って降れば列侯に封ずる」と告げた。歩はついに茂を斬り、耿弇の軍門で肌脱ぎになって降った。弇は歩を行在所へ送り、兵を整えて城に入って拠り、十二郡の旗と鼓を立て、歩の兵にそれぞれ郡ごとに旗の下へ来させた。衆はなお十余万、輜重は七千余両。みな解いて郷里へ帰した。
- 張歩の三人の弟はそれぞれ所在の獄に自ら繋がれたが、詔してみな赦した。歩を安丘侯に封じ、妻子とともに洛陽に住まわせた。
- そこで琅邪がまだ平らがなかったので、帝は陳俊を琅邪太守に移した。境に入るとすぐ盗賊はみな散った。耿弇はまた兵を率いて城陽に至り、五校の残党を降した。斉の地はことごとく平らぎ、軍を整えて京師へ帰った。
- 弇は将として平定した郡が四十六、屠った城が三百、ついに一度も挫折しなかった。
漢光武建武六年(30年)
- 呉漢らが朐を抜き、董憲と龐萌を斬った。江淮・山東はことごとく平らぎ、諸将は京師へ帰った。