通鑑紀事本末光武帝、隴・蜀を平定する(光武平隴蜀)
新末の擾乱に隗囂が天水に起こって西州上将軍を称し、公孫述が蜀に拠って成家皇帝を号する。光武帝は来歙・馬援を遣って隗囂を招き、竇融の河西五郡を味方につけて隴を攻め、略陽の攻防を経て隗囂を西城へ追い、その死後に隗純を降した。次いで岑彭・呉漢が江を遡って荊門の関を焼き、成都に迫って公孫述を斬る。更始元年(23年)から建武十三年(37年)まで、隴と蜀の二大勢力を併せるまでの15年間。
年表(15件)
- 淮陽王
- 更始元年23年隗囂が上将軍に推されて隴右を徇え、公孫述は成都で宗成を殺して自立の基を得る
- 更始二年24年公孫述が李宝・張忠を破って蜀王に立ち、隗囂は更始に留まって御史大夫となる
- 漢光武建武元年25年公孫述が成家皇帝を称し、隗囂は天水へ逃げ帰って西州上将軍を称する
- 漢光武建武二年26年公孫述が任満を扞関に拠らせ、益州の地をことごとく有する
- 漢光武建武三年27年来歙が初めて隗囂に使いし、囂は奏を奉じて洛陽に通ずる
- 漢光武建武四年28年馬援が公孫述を訪ねて見限り、洛陽で光武帝に会って心を寄せる
- 漢光武建武五年29年竇融が東に向かうことを決し、隗囂は王元の計を用いて隴に自守する
- 漢光武建武六年30年隗囂が隴坻を塞いで漢に叛き、ついに公孫述に臣と称する
- 漢光武建武七年31年公孫述が隗囂を朔寧王に立て、囂は安定を侵すが利なく還る
- 漢光武建武八年32年来歙が略陽を襲い、帝が親征して竇融と合流し、隗囂は西城へ走る
- 漢光武建武九年33年隗囂が憤死し、王元らはその子の純を立てて冀に拠る
- 漢光武建武十年34年来歙・馮異らが落門を攻め破り、隗純が降って隴が定まる
- 漢光武建武十一年35年岑彭が荊門の浮橋を焼いて江関に入るが、成都近くで刺客に殺される
- 漢光武建武十二年36年呉漢が成都に迫り、高午が公孫述を刺して蜀が滅ぶ
- 漢光武建武十三年37年呉漢が蜀から軍を整えて還り、京師に至る
淮陽王更始元年(23年)
- 秋七月、成紀の隗崔・隗義、上邽の楊広、冀の人の周宗がともに挙兵して漢に応じた。衆は数千人。平襄を攻めて王莽の鎮戎大尹の李育を殺した。
- 崔の兄の子の隗囂はもとより名声があり経書を好んだ。崔らはこぞって上将軍に推し、崔は白虎将軍、義は左将軍となった。
- 囂は使者を遣って平陵の方望を招き、軍師とした。望は囂に説いて邑の東に高廟を立てさせた。己巳、高祖・太宗・世宗を祀り、囂らはみな臣と称して事に当たり、馬を殺して盟い、劉氏の宗を興し輔けることを誓った。
- 檄を郡国に回して莽の罪悪を数え、兵十万を率いて雍州牧の陳慶と安定大尹の王向を撃ち殺し、諸将を分け遣って隴西・武都・金城・武威・張掖・酒泉・敦煌を徇え、みな下した。
- そもそも茂陵の公孫述は清水の長として有能の名があり、導江卒正に遷って臨邛を治めていた。漢兵が南陽で起こると、宗成と商人の王岑が挙兵して漢中を徇え漢に応じ、王莽の庸部牧の宋遵を殺した。衆は合わせて数万人。
- 述は使者を遣って成らを迎えた。成らは成都に至ると掠奪と横暴を働いた。述は郡中の豪傑を召して言った。「天下がそろって新室に苦しみ劉氏を思うこと久しい。ゆえに漢の将軍が来ると聞いて道で駆けつけて迎えた。今、百姓には罪がないのに婦子が捕らえられている。これは寇賊であって義兵ではない」と。
- そこで人に漢の使者と詐称させ、述に輔漢将軍・蜀郡太守兼益州牧の印綬を仮授させ、精兵を選んで西へ成らを撃って殺し、その衆を併せた。
淮陽王更始二年(24年)
- 春二月、更始が隗囂およびその叔父の崔・義らを召した。囂が発とうとすると、方望は更始の成敗はまだわからぬとして固く止めたが、囂は聴かなかった。望は書を送って辞し去った。
- 囂らが長安に至ると、更始は囂を右将軍とし、崔と義はいずれも旧の号のままとした。
- 南鄭の人の延岑が挙兵して漢中に拠った。漢中王の劉嘉が撃って降し、衆は数十万となった。
- 夏四月、更始が柱功侯の李宝と益州刺史の張忠を遣り、兵一万余人を率いて蜀漢を徇えさせた。公孫述は弟の恢を遣って綿竹で宝と忠を撃って大破し走らせた。述はそのまま自ら蜀王に立ち、成都に都した。民も夷もみな付いた。
- 冬、隗崔と隗義が叛いて天水へ帰ろうと謀った。隗囂は禍が自分にも及ぶのを恐れ、これを更始に告げた。崔と義は誅され、囂は御史大夫となった。
- 汝南の田戎が夷陵を攻め陥れた。衆は数万人。
漢光武建武元年(25年)
- 春正月、蜀郡功曹の李熊が公孫述に天子を称すべきだと説いた。
- 夏四月、述が帝位に即き、成家と号して龍興と改元した。李熊を大司徒、述の弟の光を大司馬、恢を大司空とした。越嶲の任貴が郡に拠って述に降った。
- 六月、隗囂が逃げて天水へ帰った。
- 十二月、隗囂は天水へ帰ると改めて衆を招き集め、旧業を興し修め、自ら西州上将軍と称した。三輔の士大夫で乱を避ける者の多くが囂に帰した。
- 囂は身を低くして引き入れ、布衣の交わりを結んだ。平陵の范逡を師友、前の涼州刺史で河南の鄭興を祭酒、茂陵の申屠剛と杜林を治書、馬援を綏徳将軍とし、楊広・王遵・周宗および平襄の行巡、阿陽の王捷、長陵の王元を大将軍、安陵の班彪らを賓客とした。これによって名は西州に震え、山東にまで聞こえた。
- そもそも平陵の竇融は代々河西に仕官し、その土地の風俗をよく知っていた。更始の右大司馬の趙萌と親しかったので、萌を通じて河西へ行くことを求めた。萌が融を更始に薦め、張掖属国都尉となった。
- 当時、酒泉太守の梁統、金城太守の庫鈞、張掖都尉の史苞、酒泉都尉の竺曾、敦煌都尉の辛肜はいずれも州郡の俊才で、融はみなと厚く親しんだ。
- 更始が敗れると、融は梁統らと議した。「今、天下は擾乱して帰すべき先がわからぬ。河西は隔絶して羌胡の中にあり、心を同じくして力を尽くさねば自ら守れぬ。権も力も等しいままでは互いを率いる者がない。一人を推して大将軍とし、ともに五郡を全うすべきだ」と。
- 議が定まると、融を推して河西の事および五郡大将軍の事を行わせ、梁統を武威太守、史苞を張掖太守、竺曾を酒泉太守、辛肜を敦煌太守とした。融は属国に居て都尉を領すること従来どおりとし、従事を置いて五郡を監察させた。
- 馮愔が反して兵を率いて天水へ向かうと、隗囂は撃ち破った。鄧禹は制を承けて囂を西州大将軍とし、涼州・朔方の事を専制させた。
漢光武建武二年(26年)
- 二月、延岑がまた反して南鄭を囲んだ。漢中王の嘉は兵敗れて逃げ、岑はそのまま漢中に拠った。兵を武都に進めたが更始の柱功侯の李宝に破られ、岑は天水へ逃げた。
- 公孫述が将の侯丹を遣って南鄭を取った。嘉は散兵を集めて数万人を得、李宝を相とし、武都から南へ侯丹を撃ったが不利で、河池・下辨へ軍を還した。また延岑と連戦し、岑は北へ散関に入って陳倉に至った。嘉は追撃して破った。
- 公孫述はまた将軍の任満を遣って閬中から江州へ下らせ、東の扞関に拠った。こうして益州の地をことごとく有した。
漢光武建武三年(27年)
- 十一月、帝が太中大夫の来歙に言った。「今、西州はまだ服さず、子陽(公孫述)は帝を称し、道のりは遠く隔たっている。諸将は関東に手を取られており、西州への方略をどこに求めるべきかわからぬ。どうしたものか」と。
- 歙は答えた。「臣はかつて長安で隗囂と会いました。あの人は起った当初、漢を名としておりました。臣が威命を奉じて明白な信をもって開き示せば、囂は必ず手を束ねて自ら帰服しましょう。そうなれば述は自ら亡ぶ勢いで、図るに足りません」と。帝はもっともとし、初めて歙を囂のもとへ使いに出した。
- 囂はすでに漢に功があり、また鄧禹の授けた爵位を受けていた。その腹心も議して京師と使いを通ずるよう勧める者が多かったので、囂はそこで奏を奉じて闕に赴かせた。帝は特別の礼で答え、言うのに字を用い、敵国の儀を用いた。慰撫はきわめて手厚かった。
漢光武建武四年(28年)
- 二月、延岑がまた順陽を侵した。鄧禹を遣って兵を率いて撃ち破らせた。岑は漢中へ逃げた。公孫述は岑を大司馬とし汝寧王に封じた。
- 冬十月、隗囂が馬援を遣って公孫述の様子を見に行かせた。援はもとより述と同じ里の出で親しかったので、着けば手を取り合って昔どおり歓ぶだろうと思っていた。ところが述は階段に衛兵を並べ立てて援を招き入れ、拝礼が終わると出て館に就かせ、改めて援のために都布の単衣と交譲冠を作らせ、宗廟の中に百官を集めて旧交の席を設けた。述は鸞旗と旄騎を連ね、警蹕して車に就き、体を折って入り、官属を饗する礼はきわめて盛大だった。援に封侯と大将軍の位を授けようとした。
- 賓客はみな留まりたがった。援は諭して言った。「天下の雌雄はまだ決していない。公孫は食を吐き出して国士を走り迎え、ともに成敗を図ろうともせず、かえって身なりを飾って人形のようだ。この男がどうして久しく天下の士を留めておけようか」と。そして辞して帰り、囂に言った。「子陽は井の底の蛙にすぎず、妄りに自ら尊大に構えている。もっぱら東方に意を向けるに如きません」と。
- 囂はそこで援に書を奉じて洛陽へ遣った。援が着いてしばらくして中黄門が引き入れた。帝は宣徳殿の南の廡の下で頭巾だけの姿で坐って迎え、笑って言った。「卿は二人の帝の間を遊び歩いている。今、卿を見て、こちらが甚だ恥ずかしい」と。
- 援は頓首して謝し、言った。「今の世は、君が臣を選ぶだけでなく、臣もまた君を選びます。臣は公孫述と同県で若いころ親しかった。臣が先に蜀へ行くと、述は階段に戟を並べてから臣を入れました。臣が今、遠くから来たのに、陛下はどうして刺客や姦人でないと知って、これほど気安くしておられるのですか」と。
- 帝はまた笑って「卿は刺客ではない。ただの説客だ」と言った。援は言った。「天下は覆り、名分を盗む者は数え切れません。今、陛下の恢廓たる大度が高祖と符を同じくするのを見て、帝王には自ずと真の者があると知りました」と。
- 十二月、公孫述は兵数十万人を集め、漢中に糧を積み、また十層の楼船を造り、天下の牧守の印章を多く刻ませた。将軍の李育・程烏を遣って数万の衆を率いて陳倉に出て屯し、呂鮪に付いて三輔を徇えさせた。馮異が迎え撃って大破し、育と烏はともに漢中へ逃げた。異は還って呂鮪を撃ち破り、降る営や砦は甚だ多かった。
- このとき隗囂が兵を遣って異を助け功があった。使者を遣って状況を上ると、帝は手書で答えた。
- 徳義を慕い楽しみ、結び合いたいと思っている。昔、文王は天下の三分の二を有してなお殷に服事した。ただ駑馬や鉛の刀は強いて支えられぬもの。たびたび伯楽の一顧の値を蒙っている。
- 将軍は南に公孫の兵を拒み、北に羌胡の乱を防いでいる。だからこそ馮異は西征して数千百人の兵で三輔に留まっていられる。将軍の助けがなければ咸陽はすでに他人に取られていた。
- もし子陽が漢中に至れば、三輔では将軍の兵馬を頼み、旗鼓を相対させたい。もしその通りにしていただけるなら、それこそ智士が功を計り地を割く秋である。
- 管仲は「われを生んだのは父母、われを成したのは鮑子」と言った。今より後は手書で連絡し、傍らの者の離間の言を用いぬようにしよう。
- その後、公孫述はたびたび将を遣って間道から出したが、囂はその都度馮異と勢いを合わせてこれを挫いた。述が使者を遣って大司空・扶安王の印綬を囂に授けようとすると、囂はその使者を斬り、兵を出して撃った。ゆえに蜀の兵は二度と北へ出なかった。
漢光武建武五年(29年)
- 春正月、帝は来歙に節を持たせて馬援を隴右へ送り返した。隗囂は援と起き伏しを共にし、東方のことを問うた。
- 援は言った。「先に朝廷へ参りましたとき、主上は十数回引見され、そのつど親しく語られること夕べから朝に及びました。才は明らかで勇と略は人の敵する所ではありません。しかも心を開いて誠を見せ、隠すところがない。闊達で大節が多く、おおむね高帝と同じ。経学は博覧、政事と弁論は前世に比べる者がありません」と。
- 囂が「卿は高帝と比べてどうと思うか」と問うと、援は「及びません。高帝には可もなく不可もなかった。今の主上は吏事を好み、動きは節度どおり。また酒を飲むのを好まれません」と答えた。囂は不快そうに「卿の言うところでは、かえって勝るということか」と言った。
- 二月、岑彭が夷陵を攻め抜いた。田戎は逃げて蜀に入り、その妻子と士衆数万人をことごとく獲た。公孫述は戎を翼江王とした。
- 岑彭は蜀を伐とうと謀ったが、両岸に挟まれた川筋は穀が少なく水は険しくて漕運が難しかった。そこで威虜将軍の馮駿を江州に、都尉の田鴻を夷陵に、領軍の李玄を夷道に軍させ、自ら兵を率いて津郷に屯した。荊州の要衝に当たり、諸蛮夷を諭し告げ、降った者はその君長を封ずるよう奏した。
- 夏四月、隗囂が班彪に問うた。「昔、周が亡んで戦国が争い、数代を経て定まった。思うに、合従連衡の事が今また起こるのか。それとも運を承けて代わる代わる興り、結局は一人に帰するのか」と。
- 彪は答えた。
- 周の廃興は漢とはまったく異なります。昔、周は爵を五等とし、諸侯が政に与った。根本が弱く枝葉が強大だったので、その末流に合従連衡の事があった。勢いと数がそうさせたのです。
- 漢は秦の制を承けて郡県を立て、主には専断の威があり、臣には百年の権柄がない。成帝に至って外戚に権を借し、哀帝・平帝は在位が短く国嗣が三度絶えた。ゆえに王氏が朝を擅にして号位を窃んだ。危うさは上から起こり、傷は下に及ばなかった。だから真位に即いた後、天下は首を伸ばして嘆かぬ者がなかった。
- 十余年の間に中外は騒擾し、遠近がともに蜂起し、号を仮る者が雲のように集まりながら、みなそろって劉氏を称した。相談もせぬのに言葉が同じだったのです。
- 今、雄傑で州域を有する者はみな六国のような世襲の資がなく、百姓は口ずさんで漢を仰いでいる。必ず再興することはすでに明らかです。
- 囂は言った。「生(あなた)が周と漢の勢いを言うのはよい。だが、愚民が劉氏の姓号を覚えているだけを見て漢が再興すると言うのは粗雑だ。昔、秦がその鹿を失い劉季が追って捕らえたとき、民はまた漢を知っていたか」と。
- 彪はそこで王命論を著して諷諫した。
- 昔、堯が舜に禅るとき「天の暦数は爾の身にあり」と言い、舜もまた同じ言葉で禹に命じた。稷や契に至るまでみな唐虞を佐け、湯・武に至って天下を有した。劉氏は堯の祚を承け、堯は火徳に拠り漢がこれを継いだ。赤帝の子の符があった。ゆえに鬼神に福され、天下の帰するところとなった。
- これから言えば、運も世も本なく功徳も記されぬのに、身を屈して起ちこの位に就けた者は見たことがありません。
- 俗人は高祖が布衣から興ったのを見てその理由を悟らず、天下を鹿を追うことに比べ、うまく捷って得たと思う。神器には命があり、智と力で求められぬことを知らないのです。悲しいことだ。これが世に乱臣賊子の多い所以です。
- 飢え流れる下賤の者は、飢寒の道中で願うのはただ一金だけ。それでもついに溝壑に転がり死ぬ。なぜか。貧窮にもまた命があるからです。まして天子の貴さ、四海の富、神明の祚を、妄りに得られましょうか。
- ゆえに、たとえ厄運に遭ってその権柄を窃み、韓信・英布ほど勇があり、彭越・項籍ほど強く、王莽ほど成功しても、ついには釜ゆでとなり斧に伏し、切り刻まれ引き裂かれた。まして数子にも及ばぬ小者が、暗々のうちに天位を犯そうとしてどうなりましょう。
- 昔、陳嬰の母は嬰の家が代々貧賤で急に富貴になるのは不祥だとして、嬰を止めて王とならせなかった。王陵の母は漢王が必ず天下を得ると知り、剣に伏して死んで陵を励ました。一介の婦人の明でさえ事理の帰趨を推し、禍福の機を探って、宗祀を無窮に全うし、策書を春秋に垂れた。まして大丈夫の事においては。
- ゆえに窮達には命があり、吉凶は人による。嬰の母は廃を知り、陵の母は興を知った。この二つをよく見れば、帝王の分は決まっています。
- 加えて高祖は寛明で仁恕、人を知ってよく任用し、食事中でも吐き出して子房の策を納れ、足を洗う手を止めて酈生の説に礼を執り、韓信を隊列から挙げ、陳平を亡命から収めた。英雄が力を陳べ、群策がことごとく挙がった。これが高祖の大略が帝業を成した所以です。
- 霊瑞と符応に至っては、その事は甚だ多い。ゆえに淮陰侯や留侯は「天授であって人力ではない」と言いました。
- 英雄がまことに覚り悟り、超然と遠く見渡し、深く識り、王陵・陳嬰の母の明を収め、韓信・英布の覬覦を絶ち、鹿を追うという盲説を斥け、神器に授かる者があることを審らかにし、冀えぬものを貪らず、二人の母に笑われぬようにするなら、福祚は子孫に流れ、天禄は永く終わりを全うするでしょう。
- 囂は聴かなかった。彪はついに河西へ避難した。竇融は彪を従事として甚だ礼遇し重んじた。彪はそこで融のために策を画き、もっぱら漢に仕えさせた。
- そもそも竇融らは帝の威徳を聞いて心では東に向かおうとしていたが、河西は遠く隔たって自ら通じられず、隗囂を通じて建武の正朔を受けていた。囂はみなに将軍の印綬を仮授していた。
- 囂は外では人望に順いつつ内には異心を懐き、弁士の張玄を遣って融らに説かせた。「更始の事はいったん成りながら、ほどなく滅びた。これは一姓が二度は興らぬ証しである。今もし主とする者を得てすぐ従属すれば、一朝拘束されて自ら権柄を失い、後に危うく敗れても悔いても及ばぬ。今、豪傑が競い合い雌雄はまだ決していない。それぞれ土地を保ち隴・蜀と合従すれば、上は六国となり、下も尉佗を失うまい」と。
- 融らが豪傑を召して議すると、識者はみな言った。「今の皇帝の姓名は図書に見えている。前世の博物・道術の士の谷子雲や夏賀良らはみな『漢には再び命を受ける符がある』と言い、ゆえに劉子駿は名を改めてその占に応じようとした。莽の末に西門君恵が子駿を立てようと謀って発覚し殺されたとき、出て見物人に『讖文は誤らぬ。劉秀こそまことにお前たちの主だ』と言った。これはみな近い出来事で、明白に衆が見た事である。まして今、帝を称する者が数人ある中で、洛陽は土地が最も広く、兵は最も強く、号令は最も明らか。符命を観、人事を察すれば、他姓は到底及ばぬだろう」と。
- 衆議は同じ者もあれば異なる者もあったが、融はついに東に向かうことを決し、長史の劉鈞らに書を奉じて洛陽へ遣った。
- これに先立ち、帝もまた使者を発して融に書を送り招いていた。使者は道で鈞に遇い、ともに帰った。帝は鈞に会って甚だ歓び、礼をもって饗した後、帰らせて融に璽書を賜った。
- 今、益州には公孫子陽、天水には隗将軍がある。まさに蜀と漢が攻め合っており、権は将軍にある。足を左右に挙げるだけで軽重が生ずる。これから言えば、厚遇したい思いに限りがあろうか。
- 桓公・文公のように微弱な国を輔けたいなら、努めて功業を成し遂げよ。鼎の足のように三分し、連衡合従したいなら、これもまた時をとらえて決すべきだ。天下がまだ併せられぬうちは、私と爾とは隔絶した地にあり、呑み合う国ではない。
- 今の議者には必ず、任囂が尉佗に教えて七郡を制した計を勧める者があろう。王者には土を分かつことはあっても民を分かつことはない。自ら己の事に適うようにするだけである。
- そのついでに融を涼州牧に授けた。璽書が河西に至ると、河西の人々はみな驚き、「天子は万里の外まで明らかに見ておられる」と言った。
- 十二月、隗囂は自らを誇り智を飾り、常に自分を西伯になぞらえて、諸将と議して王を称そうとした。
- 鄭興が言った。「昔、文王は天下の三分の二を有してなお殷に服事し、武王のときは八百の諸侯が相談もせずに集まったのに、なお兵を還して時を待った。高祖は征伐すること年を重ねてもなお沛公として軍を率いた。今、令徳が明らかであっても世に宗周の祚はなく、威略が振るっても高祖の功はない。それでできぬ事を挙げれば、禍患を早く招くだけ。不可なのではありませんか」と。囂はそこでやめた。
- 後にまた職位を広く置いて自らを尊く高くしようとした。鄭興は言った。「そもそも中郎将・太中大夫・使持節の官は、みな王者の器であって人臣が制すべきものではありません。実には益なく名を損ない、上を尊ぶ意ではありません」と。囂はこれを気に病んでやめた。
- 当時、関中の将帥はたびたび上書して蜀を撃てる状況を述べた。帝はその書を囂に示し、そのついでに蜀を撃たせてその信を効させようとした。囂は上書して「三輔は単弱で、劉文伯(盧芳)が辺境にある。まだ蜀を謀るべきではありません」と盛んに述べた。
- 帝は囂が両端を持して天下の統一を願っていないと知り、そこでその礼をしだいに下げ、君臣の儀を正した。
- 帝は囂が馬援・来歙と親しいので、たびたび歙と援を使いに遣り、入朝を勧めて重い爵を約束させた。囂は続けて使者を遣り、深く謙辞を用いて「功徳がありません。四方が平定されたら退いて閭里に伏したい」と言った。
- 帝はまた来歙を遣って囂に子を入侍させるよう説かせた。囂は劉永と彭寵がみな破滅したと聞き、長子の恂を歙に随行させて闕へ遣った。帝は胡騎校尉として鐫羌侯に封じた。
- 鄭興は恂に付いて父母を葬りに帰りたいと願い出た。囂は聴かず、興の舎を移してその秩と礼を増した。興は入って言った。「今は父母がまだ葬られていないので骸骨を乞うたのです。それを秩を増し舎を移して途中に留めるのは、親を餌にするというもの。無礼が甚だしい。将軍がそんなことをして何になりましょう。妻子を留めて独りで葬りに帰りますから、将軍は何を疑われますか」と。囂はそこで妻子ともども東へ帰らせた。
- 馬援もまた家族を連れて恂に従い洛陽へ帰った。連れてきた賓客が甚だ多いので、上林苑の中で屯田したいと求め、帝は許した。
- 囂の将の王元は、天下の成敗はまだわからぬとして、もっぱら内に仕えることを願わず、囂に説いた。
- 昔、更始が西の都に入ったとき四方が響応し、天下は仰いで太平と言った。それが一朝にして壊れ敗れ、将軍は身の置き所もないところだった。
- 今、南に子陽があり、北に文伯があり、江・湖・海・岱に王公が十数人。それを儒生の説に引かれて千乗の基を棄て、危うい国に身を寄せて万全を求めるのは、覆った車の轍を踏むというものです。
- 今、天水は無事で富み、士馬は最も強い。元は一丸の泥をもって大王のために東の函谷関を封じましょう。これは万世に一度の時です。
- もし計がそこまで及ばずとも、ひとまず士馬を養い、隘路に拠って自守し、日を重ねて久しく持ちこたえ、四方の変を待つ。王を図って成らずとも、覆いとしてなお霸には足ります。要するに、魚は淵を脱してはならず、神龍も勢いを失えば蚯蚓と同じです。
- 囂は元の計をもっともとし、子を人質に出しながらも、その険阻を頼んで一方を専制しようとした。
- 申屠剛が諫めた。「愚か者ながら聞きます。人の帰するところは天の与えるところ、人の叛くところは天の去るところと。本朝はまことに天の福するところで、人力ではありません。今、璽書がたびたび届き、国を委ね信を寄せ、将軍と吉凶を共にしようとされている。布衣どうしでさえ身を没するまで諾を負かぬ信がある。まして万乗の主においては。今、何を畏れ何を利として、これほど久しく疑われるのか。急に非常の変が起これば、上は忠孝に負き下は当世に恥じます。事が至らぬうちに予言すればいつも虚言とされ、至ってからでは間に合わない。だから忠言や至諫はまれにしか用いられぬのです。どうか愚老の言を繰り返しお考えください」と。
- 囂は容れなかった。こうして遊士や長者がしだいに去っていった。
漢光武建武六年(30年)
- 春正月、帝は長らく兵事に苦労してきたが、隗囂が子を入侍させ公孫述は遠く辺境に拠っているので、諸将に言った。「ひとまずこの二人は勘定の外に置いておこう」と。そこで諸将を洛陽で休ませ、軍士を河内に分け、たびたび隴と蜀へ書を送って禍福を示した。
- 公孫述はしばしば中国へ書を送って自ら符命を陳べ、衆を惑わそうとした。帝は述に書を送った。「図讖に『公孫はすなわち宣帝』とある。『漢に代わる者は姓は当塗、その名は高』ともある。君がどうして高その人であろうか。その上また掌の文を瑞としている。王莽など倣うに足りようか。君は私の賊臣・乱子ではない。倉卒の時に人がみな君のために動いただけだ。君の日月はすでに過ぎ、妻子は幼い。早く計を定めるべきだ。天下は神器であって力で争えぬ。三思されたい」と。署名を「公孫皇帝」とした。述は答えなかった。
- その騎都尉で平陵の荊邯が述に説いた。
- 漢の高祖は隊列の中から起こり、兵は破れ身は困じたことが何度もあった。それでも軍が敗れればまた合わせ、傷が癒えればまた戦った。なぜか。前に進んで死んで功を成すほうが、退いて滅亡に就くより勝るからです。
- 隗囂は運会に遭って雍州を割き有し、兵は強く士は付き、威は山東に及んだ。更始の政が乱れてまた天下を失い、民衆は首を伸ばし四方は瓦解した。囂はこの時に危うきを推し勝ちに乗じて天命を争わず、退いて西伯の事をしようとした。師を尊んで章句を講じ、処士を賓友とし、武を偃せ戈を息め、卑辞して漢に仕え、感慨にふけって自ら文王の再来と思った。そのため漢帝は関隴の憂いを解いて、もっぱら東征に精を尽くし、天下を四分してその三を有した。
- 間諜を発して離反者を招き、西州の豪傑をみな山東に心を寄せさせれば、五分してその四を有する。天水に兵を挙げれば必ず崩れ、天水が定まれば九分してその八を有する。陛下は梁州の地で内は天子の用を奉じ外は三軍に給されているが、百姓は愁え困じて上の命に堪えず、王氏のように自ら潰える変が起こりましょう。
- 臣の愚計では、天下の望みがまだ絶えず豪傑をまだ招き誘えるうちに、急ぎこの時をとらえて国内の精兵を発し、田戎に江陵に拠って長江以南の要に臨ませ、巫山の固めを頼んで塁を築いて堅く守らせ、檄を伝えれば呉・楚・長沙以南は必ず風になびきます。延岑を漢中から出して三輔を定めれば、天水・隴西は手を拱いて自ずと服す。こうすれば海内は震え動き、大利を望めます。
- 述が群臣に問うと、博士の呉柱が言った。「武王が殷を伐ったとき八百の諸侯が期せずして言を同じくしたが、それでも師を還して天命を待った。左右の助けもなく千里の外へ出師しようという話は聞いたことがありません」と。
- 邯は言った。「今、東帝には尺土の権柄もなく、烏合の衆を駆り、馬に跨って敵に当たり、向かうところみな平らげている。速やかに時に乗じて功を分かとうとせず、坐して武王の説を談ずるのは、また隗囂に倣って西伯となろうというものだ」と。
- 述は邯の言をもっともとし、北軍の屯士および山東の客兵をことごとく発し、延岑と田戎を二道に分けて出し、漢中の諸将と兵を合わせ勢いを併せようとした。しかし蜀の人およびその弟の光は「国を空にして千里の外に出、成敗を一挙に決すべきではない」として固く争った。述はそこでやめた。
- 延岑と田戎もたびたび兵を請うて功を立てようとしたが、述はついに疑って聴かず、ただ公孫氏だけが事に当たれた。
- 述は銅銭を廃して鉄銭を置いたが貨幣は流通せず、百姓は苦しんだ。政を行うのに苛細で小事を穿鑿し、清水令だったころと変わらなかった。郡県や官の名を改めるのを好んだ。若いころ郎だったので漢家の故事に通じており、出入りには法駕・鸞旗・旄騎を用いた。また二人の子を王に立て、犍為・広漢の数県ずつを食ませた。
- ある者が諫めた。「成敗はまだわかりません。兵士は野に晒されているのに先に愛子を王とされるのは、大志のないことを示すものです」と。述は従わなかった。これによって大臣はみな怨んだ。
- 三月、公孫述が田戎を江関から出して旧衆を招き、荊州を取ろうとしたが成らなかった。
- 帝は隗囂に詔して天水から蜀を伐とうとした。囂は上言した。「白水は険阻で桟道は崩れております。述の性は厳酷で上下が互いに患えている。その罪悪が十分に明らかになってから攻めれば、一声で響き応ずる勢いとなりましょう」と。
- 帝は囂がついに用に立たぬと知り、討つことを謀った。
- 夏四月丙子、帝が長安に行幸して園陵に謁し、耿弇・蓋延ら七将軍を遣って隴道から蜀を伐たせることにした。まず中郎将の来歙を遣って璽書を賜り、囂に趣旨を諭させた。囂はまた疑いを多く並べて口実とし、久しく決しかねた。
- 歙はついに発憤して囂を詰責した。「国家は君が善悪を知り廃興をわきまえていると思い、手書で意を尽くされた。足下は忠誠を推して伯春(恂)を遣って人質としながら、かえって佞邪の言を用いて族滅の計を立てようというのか」と。そして前に進んで囂を刺そうとした。囂は起って中に入り、兵を配して歙を殺そうとした。歙は静かに節を杖ついて車に就いて去った。囂は牛邯に兵を率いて包囲し守らせた。
- 囂の将の王遵が諫めた。「君叔(歙)は単車の遠使とはいえ陛下の従兄です。殺しても漢に損はなく、ただちに族滅が続くだけ。昔、宋が楚の使者を捕らえて骸を分け子を易えて食う禍を招いた。小国ですら辱められぬのに、まして万乗の主。しかも伯春の命がかかっています」と。
- 歙は人となり信義があり、言行が違わず、往来して遊説したことはみな照らし合わせて検証できたので、西州の士大夫はみな信じ重んじ、その弁護をする者が多かった。ゆえに免れて東へ帰ることができた。
- 五月、隗囂はついに兵を発して反し、王元に隴坻に拠らせて木を伐って道を塞がせた。諸将は囂と戦って大敗し、それぞれ兵を率いて隴を下った。囂が急ぎ追うと、馬武が精騎を選んで後拒となり数千人を殺した。諸軍はようやく還ることができた。
- 諸将が隴を下ると、帝は耿弇を漆に、馮異を栒邑に、祭遵を汧に軍させ、呉漢らは還って長安に屯させた。
- 馮異が軍を率いてまだ栒邑に着かぬうち、隗囂は勝ちに乗じて王元と行巡に二万余人を率いて隴を下らせ、巡を分け遣って栒邑を取らせようとした。異はただちに兵を馳せて先に拠ろうとした。
- 諸将が言った。「虜の兵は盛んで勝ちに乗じている。鋒を争うべきではありません。都合のよい地に軍を止め、ゆっくり方略を考えるべきです」と。
- 異は言った。「虜の兵は境に臨み、小利に慣れて深入りしようとしている。もし栒邑を取られれば三輔が動揺する。そもそも攻める者は足りず、守る者は余りがある。今、先に城に拠って逸をもって労を待つのは、鋒を争うことではない」と。
- ひそかに赴いて城を閉ざし、旗鼓を伏せた。行巡は知らずに馳せ向かった。異はその不意に乗じ、突如鼓を打ち旗を立てて出た。巡の軍は驚き乱れて逃げ走り、追撃して大破した。
- 祭遵もまた汧で王元を破った。こうして北地の諸豪長の耿定らはことごとく隗囂に叛いて降った。詔して異を義渠へ進軍させ、盧芳の将の賈覧と匈奴の奥鞬日逐王を撃ち破らせた。北地・上郡・安定はみな降った。
- 竇融はまた弟の友を遣って上書した。「臣は幸いに先后の末属に連なり、代々二千石を歴、臣もまた将帥に任じて一隅を守っております。ゆえに劉鈞を遣って肝胆を口で陳べさせ、内心を余さず露わにして、いささかの隔てもないつもりでした。ところが璽書には蜀・漢二主と鼎足三分の権、任囂・尉佗の謀が盛んに述べられていた。ひそかに自ら痛み傷んでおります。臣融は識見なくとも、利害の際、順逆の分は知っております。どうして真の旧主に背いて姦偽の人に仕え、忠貞の節を廃して傾覆の事をなし、すでに成った基を棄てて望みのない利を求めましょう。この三つは狂夫に問うてすら去就がわかること。臣ひとりどうしてそんな心を用いましょうか。謹んで弟の友を闕へ遣って至誠を口で陳べさせます」と。
- 友は高平まで来たが、折しも隗囂が反して道が通じなかった。そこで司馬の席封を間道から遣って書を通じた。帝はまた封を遣って融と友に書を賜り、慰藉すること甚だ手厚かった。
- 融はそこで隗囂に書を送った。
- 将軍が自ら厄運に遭い、国家が不利だった時に、節を守って翻らず本朝に仕えられた。融らが高義に欣び服し、将軍のもとで役に従いたいと願ったのは、まことにこのためです。
- それが憤りの一瞬に節を改め図りを易え、成った功を捨てて成りがたい難を作られた。百年かけて積んだものを一朝にして毀つ。惜しいことではありませんか。おそらくは執事の者が功を貪って謀を建て、ここに至ったのでしょう。
- 当今、西州は地勢が狭く迫り、民も兵も離散している。人を輔けるには易いが自ら立つには難しい。もし路を失って引き返さず、道を聞いてなお迷えば、南は子陽と合するか、北は文伯に入るしかない。虚しい交わりを頼んで強い相手を侮り、遠い救いを恃んで近い敵を軽んじる。その利は見えません。
- 兵が起こって以来、城郭はみな丘墟となり、生民は溝壑に転がった。幸いに天運がやや戻ったのに、将軍がまたその難を重ねられる。これでは長患いが癒えず、幼子や孤児がまた流離することになる。言うだに鼻の奥が痛む。凡人ですら忍びない。まして仁者においては。
- 融は聞きます。忠を尽くすのはたやすいが、適切であるのは難しく、人を憂えることが過ぎれば徳をもって怨みを取ると。この言葉で罪を得ることも承知しております。
- 囂は容れなかった。融はそこで五郡の太守とともに兵馬を励まし、上疏して出師の期日を請うた。帝は深く嘉美した。
- 融はただちに諸郡守とともに兵を率いて金城に入り、囂の党の先零羌の封何らを撃って大破し、そのまま黄河沿いに武威を示して車駕を待った。当時、大軍がまだ進んでいなかったので、融は引き返した。
- 帝は融の信と効が明らかなのをいよいよ嘉し、融の父の墳墓を修理して太牢で祀り、たびたび軽装の使者を馳せて四方の珍味を贈った。
- 梁統はなお衆心の疑惑を恐れ、人を遣って張玄を刺殺させ、ついに隗囂と絶ち、みな仮授された将軍の印綬を返した。
- これに先立ち、馬援は隗囂が漢に二心を抱こうとしていると聞き、たびたび書を送って責め諭した。囂は書を得るごとに怒りを増した。囂が兵を発して反すると、援は上書した。「臣と隗囂はもと実の交友でした。初め臣を東へ遣るとき、臣に『もともと漢のためになろうと思う。足下が行って観てきて、お前の意にかなうならもっぱら心を寄せよう』と言いました。臣が帰って赤心をもって報じたのは、まことに善に導こうとしたので、義でないことで欺こうとしたのではありません。ところが囂は自ら姦心を挟み、盗が主人を憎むように、怨毒の情はついに臣に向かいました。臣が言わねば上聞に達しません。行在所へ参って囂を滅ぼす術を存分に陳べたく願います」と。
- 帝はそこで召した。援は具さに謀を述べた。帝はそれで援に突騎五千を率いさせ、囂の将の高峻・任禹らから羌の豪族に至るまで往来して遊説させ、禍福を陳べて囂の支党を離れさせた。
- 援はまた囂の将の楊広に書を送り、囂に諭し勧めさせた。
- 援がひそかに見るに、四海はすでに定まり、兆民は情を同じくしている。それを季孟(囂)が閉じ拒んで背き叛き、天下の的となっている。常に海内が切歯して屠り裂こうと思うのを懼れ、ゆえに書を送って未練がましく惻隠の計を尽くしてきた。
- ところが季孟は罪を援に帰し、王游翁(王元)の諂邪の説を納れ、そのため自ら「函谷以西は足を挙げれば定まる」と言っているとか。今から観て、いったいどうなったか。
- 援は先ごろ河内に至って伯春(恂)を見舞った。その奴の吉が西方から帰ってきて、伯春の弟の仲舒が吉を遠くに見て伯春の無事を問おうとしながら、ついに言葉にならず、朝な夕なに号泣して塵の中を転げ回ったと語った。またその家の悲愁の有様は言葉にならぬと言った。そもそも怨讐は刺し殺せても誹れぬもの。援はこれを聞いて我知らず涙を落とした。
- 援はもとより季孟の孝愛が曾参・閔子騫にも劣らぬと知っている。その親に孝な者が、どうしてその子に慈しみを持たぬはずがあろう。子が三木の枷を負っているのに跳ね回って妄りに振る舞い、自ら羹を分けろというような真似をしてよいものか。
- 季孟は平生、兵衆を擁するのは父母の国を保全し墳墓を全うするためだと言い、また士大夫を厚遇するだけだと言っていた。ところが今、全うしたいものは破れ亡び、完うしたいものは毀れ傷つき、厚くしたいものはかえって薄くなろうとしている。
- 季孟はかつて子陽をやり込めてその爵を受けなかった。それが今また、こそこそと附こうとしている。顔向けが難しいのではないか。もしまた重い人質を求められたら、どこから主君の子を出すのか。
- かつて子陽は独り王として遇そうとし、春卿(楊広)はこれを拒んだ。それが今、老いて頭を垂れ、小僧どもと同じ飼い葉桶で食い、怨敵の朝廷で肩を並べ身を側めようというのか。
- 今、国家が春卿を待つ意は深い。牛孺卿(牛邯)と諸々の耆老・大人とともに季孟に説くべきだ。もし計画が容れられなければ、まことに首を伸ばして去ってよい。
- 先に地図を広げて見たが、天下の郡国は百六か所ある。どうして区々たる二つの国で諸夏の百四に当たろうというのか。
- 春卿が季孟に仕えるのは、外には君臣の義、内には朋友の道がある。君臣というなら当然諫争すべきだし、朋友というなら切磋があるはず。成らぬと知りながら、ただ萎え縮んで舌を噛み、手を組んで一族に従うということがあろうか。今のうちに計を成せば、まだ大いに善い。これを過ぎれば味気なくなる。
- しかも来君叔(来歙)は天下の信士で朝廷が重んじている。その意は情に厚く、常に独り西州のために弁じている。援が朝廷を計るに、とりわけここに信を立てようとされているので、必ず約を負かれることはない。援は久しく留まれぬ。急ぎ返事を賜りたい。
- 広はついに答えなかった。諸将は疑わしい議があるたびに援を呼び、みな敬い重んじた。
- 隗囂が上疏して謝した。「吏民は大軍が急に至ったと聞いて驚き恐れ、自ら救おうとしました。臣囂はこれを止められませんでした。兵に大きな利があっても、敢えて臣子の節を廃せず、自ら追って還らせました。昔、虞舜は父に仕えて、大杖なら走り小杖なら受けました。臣は不敏ながら、この義を忘れましょうか。今、臣の身は本朝にあります。死を賜れば死に、刑を加えられれば刑に服します。もし改めて心を洗えるなら、死んでも骨は朽ちません」と。
- 有司は囂の言が傲慢だとしてその子を誅すことを請うたが、帝は忍びず、また来歙を汧に遣って囂に書を賜った。「昔、柴将軍は『陛下は寛仁で、諸侯に逃亡や叛乱があっても後に帰服すれば位号を復して誅されぬ』と言った。今もし手を束ね、改めて恂の弟を闕庭へ遣るなら、爵禄は全うされ大いなる福があろう。私は年四十に近く、兵中にあること十年。浮いた言葉や虚しい辞には飽いた。応ずる気がなければ返事は要らぬ」と。
- 囂は帝が自分の詐りを見抜いていると知り、ついに使者を遣って公孫述に臣と称した。
漢光武建武七年(31年)
- 春三月、公孫述が隗囂を朔寧王に立て、兵を往来させて援けの勢いとした。
- 秋、隗囂が歩騎三万を率いて安定を侵し陰槃に至った。馮異が諸将を率いて拒んだ。囂はまた別将に隴を下らせて汧に祭遵を攻めさせたが、いずれも利なくして還った。
- 帝は自ら隗囂を征そうとし、あらかじめ竇融に出師の期日を告げたが、折しも雨に遭って道が断たれ、しかも囂の兵はすでに退いていたのでやめた。
- 帝は来歙に書を持たせて王遵を招かせた。遵は来降し、太中大夫に拝され向義侯に封ぜられた。
漢光武建武八年(32年)
- 春、来歙が二千余人を率いて山を伐って道を開き、番須・回中から直ちに略陽を襲い、隗囂の守将の金梁を斬った。囂は大いに驚いて「何と神業のようなことか」と言った。
- 帝は略陽を得たと聞いて甚だ喜んだ。「略陽は囂の頼みとする所。心腹がすでに壊れたのだから、その手足を制するのは易い」と。
- 呉漢ら諸将は歙が略陽に拠ったと聞いて争って馳せ向かった。帝は、囂が頼みとする所を失い要城を失った以上、必ず精鋭を挙げて攻めに来ると考え、日を重ね久しく囲んでも城が抜けず士卒が疲弊したところで、危うきに乗じて進めばよいとして、みな漢らを呼び返した。
- 隗囂は果たして王元に隴坻を拒ませ、行巡に番須口を守らせ、王孟に鶏頭道を塞がせ、牛邯を瓦亭に軍させ、自ら大衆数万人をことごとく率いて略陽を囲んだ。公孫述は将の李育・田弇を遣って助けた。山を削って堤を築き、水を激して城に注いだ。
- 来歙は将士とともに死を固めて堅く守り、矢が尽きると家を壊し木を切って武器とした。囂は精鋭を尽くして攻めたが、数か月かかっても落とせなかった。
- 夏閏四月、帝が自ら隗囂を征した。光禄勲で汝南の郭憲が諫めた。「東方は定まったばかりで、車駕が遠征なさるべきではありません」と。車に当たって佩刀を抜き、車の引き革を切った。帝は従わなかった。
- 西へ漆に至ると、諸将の多くは「王師の重きをもって遠く険阻に入るべきではない」とし、計は迷って決しなかった。
- 帝が馬援を召して問うと、援は隗囂の将帥に土崩の勢いがあり、兵を進めれば必ず破れる状況を説いた。また帝の前で米を積んで山谷を作り、地形を指し示し、諸軍の進むべき道筋を開き示し、往来の分析は明瞭でよくわかった。帝は「虜はわが目の中にある」と言った。
- 翌朝、進軍して高平の第一城に至った。竇融が五郡太守および羌虜・小月氏らの歩騎数万、輜重五千余両を率いて大軍と合流した。
- 当時、軍旅は始まったばかりで、諸将の朝会の礼容は粛然としないことが多かった。融は先に従事を遣って会見の儀を問わせた。帝はこれを聞いて善しとし、百僚に触れ示した。そこで酒宴を設けて融らを特別の礼で待遇した。
- ともに進軍して数道から隴に上り、王遵に書を送らせて牛邯を招き、これを下して太中大夫に拝した。こうして囂の大将十三人、属県十六、衆十余万がみな降った。囂は妻子を連れて西城へ逃げ、楊広に従った。田弇と李育は上邽を保ち、略陽の囲みは解けた。
- 帝は来歙を労って賜い、席を離して諸将の上の右座に着かせ、歙の妻に縑千匹を賜った。
- 進んで上邽に行幸し、隗囂に詔告した。「もし手を束ねて自ら出頭すれば父子相見え、他事のないことは保証する。それでも黥布のようにしたいなら、それも自らの選択に任せる」と。囂はついに降らなかった。そこでその子の恂を誅した。
- 呉漢と岑彭に西城を、耿弇と蓋延に上邽を囲ませた。
- 四県をもって竇融を安豊侯に封じ、弟の友を顕親侯とし、五郡太守もみな列侯に封じ、西へ帰らせて鎮所に就かせた。融は久しく一方を専らにしていたので自ら安んじられず、たびたび上書して代わりを求めた。詔して答えた。「私と将軍は左右の手のようなものだ。たびたび謙退するのは、なんと人の意を解さぬことか。努めて士民を治め、擅に部曲を離れるな」と。
- 潁川で盗賊が群起して属県を陥れ、河東の守兵もまた叛いた。京師は騒動した。帝はこれを聞いて「郭子横の言を用いなかったのが悔やまれる」と言った。
- 秋八月、帝は上邽から昼夜東へ馳せ、岑彭らに書を賜った。「二城が下ったら、そのまま兵を率いて南へ蜀の虜を撃つがよい。人は足るを知らぬのに苦しむものだ。隴を平らげてまた蜀を望む。一度兵を発するたびに頭も鬚も白くなる」と。
- 十一月、楊広が死に、隗囂は窮した。その大将の王捷は別に戎丘にあり、城に登って漢軍に呼びかけた。「隗王のために城を守る者はみな必死で二心がない。諸軍は速やかに引き揚げられよ。自ら死んでそれを明らかにしよう」と。そのまま自刎して死んだ。
- そもそも帝は呉漢に命じていた。「諸郡の兵卒はいたずらに糧食を費やすだけだ。逃亡が出れば衆心を挫き敗る。ことごとく罷めるべきだ」と。漢らは力を併せて囂を攻めることを貪ってついに帰さなかった。糧食は日に少なくなり、吏士は役に疲れ、逃亡する者が多かった。
- 岑彭が谷水を堰き止めて西城に注ぎ、城が没するまであと一丈余りとなったとき、折しも王元・行巡・周宗が蜀の救兵五千余人を率いて高きに乗じて突如至り、鼓を打って大声で「百万の衆が今まさに到着する」と叫んだ。漢軍は大いに驚き、陣を整える間もなかった。元らは囲みを破って決死の戦いをし、ついに城に入って囂を迎えて冀へ帰った。
- 呉漢の軍は食が尽き、輜重を焼いて兵を率いて隴を下った。蓋延と耿弇もそれに従って退いた。囂が兵を出して諸営の後尾を撃ったが、岑彭が後拒となったので、諸将はようやく全軍を保って東へ帰れた。ただ祭遵だけが汧に屯して退かなかった。呉漢らはまた長安に屯し、岑彭は津郷へ帰った。
- こうして安定・北地・天水・隴西がまた反して囂に付いた。
- 校尉で太原の温序が囂の将の苟宇に捕らえられた。宇は四度も諭して降らせようとした。序は大いに怒って宇らを叱った。「虜がどうして敢えて漢の将を脅すのか」と。そして節で数人を打ち殺した。宇の衆は争って殺そうとしたが、宇は止めて「これは義士だ。節に死なせるべきだ。剣を賜え」と言った。序は剣を受け、鬚を口にくわえ、左右を顧みて言った。「賊に殺される以上、鬚を土で汚させるな」と。そのまま剣に伏して死んだ。従事の王忠がその喪を洛陽へ持ち帰った。詔して墓地を賜い、三人の子を郎に拝した。
漢光武建武九年(33年)
- 春正月、潁陽成侯の祭遵が軍中で薨じた。詔して馮異にその営を併せ率いさせた。
- 隗囂は病んで飢え、乾飯を食べていたが、憤りのあまり卒した。王元と周宗は囂の末子の純を王に立て、兵を統べて冀に拠った。公孫述が将の趙匡・田弇を遣って純を助けた。帝は馮異を遣ってこれを撃たせた。
- 公孫述はその翼江王の田戎、大司徒の任満、南郡太守の程汎を遣って数万人を率いて江関を下らせ、馮駿らの軍を撃ち破り、ついに巫および夷道・夷陵を抜いた。そのまま荊門・虎牙に拠り、江水を横切って浮橋と関楼を起こし、水中に杭を立てて水道を絶ち、山にまたがって営を結んで陸路を塞ぎ、漢兵を拒んだ。
- 夏六月、帝は来歙にすべての将を監護して長安に屯させ、太中大夫の馬援を副とした。
- 歙が上書した。「公孫述は隴西・天水を藩屏としているので命を延ばして息をついていられるのです。この二郡が平らげば述の智計は尽きます。兵馬をさらに選び、資糧を蓄えるべきです。今、西州は破れたばかりで人は疲れ飢えている。財と穀で招けばその衆を集められましょう。国家の給する所が一つでなく用度が足りぬことは臣も承知しておりますが、やむを得ぬところがあります」と。帝はもっともとし、詔して汧に穀六万斛を積ませた。
- 秋八月、来歙が馮異ら五将軍を率いて天水に隗純を討った。
漢光武建武十年(34年)
- 夏陽節侯の馮異らは趙匡・田弇と戦うこと一年近くに及び、いずれも斬った。隗純はまだ下らなかった。諸将はひとまず還って兵を休めようとしたが、異は固く持して動かず、ともに落門を攻めたがまだ抜けなかった。夏、異が軍中で薨じた。
- そもそも隗囂の将で安定の高峻は兵を擁して高平の第一城に拠っていた。建威大将軍の耿弇らが一年囲んだが抜けなかった。帝が自ら征そうとすると、寇恂が諫めた。「長安は道のりが中間にあり、応接に近く便利です。安定・隴西は必ず震え懼れましょう。ここに従容と居られれば四方を制せます。今、士馬は疲れているのに険阻を踏み越えるのは万乗の固めではありません。先年の潁川のことを至れる戒めとすべきです」と。帝は従わなかった。
- 戊戌、進んで汧に行幸したが、峻はなお下らなかった。帝は寇恂を遣って降らせに行かせた。恂が璽書を奉じて第一城に至ると、峻は軍師の皇甫文を遣って謁見させたが、辞も礼も屈しなかった。恂は怒って誅そうとした。
- 諸将が諫めた。「高峻の精兵は一万人、多くは強弩を率い、西へ隴道を遮って連年下せずにいます。今、降らせようというのに、かえってその使者を戮するのは不可ではありませんか」と。恂は応ぜず、ついに斬った。その副使を帰らせて峻に告げさせた。「軍師が無礼だったので、すでに戮した。降りたければ急ぎ降れ。降りたくなければ固く守れ」と。峻は恐懼してその日のうちに城門を開いて降った。
- 諸将はみな祝賀し、そのついでに「その使者を殺してその城を降したのはなぜですか」と尋ねた。恂は言った。「皇甫文は峻の腹心で、峻が計を取る相手だ。今来て辞も意も屈しなかったのは、必ず降る心がない証拠。生かしておけば文はその計を通し、殺せばその胆を失う。だから降ったのだ」と。諸将はみな「及ぶところではない」と言った。
- 冬十月、来歙が諸将とともに落門を攻め破った。周宗・行巡・苟宇・趙恢らが隗純を連れて降った。王元は蜀へ逃げた。隗氏の一族を京師へ移した。後に隗純が賓客と逃げて胡に入ろうとしたが、武威で捕らえられて誅された。
漢光武建武十一年(35年)
- 春三月、岑彭が津郷に屯し、たびたび田戎らを攻めたが克てなかった。帝は呉漢を遣って誅虜将軍の劉隆ら三将を率いさせ、荊州の兵合わせて六万余人、騎五千匹を発して彭と荊門で合流させた。彭は戦船数十艘を装備した。
- 呉漢は諸郡の櫂手が糧穀を多く費やすとして罷めようとしたが、彭は蜀の兵が盛んなので帰すべきでないとし、上書して状況を述べた。帝は彭に答えた。「大司馬は歩騎の用兵に慣れており水戦を解さぬ。荊門の事はすべて征南公(彭)に一任する」と。
- 閏月、岑彭は軍中に、浮橋を攻めて先に登った者に上賞を出すと募った。そこで偏将軍の魯奇が応募して進んだ。時に東風が激しく吹き、奇の船は流れに逆らって上り、真っ直ぐ浮橋に突っ込んだ。杭に逆向きの鉤があって奇の船は離れられなくなった。奇らは勢いに乗じて決死の戦いをし、火のついた松明を投げて焼いた。風は激しく火は盛んで、橋と楼は崩れ焼けた。
- 岑彭は全軍で風に順って一斉に進み、向かうところ敵なし。蜀の兵は大いに乱れ、溺死する者数千人。任満を斬り、程汎を生け捕り、田戎は逃げて江州を保った。
- 彭は劉隆を南郡太守に上申し、自ら輔威将軍の臧宮、驍騎将軍の劉歆を率いて長駆して江関に入った。軍中に掠奪を禁じ、通る先々で百姓はみな牛と酒を捧げて迎え労った。彭は辞退して受けなかった。百姓は大いに喜び、争って門を開いて降った。
- 詔して彭に益州牧を代行させ、下した郡ではその都度太守の事を行わせ、彭が境を出ればその太守の号を後将軍に引き継がせ、官属を選んで州中の長吏を守らせた。
- 彭は江州に至ったが、その城は堅固で糧が多くにわかには抜きがたいので、馮駿を留めて守らせ、自ら兵を率いて利に乗じて真っ直ぐ墊江を指し、平曲を攻め破ってその米数十万石を収めた。呉漢は夷陵に留まって露橈船を装備して後続した。
- 夏、公孫述が王元を将軍として領軍の環安とともに河池を拒ませた。六月、来歙が蓋延らと進んで元と安を攻めて大破し、ついに下辨に克ち、勝ちに乗じて進んだ。蜀の人は大いに懼れ、刺客を遣って歙を刺させた。歙はまだ絶命せず、馬を馳せて蓋延を召した。
- 延は歙を見て伏して悲しみ、仰いで見ることもできなかった。歙は延を叱った。「虎牙よ、どうしてそのようなことを。今、使者が刺客に中って国に報いるすべがない。ゆえに巨卿(延)を呼んで軍事を託そうとしたのに、かえって女子の真似をして泣くのか。刃が身にあっても兵を率いて公を斬れぬとでも思うか」と。延は涙を収め、無理に起き上がって戒めを受けた。
- 歙は自ら表を書いた。「臣は夜、人の寝静まった後、何者かに傷つけられ、要害に中りました。臣は自らを惜しみません。ただ職を奉じて称に副わず、朝廷の恥となったことが恨めしい。そもそも国を治めるには賢を得るのが本です。太中大夫の段襄は骨があり任に堪えます。陛下、お裁きください。また臣の兄弟は不肖で、ついには罪を得ることを恐れます。陛下、哀れみを垂れてたびたび教え督されますよう」と。筆を投げ、刃を抜いて絶命した。
- 帝は聞いて大いに驚き、書を見て涙を拭った。揚武将軍の馬成を守中郎将としてこれに代えた。
- 帝が自ら公孫述を征することとし、秋七月、長安に宿った。
- 公孫述はその将の延岑・呂鮪・王元・公孫恢に全兵で広漢および資中を拒ませ、また将の侯丹を遣って二万余人を率いて黄石を拒ませた。
- 岑彭は臧宮に降卒五万を率いさせ、涪水から平曲に上って延岑を拒ませ、自らは兵を分けて江を下って江州へ帰り、都江を遡って上り、侯丹を襲撃して大破した。そのまま昼夜倍の速さで兼行すること二千余里、真っ直ぐ武陽を抜き、精騎を馳せて広都を撃った。成都を去ること数十里、勢いは風雨のごとく、至る所みな逃げ散った。
- そもそも述は漢兵が平曲にいると聞いて大兵を遣ってこれを迎えさせていた。彭が武陽に至って延岑の軍の後ろへ回り込むと、蜀の地は震え驚いた。述は大いに驚き、杖で地を撃って「これは何という神業か」と言った。
- 延岑が沅水に兵を盛んに配していた。臧宮は衆が多く食が少なく、輸送も届かず、降った者はみな散り叛こうとし、郡邑はまた集まり保って成敗を観望していた。宮は引き返そうとしたが、それを機に叛かれるのを恐れた。
- 折しも帝が謁者に兵を率いて岑彭のもとへ行かせ、馬七百匹があった。宮は制と偽ってこれを取り自分に加え、昼夜兵を進め、旗幟を多く立て、山に登って鼓を打ち騒ぎ、右に歩兵左に騎兵、船を挟んで引かせた。喚声は山谷を動かした。岑は漢軍が突如至るとは思わず、山に登って眺めて大いに震え恐れた。宮はそこで縦横に撃って大破し、斬首と溺死は一万余人、水はそのために濁った。延岑は成都へ逃げ、その衆はことごとく降った。その兵馬と珍宝をすべて獲た。
- これ以後、勝ちに乗じて敗走者を追い、降る者は十万を数えた。軍が陽郷に至ると、王元が衆を挙げて降った。
- 帝は公孫述に書を送って禍福を陳べ、明白な信を示した。述は書を見て嘆息し、親しい者に示した。太常の常少と光禄勲の張隆はいずれも降るよう勧めた。述は「廃興は命である。降る天子などあろうか」と言った。左右は二度と口にできなかった。少と隆はいずれも憂えて死んだ。
- 帝が長安から還った。
- 冬十月、公孫述が刺客に逃亡した奴と偽らせて岑彭に降らせ、夜に彭を刺殺した。太中大夫で監軍の鄭興がその営を領して呉漢の到着を待ち、これに授けた。
- 彭は軍を整えて秋毫も犯さなかった。邛穀王の任貴は彭の威信が数千里に及ぶと聞き、使者を遣って降を迎えたが、折しも彭はすでに害されていた。帝は任貴の献じた物をすべて彭の妻子に賜った。蜀の人は彭のために廟を立てて祀った。
- 十二月、呉漢が夷陵から三万人を率いて江を遡り、公孫述を伐った。
漢光武建武十二年(36年)
- 春正月、呉漢が公孫述の将の魏党・公孫永を魚涪津で破り、そのまま武陽を囲んだ。述は娘婿の史興を遣って救わせたが、漢は迎え撃って破った。そのまま犍為の界に入ると、諸県はみな城を守った。
- 詔して漢に真っ直ぐ広都を取ってその心腹を押さえさせた。漢は軍を進めて広都を攻めて抜き、軽騎を遣って成都の市橋を焼いた。公孫述の将帥は恐懼して日夜離叛し、述は家族を誅滅してもなお止められなかった。
- 帝はどうしても降らせようと、また詔して述に諭した。「来歙・岑彭が害されたことで自ら疑うな。今、時をとらえて自ら出頭すれば宗族は完全である。詔書の手記はたびたび得られるものではない」と。述はついに降る意がなかった。
- 秋七月、馮駿が江州を抜いて田戎を捕らえた。
- 帝が呉漢を戒めた。「成都の十余万の衆を軽んじてはならぬ。ただ堅く広都に拠って向こうから攻めて来るのを待ち、鋒を争うな。もし敢えて来なければ、公は営を移して迫り、その力が疲れるのを待って撃つがよい」と。
- 漢は利に乗じてついに自ら歩騎二万を率いて成都に迫り、城を去ること十余里、江を隔てて北に営し、浮橋を作り、副将の武威将軍の劉尚に一万余人を率いて江南に屯させて営とした。距離は二十余里。
- 帝はこれを聞いて大いに驚き、漢を責めた。「たびたび公に千条万端を命じたのに、事に臨んで乱れるとは何事か。敵を軽んじて深入りし、しかも尚と営を別にしている。急があっても互いに及ばぬ。賊がもし兵を出して公を釘付けにし、大衆で尚を攻めれば、尚が破れれば公もただちに敗れる。幸い何事もないうちに、急ぎ兵を率いて広都へ還れ」と。
- 詔書がまだ届かぬ九月、述は果たしてその大司徒の謝豊、執金吾の袁吉に十万ほどの衆を率いさせ、二十余営に分けて出て漢を攻めさせ、別将に一万余人を率いさせて劉尚を抑えて救い合えないようにした。
- 漢は大戦して一日、兵は敗れて塁に逃げ込んだ。豊はそのまま囲んだ。
- 漢はそこで諸将を召して励ました。「私は諸君とともに険阻を越え、転戦すること千里、ついに敵地深く入ってその城下に至った。ところが今、劉尚と二か所で囲まれ、勢いは接せず、その禍は測りがたい。ひそかに師を江南の尚のもとへ移して兵を併せて防ぎたい。心を同じくし力を一つにして各人が自ら戦えば、大功は立てられる。さもなければ敗れて残る者はない。成敗の機はこの一挙にある」と。諸将はみな「承知」と言った。
- そこで士に振る舞い馬に秣を与え、営を閉ざして三日出ず、旗を多く立てて煙火を絶やさぬようにした。夜、枚を銜えて兵を率い、劉尚と合流した。豊らは気づかなかった。
- 翌日、豊らは兵を分けて水の北を拒み、自ら江南を攻めた。漢は全兵で迎え撃ち、朝から夕方まで戦ってついに大破し、豊と吉を斬った。
- そこで広都へ引き返し、劉尚を留めて述を拒ませ、具さに状況を上申して深く自ら譴責した。帝は答えた。「公が広都へ還ったのはまことに宜しきを得ている。述は必ず尚を素通りして公を撃つ気にはなるまい。もし先に尚を攻めれば、公は広都から五十里、歩騎をすべて挙げて赴けばちょうどその危困の時に当たる。破ることは必定だ」と。
- これ以後、漢は広都と成都の間で述と八度戦って八度克ち、ついにその外郭の中に軍した。
- 臧宮は綿竹を抜き涪城を破り、公孫恢を斬り、さらに繁・郫を攻め抜いて、成都で呉漢と合流した。
- 公孫述は困窮して延岑に「事をどうすべきか」と言った。岑は「男児は死中に生を求めるべきです。坐して窮まってよいものですか。財物は集めやすい。惜しむべきではありません」と言った。述はそこで金帛をことごとく散じて決死の士五千余人を募り、岑に配した。
- 岑は市橋に偽って旗幟を立て、鼓を鳴らして挑戦しつつ、ひそかに奇兵を呉漢の軍の後ろへ出して襲撃し、漢を破った。漢は水に落ち、馬の尾に掴まって脱した。
- 漢の軍には七日分の糧しか残っておらず、ひそかに船を用意して逃げようとした。蜀郡太守で南陽の張堪はこれを聞いて馳せて漢に会い、述は必ず敗れるので退師の策はよくないと説いた。漢は従い、そこで弱みを見せて敵を誘った。
- 冬十一月、臧宮が咸陽門に軍した。戊寅、述が自ら数万人を率いて漢を攻め、延岑に宮を拒ませた。大戦して岑は三度合して三度勝った。朝から日中まで、軍士は食事も取れずともに疲れた。漢はそこで護軍の高午・唐邯に精鋭数万を率いさせて撃った。述の兵は大いに乱れた。高午が陣に馳せて述を刺し、胸を貫いた。述は馬から落ち、左右が輿に載せて城に入れた。述は兵を延岑に属させ、その夜死んだ。
- 翌朝、延岑が城をもって降った。辛巳、呉漢は述の妻子を夷し、公孫氏をことごとく滅ぼし、併せて延岑を族滅した。そして兵を放って大掠奪し、述の宮室を焼いた。
- 帝はこれを聞いて怒り、漢を譴責した。また劉尚を責めた。「城が降って三日、吏民は従い服し、子どもも老母も口は万を数える。それを一朝にして兵を放ち火を縦にした。聞くだに鼻の奥が痛む。尚は宗室の子孫で、かつて吏職も経ている。どうしてこれを行うに忍びたのか。仰いで天を視、俯して地を視よ。子鹿を放つのと羹を啜るのと、どちらが仁か。まことに将を斬り民を弔う義を失った」と。
- そもそも述は広漢の李業を博士に召したが、業は固く病と称して起たなかった。述は招けぬことを恥じ、大鴻臚の尹融に詔命を奉じさせて業を脅した。起てば公侯の位を受け、起たねば毒酒を賜うというのである。
- 融は諭した。「今、天下は分崩し、誰が是非を知ろう。それを区々たる身をもって測りがたい淵に試すのか。朝廷は名徳を慕い、官を空け位を欠かして今に七年、四季の珍味も君を忘れずにいる。上は知己を奉じ、下は子孫のために、身も名も全うするほうが優れているではないか」と。
- 業は嘆じて言った。「古人が危邦に入らず乱邦に居らずと言ったのは、このためだ。君子は危うきを見れば命を授く。それをどうして高位と重い餌で誘うのか」と。融が「家族を呼んで相談すべきだ」と言うと、業は「丈夫は心中で断ずること久しい。妻子が何だというのか」と言い、そのまま毒を飲んで死んだ。
- 述は賢者を殺した名を恥じ、使者を遣って弔い祀り、百匹を贈った。業の子の翬は逃げて辞し、受けなかった。
- 述はまた巴郡の譙玄を招いた。玄が赴かないので、やはり使者に毒薬を持たせて脅した。太守が自ら玄の廬を訪れて赴くよう勧めた。玄は「志を保ち高きを全うできるなら、死んでも何の恨みがあろう」と言い、毒薬を受けた。玄の子の瑛が血の涙を流して太守に叩頭し、家の銭千万を差し出して父の死を贖いたいと願った。太守が請うと、述は許した。
- 述はまた蜀郡の王皓と王嘉を召し、来ないことを恐れて先にその妻子を繋いだ。使者が嘉に「早く支度せよ。妻子は全うできる」と言うと、嘉は「犬馬ですら主を識る。まして人においては」と答えた。王皓は先に自刎して首を使者に渡した。述は怒って皓の家族を誅した。王嘉はこれを聞いて嘆じた。「遅れた」と。そして使者に向かって剣に伏して死んだ。
- 犍為の費貽は述に仕えることを承知せず、身に漆を塗って癩を装い、狂人のふりをして避けた。同郡の任永と馮信もみな青盲と偽って召命を辞した。
- 帝は蜀を平定すると、詔して常少に太常、張隆に光禄勲を贈った。譙玄はすでに卒していたので中牢で祀り、所在の官にその家の銭を返させ、李業の閭を表旌し、費貽・任永・馮信を召した。折しも永と信は病没し、貽だけが仕えて合浦太守に至った。
- 帝は述の将の程烏・李育に才幹があるとして、みな抜擢して用いた。こうして西土はみな悦び、心を寄せぬ者はなかった。
- 帝は竇融と五郡太守に入朝するよう詔した。着いて引見されると、賞賜と恩寵は京師を傾け動かした。融を冀州牧に拝した。
漢光武建武十三年(37年)
- 春三月、呉漢が蜀から軍を整えて還り、宛に至った。詔して家に立ち寄って墓参りすることを許し、穀二万斛を賜った。夏四月、京師に至った。