通鑑紀事本末光武帝、赤眉を平定する(光武平赤眉)

王莽の五均六筦と苛法に追われた民が盗賊となり、琅邪の樊崇が莒で挙兵して赤眉と号した。赤眉は西進して長安を落とし、劉盆子を天子に立てて更始を殺したが、掠奪に終始して三輔を荒廃させ、糧が尽きて東へ引き返す。光武は鄧禹を退けて馮異に代え、崤底で大破し、宜陽で自ら六軍を率いて劉盆子・徐宣らの降伏を受けた。王莽始建国二年(10年)から光武建武三年(27年)までの18年間。

年表(9件)

王莽始建国二年(10年)

  • 春二月、詔を下した。「周礼に賖貸があり、楽語に五均があり、伝記にはそれぞれ専売の記述がある。今、賖貸を開き五均を張り諸筦を設けるのは、民衆を斉しくし兼併を抑えるためである」と。そこで長安および洛陽・邯鄲・臨菑・宛・成都に五均司市・銭府の官を立てた。

王莽天鳳四年(17年)

  • 秋八月、莽は羲和命士を置いて五均・六筦を監督させた。郡ごとに数人を置き、みな富商を用いた。彼らは伝馬に乗って利を求めて天下を行き交い、郡県と結んで姦を働き、空の帳簿を多く作った。府蔵は実らず、百姓はいよいよ苦しんだ。
  • この年、莽はまた詔を下して六筦を申し明かし、一つ一つに条規と禁令を設け、犯した者は死罪に至った。姦吏と猾民がともに民衆を侵し、めいめい生を安んじられなかった。
  • また一律に上公以下で奴婢を持つ者から一口につき三千六百銭を徴収した。天下はいよいよ憂えた。納言の馮常が六筦について諫めると、莽は大いに怒って常を免官した。
  • 法令は煩瑣苛酷で、民は手を動かせば禁に触れ、耕作も養蚕もできなかった。徭役は煩劇で、その上に旱魃と蝗害が相次ぎ、獄訟は決せず、吏は苛酷な手段で威を立て、莽の禁令にかこつけて小民を虐げた。富める者は身を保てず、貧しい者は生きるすべがない。こうしてこぞって盗賊となり山沢に拠った。吏は捕らえられず、かえって隠蔽したので、しだいに広がっていった。

王莽天鳳五年(18年)

  • 春、琅邪の樊崇が莒で挙兵した。衆は百余人。転じて太山に入ると、群盗は崇の勇猛を慕ってみな付き、一年のうちに一万余人になった。
  • 崇と同郡の逄安、東海の徐宣・謝禄・楊音がそれぞれ挙兵し、合わせて数万人。改めて崇に従い、ともに戻って莒を攻めたが落とせず、転じて青・徐の間を掠めた。

王莽地皇三年(22年)

  • 夏四月、太師の王匡と更始将軍の廉丹を遣って東の諸賊を討たせた。
  • そもそも樊崇らの衆はしだいに盛んになると、互いに約を立てた。「人を殺した者は死、人を傷つけた者は傷を償う」と。その中で最も尊いのが三老、次が従事、次が卒史。
  • 太師と更始将軍が討ちに来ると聞き、自分の衆が莽の兵と入り乱れるのを恐れ、みな眉を朱く塗って見分ける印とした。これによって赤眉と号した。
  • 匡と丹は合わせて鋭士十余万人を率いたが、通る先々で放縦を働いた。東方ではこう言われた。「赤眉に逢っても太師に逢うな。太師はまだしも、更始が私を殺す」と。

淮陽王更始元年(23年)

  • 冬十月、更始が使者を遣って赤眉に降伏を勧めた。樊崇らは漢室が再興したと聞き、その兵を留めて、自ら首領二十余人を率いて使者に従い洛陽に至った。更始はみな列侯に封じた。
  • 崇らはまだ国邑がなく、留めてきた衆にはしだいに離叛する者が出た。そこでまた逃げてその陣営へ帰った。

淮陽王更始二年(24年)

  • 冬、赤眉の樊崇らが兵を率いて潁川に入り、衆を二部に分けた。崇と逄安が一部、徐宣・謝禄・楊音が一部である。
  • 赤眉はたびたび戦って勝ったものの疲弊し、戦に飽いて、みな日夜嘆き泣いて東へ帰りたがった。崇らは議して、衆が東へ向かえば必ず散ると案じ、西へ長安を攻めるに如かずとした。そこで崇と安は武関から、宣らは陸渾関から、二道でともに入った。
  • 更始は王匡・成丹および抗威将軍の劉均らを遣って河東・弘農に分かれ拠らせ、これを拒ませた。
  • 蕭王(劉秀)は赤眉が必ず長安を破ると推し量り、鄧禹を前将軍に拝し、麾下の精兵の半ば二万人を分けて西へ関中に入らせた。

漢光武建武元年(25年)

  • 春正月、赤眉の二部がともに弘農に集まった。更始は討難将軍の蘇茂を遣って拒ませたが、茂の軍は大敗した。赤眉の衆はこうして大いに集まり、一万人を一営として合わせて三十営とした。
  • 三月、更始は丞相の李松を遣った。蓩郷で赤眉と戦い、松らは大敗して死者三万余人。赤眉はそのまま転じて北の湖に至った。
  • 六月、張卬と王匡が更始に叛いて長安に入った。
  • 赤眉が進んで華陰に至った。軍中に斉の巫がいて、常に鼓を打ち舞って城陽景王を祀っていた。巫が狂ったように「景王が大いに怒って、天子となるべきなのになぜ賊などしているのかと言われた」と口走り、巫を笑う者はその都度病んだので、軍中は動揺した。
  • 方望の弟の陽が樊崇らに説いた。「今、将軍は百万の衆を擁して西へ帝都に向かいながら称号がなく、名は群賊です。長くは続きません。宗室を立て、義を掲げて誅伐し、それによって号令すべきです。誰が敢えて従わぬでしょう」と。崇らはもっともとした。
  • 巫の言はいよいよ激しくなった。進んで鄭に至り、相談した。「今、長安に迫っているのに鬼神がこの通りだ。劉氏を求めてともに尊び立てるべきだ」と。
  • これに先立ち、赤眉が式を通ったとき、もと式侯の萌の子の恭・茂・盆子の三人を掠めて連れていた。恭は若くして尚書を学び、樊崇らに従って洛陽で更始に降り、また式侯に封ぜられて侍中となり長安にいた。茂と盆子は軍中に留まり、右校卒史の劉侠卿に属して牛の世話をしていた。
  • 崇らが帝を立てようとして軍中に景王の後裔を求めると七十余人あり、そのうち茂・盆子および前の西安侯の劉孝が最も近い血筋だった。
  • 崇らは言った。「古は天子が兵を率いるとき上将軍と称したと聞く」と。そこで札に「上将軍」と書いて符とし、また白紙の札二枚を筥に入れた。鄭の北に壇場を設けて城陽景王を祀り、諸三老・従事がみな大集した。盆子ら三人を中に並べて立たせ、年の順に札を引かせた。盆子が最も年少で最後に引き、符を引き当てた。諸将はみな臣と称して拝した。
  • 盆子は時に十五歳、髪を垂らし跣で、破れた衣は赤茶けて汚れていた。衆が拝するのを見て恐れ、泣き出しそうになった。茂が「符をよく仕舞っておけ」と言うと、盆子はそれを噛み切って捨てた。
  • 徐宣を丞相、樊崇を御史大夫、逄安を左大司馬、謝禄を右大司馬とし、残りはみな列卿・将軍とした。盆子は立てられても朝夕、劉侠卿を拝し、時には出て牧童と遊ぼうとして侠卿に怒って止められた。崇らもまた顔を出さなくなった。
  • 秋八月、赤眉が高陵に至り、張卬らが降った。九月、赤眉が長安に入った。更始は単騎で厨城門から逃げ出た。
  • 式侯の恭は赤眉が弟を立てたことで自ら詔獄に繋がれていたが、更始が敗走したと聞いて出て定陶王の劉祉に会った。祉は恭の械を外し、ともに渭水のほとりで更始に従った。
  • 右輔都尉の厳本は、更始を取り逃がして赤眉に誅されるのを恐れ、更始を高陵へ連れて行き、兵で宿衛すると称して実は包囲した。
  • 更始の将相はみな赤眉に降った。ただ丞相の曹竟だけは降らず、自ら剣を執って戦って死んだ。
  • 冬十月、赤眉が書を下した。「聖公(更始)が降れば長沙王に封ずる。二十日を過ぎたら受け付けぬ」と。更始は劉恭を遣って降伏を請うた。赤眉は将の謝禄を遣ってこれを受けさせた。更始は禄に従って肌脱ぎになり、璽綬を盆子に差し出した。
  • 赤眉は更始を庭中に坐らせて殺そうとした。劉恭と謝禄が助命を請うたが容れられず、更始を引き出そうとした。劉恭は追いかけて叫んだ。「臣はまことに力を尽くしました。先に死なせていただきたい」と、剣を抜いて自刎しようとした。樊崇らは慌ててともに救い止めた。
  • そこで更始を赦して畏威侯に封じた。劉恭がまた固く請うたので、ついに長沙王に封ぜられた。更始は常に謝禄に身を寄せて住み、劉恭もまた護った。
  • 劉盆子は長楽宮に住んだ。三輔の郡県の営長が使者を遣って貢献しても、兵士がその都度剽奪した。また吏民をたびたび掠めたので、みなまた固く守るようになり、百姓は帰すべき先を知らなかった。
  • 鄧禹が勝ちに乗じて独り克ち、軍の行いに規律があると聞くと、みな風になびいて手を取り合い荷を負って軍を迎え、降る者は日に千を数え、衆は百万と号した。
  • 禹は立ち寄る先々で車を停めて節を杖つき、彼らを労った。父老も童も、髪を垂らした子も白髪の老人も車の下に満ち、感じ悦ばぬ者はなかった。こうして名は関西に震えた。
  • 諸将と豪傑はみな禹に真っ直ぐ長安を攻めるよう勧めた。禹は言った。「そうではない。今、わが衆は多くとも戦える者は少ない。前には頼れる蓄えがなく、後ろには送られてくる糧がない。赤眉は長安を取ったばかりで財も穀も充実し、その鋒鋭には当たれない。そもそも盗賊が群れ居ても一日先の計もなく、財穀が多くとも変事は万端で、堅く守り通せるものではない。上郡・北地・安定の三郡は土地が広く人が少なく、穀に富み家畜が多い。ひとまず北道で兵を休め、糧に就いて士を養い、その疲弊を観てから図ればよい」と。
  • そこで軍を率いて北へ栒邑に至った。行く先々の諸営・砦・郡邑はみな門を開いて帰服した。
  • 三輔は赤眉の暴虐に苦しみ、みな更始を憐れんでひそかに助け出そうとした。張卬らは深く懸念し、謝禄に命じて更始を縊り殺させた。劉恭が夜に行ってその屍を収めて隠した。帝は詔して霸陵に葬らせた。
  • 帝は関中がまだ定まらぬのに鄧禹が久しく兵を進めぬことを、書を賜って責めた。「司徒は堯であり、亡命の賊は桀である。長安の吏民は不安で依るところがない。時をとらえて進み討ち、西京を鎮め慰め、百姓の心を繋ぐべきである」と。
  • 禹はなお前の考えを執り、別に上郡の諸県を攻め、改めて兵を徴し穀を運んで帰った。大要に至ったとき、栒邑を守っていた積弩将軍の馮愔と車騎将軍の宗歆の二人が権を争って攻め合い、愔がついに歆を殺し、そのまま反して禹を撃った。
  • 禹が使者を遣って報告すると、帝は使者に「愔が親愛しているのは誰か」と問うた。「護軍の黄防です」と答えた。帝は愔と防が長くは和せず、勢いとして必ず衝突すると読み、禹に返答した。「馮愔を縛るのは必ず黄防である」と。そして尚書の宗広に節を持たせて降伏させに行かせた。一月余り後、防は果たして愔を捕らえ、その衆を率いて罪を謝した。
  • 更始の諸将の王匡・胡殷・成丹らはみな宗広のもとへ来て降った。
  • 臘日、赤眉が楽を設けて大集会を開いた。酒がまだ回らぬうちに群臣が言い争って闘い、兵衆はそれぞれ宮を越え門を破って入り、酒肉を掠め、互いに殺傷した。衛尉の諸葛穉がこれを聞いて兵を率いて入り、百余人を打ち殺してようやく収まった。劉盆子は恐懼して日夜泣き、従官はみな憐れんだ。

漢光武建武二年(26年)

  • 春正月、劉恭は赤眉が必ず敗れると知り、ひそかに弟の盆子に璽綬を返上するよう教え、辞退の言葉を練習させた。
  • 元旦の大集会で、恭がまず言った。「諸君がそろって恭の弟を帝に立てられた御恩はまことに深く厚い。立ってからほぼ一年、乱れは日ごとに甚だしく、まことに助けとなれておりません。死んで益がないのを恐れます。退いて庶人となり、改めて賢知の士を求めていただきたい。諸君、お察しください」と。
  • 樊崇らは「これはみな崇らの罪です」と謝した。恭がまた固く請うと、ある者が「これは式侯の口出しすることか」と言った。恭は恐懼して立ち去った。
  • 盆子はそこで牀を降りて璽綬を解き、叩頭して言った。「今、天子を設け置きながら賊であることは以前のまま。四方は怨み恨んでもう信じ従いません。これはみな立てるべき人でない者を立てた結果です。骸骨を乞うて賢聖に道を譲りたい。どうしても盆子を殺して責めを塞ごうというなら、死を逃れる所はありません」と。涙を流してむせび泣いた。
  • 崇らおよび列席の数百人で哀れまぬ者はなく、みな席を避けて頓首して言った。「臣らはふがいなく陛下に負いました。今より後は二度と放縦はいたしません」と。そしてともに盆子を抱きかかえて璽綬を帯びさせた。盆子は泣き叫んだがどうにもならなかった。
  • 散会して出るとそれぞれ営を閉ざして自守した。三輔は一斉に「天子は聡明だ」と称え、百姓は争って長安に帰り、市も里もほぼ満ちた。だが二十余日後にはまた出て以前のとおり大掠奪をした。
  • 長安城中の糧が尽きた。赤眉は珍宝を積み込み、大いに火を放って宮室と市里を焼き、殺戮と掠奪を恣にした。長安城中にはもう人の歩く姿がなかった。
  • そして兵を率いて西へ向かった。衆は百万と号し、南山から転じて城邑を掠め、ついに安定・北地に入った。
  • 鄧禹は兵を率いて南へ長安に至り、昆明池に軍し、高廟に謁して祀り、十一帝の神主を収めて洛陽へ送り、そのついでに園陵を巡って吏士を置いて奉守させた。
  • 九月、赤眉が兵を率いて西へ隴に上ろうとした。隗囂が将軍の楊広を遣って迎え撃って破り、さらに烏氏・涇陽の間で追撃して敗った。
  • 赤眉は陽城・番須の中に至って大雪に遭い、坑も谷も埋まって士の多くが凍死した。そこでまた引き返し、諸陵を発いてその宝貨を取った。玉匣で殮められた者はおおむね生けるがごとくだった。賊はついに呂后の屍を辱めた。
  • 鄧禹が兵を遣って郁夷でこれを撃ったが、かえって敗れた。禹は雲陽へ退いた。
  • 赤眉はまた長安に入った。延岑が杜陵に屯し、赤眉の将の逄安がこれを撃った。鄧禹は安の精兵が外に出ているのを見て兵を率いて長安を襲ったが、折しも謝禄の救援が来て禹の兵は敗走した。延岑は逄安を撃って大破し、死者は十余万人。
  • 廖湛が赤眉十八万を率いて漢中王の劉嘉を攻めた。嘉は谷口で戦って大破し、自らの手で湛を殺し、そのまま雲陽に至って糧に就いた。嘉の妻の兄は新野の来歙で、帝の姑の子である。帝は鄧禹に嘉を招かせ、嘉は歙を通じて禹のもとへ来て降った。
  • 鄧禹は馮愔の叛乱以来、威名がしだいに損なわれ、また糧食も乏しく、たびたび戦って不利で、帰服した者も日に日に離散した。赤眉と延岑が三輔を荒らし、郡県の大姓がそれぞれ兵衆を擁して、禹には収拾できなかった。
  • 帝はそこで偏将軍の馮異を遣って禹に代えて討たせ、車駕は河南まで送った。帝は異に命じた。「三輔は王莽・更始の乱に遭い、その上に赤眉・延岑の醜類が重なった。民は塗炭に苦しみ訴える所がない。将軍は今、命を奉じて不軌の者を討つのだ。営や砦が降ったら、その首領は京師へ送り、その小民は解き放って農桑に就かせ、その営壁を壊して再び集まらせるな。征伐は必ずしも地を略し城を屠ることではない。要は平定して安んじ集めることにある。諸将は戦に強くないわけではないが、掠奪を好む。卿はもとより吏士を御することができる。自ら身を修め慎み、郡県を苦しめてはならぬ」と。
  • 異は頓首して命を受け、軍を率いて西へ向かい、至る所に威信を布き、群盗の多くが降った。

史論(臣光曰)

  • 昔、周の人が武王の徳を頌して「あまねくこれを尋ね思う、われ征くはただ安定を求むるのみ」と言った。王者の兵は、志が威と徳を布き民を安んずることにあるだけだ、というのである。光武が関中を取った所以を見れば、この道を用いたものだ。何と美しいことか。

  • また詔して鄧禹を召し還し、「慎んで窮寇と鋒を争うな。赤眉は穀がなくなれば自ずと東へ来る。私は飽をもって飢を待ち、逸をもって労を待ち、鞭を折って打ち据えるだけだ。諸将の憂うるところではない。二度と妄りに兵を進めるな」と言った。

  • 三輔は大飢饉となり、人が食い合い、城郭はみな空になり、白骨が野を覆った。生き残った民はところどころで集まって砦を作り、それぞれ壁を堅くし野を清めた。赤眉は掠めても得るものがなく、そこで東へ引き返した。衆はなお二十余万だったが、道すがらまた散った。
  • 帝は破姦将軍の侯進らを新安に、建威大将軍の耿弇らを宜陽に屯させて帰路を遮らせ、諸将に命じた。「賊が東へ走れば宜陽の兵を新安に集めよ。南へ走れば新安の兵を宜陽に集めよ」と。
  • 馮異は華陰で赤眉と遭遇し、対峙すること六十余日、戦うこと数十合に及び、その将卒五千余人を降した。

漢光武建武三年(27年)

  • 春正月甲子、馮異を征西大将軍とした。
  • 鄧禹は任を受けながら功がないのを恥じ、たびたび飢えた卒で赤眉に戦いを挑んだがその都度不利だった。そこで車騎将軍の鄧弘らを率いて河北から渡って湖に至り、馮異にともに赤眉を攻めようと求めた。
  • 異は言った。「異は賊と数十日対峙し、雄将を捕らえたとはいえ残る衆はまだ多い。少しずつ恩信をもって傾け誘うべきで、にわかに兵を用いて破るのは難しい。主上は今、諸将を澠池に屯させて東を遮り、異が西を撃ち、一挙に取ろうとされている。これが万全の計です」と。
  • 禹と弘は従わなかった。弘はそのまま大戦して日を移した。赤眉は偽って敗れ、輜重を棄てて逃げた。車にはみな土を載せ、その上を豆で覆っていた。兵士は飢えていたので争って取った。赤眉は引き返して弘を撃ち、弘の軍は潰乱した。
  • 異が禹と兵を合わせて救い、赤眉はやや退いた。異は士卒が飢え疲れているのでひとまず休むべきだとしたが、禹は聴かず再び戦って大敗し、死傷者は三千余人。禹は二十四騎で脱して宜陽へ帰り、異は馬を棄てて歩いて回谿の坂を登り、麾下の数人とともに営へ帰って散兵を収め、また壁を堅くして自守した。
  • 閏月、馮異は赤眉と日を約して会戦することとし、壮士に服装を変えさせて赤眉と同じ格好で道の傍らに伏せさせた。
  • 翌朝、赤眉は一万人を遣って異の前部を攻めた。異は少しだけ兵を出して救った。賊は勢いが弱いと見て衆を挙げて異を攻めた。異はそこで兵を放って大戦した。日が傾いて賊の気が衰えたところで伏兵が突如起こった。衣服が入り混じって赤眉は見分けがつかなくなり、衆はついに驚いて潰えた。追撃して崤底で大破し、男女八万人を降した。
  • 帝は璽書を下して異を労った。「初めは回谿で翼を垂れたが、ついに澠池で翼を奮った。東隅に失いて桑楡に収むというべきである。今こそ功を論じ賞を与えて大勲に答えよう」と。
  • 赤眉の残る衆は東へ宜陽に向かった。甲辰、帝は自ら六軍を率い、厳しく陣を敷いて待った。赤眉はにわかに大軍に遭って驚き震え、どうしてよいかわからず、劉恭を遣って降を乞い、「盆子が百万の衆を率いて陛下に降ります。どのように待遇されますか」と言わせた。帝は「お前たちを死なせぬだけだ」と答えた。
  • 丙午、盆子および丞相の徐宣以下三十余人が肌脱ぎになって降り、伝国の璽綬を差し出した。積み上げた兵器と甲は、宜陽城の西で熊耳山と高さを斉しくした。赤眉の衆はなお十余万人。帝は県の厨にみな食を賜わせた。
  • 翌朝、大いに兵馬を並べて洛水に臨み、盆子の君臣を列ばせて観させた。帝は樊崇らに言った。「降ったことを悔いてはおるまいな。朕は今、卿らを営に帰らせて兵を整えさせ、鼓を鳴らして攻め合い、勝負を決してもよい。強いて服させたくはない」と。
  • 徐宣らは叩頭して言った。「臣らは長安の東都門を出たとき、君臣が議して聖徳に帰命することにいたしました。百姓とは成った事を楽しめても、始めを図ることは難しい。ゆえに衆には告げなかっただけです。今日降れたのは虎口を離れて慈母に帰るようなもの。まことに歓び、まことに喜び、恨むところはございません」と。
  • 帝は「卿はいわゆる鉄の中でも鳴りのよい鉄、凡庸の中でも抜きん出た者だ」と言った。
  • 戊申、宜陽から還った。帝は樊崇らにそれぞれ妻子とともに洛陽に住まわせ、田宅を賜った。その後、樊崇と逄安は叛いて誅され、楊音と徐宣は郷里で生を終えた。帝は盆子を憐れんで趙王の郎中としたが、後に病んで失明したので、滎陽の均輸官の地を賜ってその税を終身食ませた。劉恭は更始の仇を報いて謝禄を殺し、自ら獄に繋がれたが、帝は赦して誅さなかった。