通鑑紀事本末光武帝の中興(光武中興)
南陽の劉縯・劉秀兄弟が舂陵で挙兵し、新市・平林・下江の兵と結んで更始帝を立て、劉秀が昆陽で王邑・王尋の大軍を破って新の崩壊を決定づけるまでを描く。縯が更始に殺された後、劉秀は河北を鎮撫し、鄧禹・馮異・呉漢・耿弇らを得て王郎を滅ぼし、銅馬など群盗を降して更始と決別、鄗の南で即位して洛陽に都を定めた。王莽地皇三年(22年)から光武建武二年(26年)までの5年間。
年表(5件)
- 王莽地皇三年22年劉縯が舂陵で挙兵し、下江の王常を説き伏せて藍郷を襲い輜重を得る
- 淮陽王
- 更始元年23年更始帝が立ち、劉秀が昆陽で四十二万の莽軍を破るが劉縯は殺される
- 更始二年24年劉秀が河北で王郎を滅ぼして邯鄲を抜き、銅馬らを降して蕭王となる
- 漢光武建武元年25年劉秀が鄗の南で皇帝の位に即き、朱鮪が降って洛陽を都と定める
- 漢光武建武二年26年諸功臣をことごとく列侯に封じ、洛陽に高廟・社稷・郊の祭壇を建てる
王莽地皇三年(22年)
- そもそも長沙定王の発が舂陵節侯の買を生み、買が戴侯の熊渠を生み、熊渠が考侯の仁を生んだ。仁は南方が低湿なため南陽の白水郷に移封され、宗族とともにそこへ移り住んだ。仁が卒すると子の敞が嗣いだが、王莽の篡位に当たって国は除かれた。
- 節侯の末子の外は鬱林太守となり、外が鉅鹿都尉の回を生み、回が南頓令の欽を生んだ。欽は湖陽の樊重の娘を娶って三男、縯・仲・秀を生んだ。兄弟は早くに父を失い、叔父の良に養われた。縯は性質剛毅で慷慨の気があった。
- 縯は李通らと讖文の事で相約して謀議を定め、立秋の材官・騎士の都試の日に前隊大夫の甄阜および属正の梁丘賜を捕らえ、それを機に大衆に号令しようとした。李軼と秀を舂陵へ帰らせて挙兵し呼応させることにした。
- そこで縯は諸豪傑を召して議した。「王莽は暴虐で百姓は分崩している。今、旱魃が連年続き兵乱が並び起こっている。これも天が莽を亡ぼす時であり、高祖の業を復して万世を定める秋だ」と。衆はみなもっともとした。
- そこで親しい食客を分けて諸県へ遣って挙兵させ、縯自身は舂陵の子弟を発した。諸家の子弟は恐れてみな逃げ隠れ、「伯升がわれらを殺す」と言った。だが秀が絳の衣に大冠をつけているのを見て、みな驚いて「あの謹厚な人までやるのか」と言い、しだいに落ち着いた。合わせて子弟七、八千人を得、賓客を配置して自ら柱天都部と称した。秀は当時二十八歳。
- 李通は挙兵前に事が発覚して逃げ、父の守および家族で坐して死んだ者は六十四人。
- 縯は族人の劉嘉を遣って新市・平林の兵を説得し、その帥の王鳳・陳牧とともに西へ長聚を撃ち、進んで唐子郷を屠り、また湖陽の尉を殺した。軍中で財物の分配が均しくなかったため衆は怨んで劉氏の者たちを攻めようとしたが、秀は一族の得た物を集めてことごとく与えた。衆はそこで喜んだ。進んで棘陽を抜いた。李軼と鄧晨はいずれも賓客を率いて合流した。
- 十一月、劉縯は進んで宛を攻めようとし、小長安聚に至って甄阜・梁丘賜と戦った。当時、天は濃霧で、漢軍は大敗した。
- 秀は単騎で逃げ、妹の伯姫に遇って相乗りして走った。先へ進むとまた姉の元に会った。元は手を振って「行け。救えぬ。二人とも死ぬことはない」と言った。折しも追兵が至り、元と三人の娘はみな死んだ。縯の弟の仲および一族で死んだ者は数十人。
- 縯は改めて兵を集めて棘陽へ退いて守った。阜と賜は勝ちに乗じ、輜重を藍郷に留め、精兵十万を率いて南へ潢淳を渡り沘水に臨み、二つの川の間に拠って営を築き、背後の橋を断って帰る心のないことを示した。
- 新市・平林の兵は漢兵がたびたび敗れ、阜と賜の軍が大挙して来るのを見て、それぞれ引き揚げようとした。縯はひどく困った。
- 折しも下江の兵五千余人が宜秋に至った。縯はただちに秀および李通とともにその塁を訪ね、「下江の賢将にお目にかかって大事を議したい」と言った。衆は王常を推した。縯は常に会って合従の利を説いた。常は大いに悟って言った。「王莽は残虐で百姓は漢を思っている。今、劉氏が再興するなら、それが真の主だ。まことに身を挺して用いられ、大功を成すのを助けたい」と。縯は「事が成れば、どうして独りで享受しようか」と言い、常と深く結んで別れた。
- 常は帰って残る将の成丹・張卬に具さに話した。丹と卬は自分の衆を頼んで言った。「大丈夫たる者、すでに起った以上は各々自ら主となるべきだ。なぜ人の制を受ける」と。
- 常はそこで穏やかにその将帥に説いた。
- 王莽は苛酷で百姓の心を失うこと久しい。民が嘆いて漢を思うのは一日のことではない。ゆえにわれらもこれに乗じて起てた。民の怨むところは天が去るところ、民の思うところは天が与えるところだ。
- 大事を挙げるには必ず下は民心に順い上は天意に合ってこそ功が成る。もし強きを恃み勇を恃んで情のままに欲を恣にすれば、天下を得てもまた必ず失う。秦や項の勢いですら夷滅に至った。まして今、布衣が草沢に集まって、それで行えば滅亡の道だ。
- 今、南陽の劉氏が一族を挙げて起った。来て議する者を見れば、みな深い計と大きな慮りがあり王公の才を備えている。これと合すれば必ず大功を成す。天がわれらを佑ける所以だ。
- 下江の諸将は強情で見識に乏しかったが、もとより常を敬っていたので、みな謝して言った。「王将軍がおられねば、われらはあやうく不義に陥るところだった」と。ただちに兵を率いて漢軍および新市・平林の兵と合流した。
- こうして諸部は心を斉しくして力を合わせ、鋭気はいよいよ壮んになった。縯は軍士を大いに饗し、盟約を設け、卒を三日休ませ、六部に分けた。十二月晦、ひそかに夜に軍を起こして藍郷を襲い、その輜重をことごとく獲た。
淮陽王更始元年(23年)
- 春正月甲子朔、漢兵は下江の兵とともに甄阜・梁丘賜を攻めてこれを斬り、士卒二万余人を殺した。
- 王莽の納言将軍の厳尤と秩宗将軍の陳茂が兵を率いて宛に拠ろうとした。劉縯は淯陽の下でこれと戦って大破し、そのまま宛を囲んだ。
- これに先立ち、青・徐の賊は衆が数十万人いても、ついに文書・号令・旌旗・部曲がなかった。漢兵が起こると、みな将軍と称して城を攻め地を掠め、文書を回して主張を述べた。莽はこれを聞いて初めて懼れた。
- 舂陵戴侯の曾孫の玄が平林の兵の中にあって更始将軍と号していた。当時、漢兵はすでに十余万。諸将は兵が多いのに統一する者がないことを議し、劉氏の者を立てて人望に従おうとした。
- 南陽の豪傑および王常らはみな劉縯を立てようとしたが、新市・平林の将帥は放縦を楽しみ、縯の威厳と明察を憚り、玄の懦弱なのを好み、先に共に策を定めて玄を立て、その後で縯を召してその議を示した。
- 縯は言った。「諸将軍が幸いに宗室を尊び立てようとされるのは甚だ厚意です。しかし今、赤眉が青・徐に起こり衆は数十万。南陽が宗室を立てたと聞けば、赤眉もまた誰かを立てるのではないか。王莽がまだ滅びぬうちに宗室が攻め合えば、天下を疑わせて自ら権を損なうことになり、莽を破る道ではありません。舂陵は宛を去ること三百里に過ぎない。急いで自ら尊号を立てて天下の的となり、後の者にわが疲弊に乗じさせるのは良計ではない。ひとまず王と称して号令するに如くはありません。王の勢いでも諸将を斬るには十分です。もし赤眉の立てた者が賢ければ、率いて従えばよく、必ずしもわれらの爵位は奪われますまい。もし赤眉が誰も立てなければ、莽を破り赤眉を降してから尊号を挙げても遅くはありません」と。
- 諸将の多くは「善し」と言った。だが張卬が剣を抜いて地を撃ち、「疑いながらの事に功はない。今日の議に二つはない」と言った。衆はみなこれに従った。
- 二月辛巳朔、淯水の畔の砂の上に壇場を設け、玄が皇帝の位に即いた(更始帝)。南面して立ち群臣に朝したが、羞じて汗を流し、手を挙げても物が言えなかった。
- そこで大赦して改元し、族父の劉良を国三老、王匡を定国上公、王鳳を成国上公、朱鮪を大司馬、劉縯を大司徒、陳牧を大司空とし、残りはみな九卿・将軍とした。これによって豪傑は失望し、服さぬ者が多かった。
- 三月、王鳳と太常偏将軍の劉秀らが昆陽・定陵・郾を徇え、みな下した。
- 王莽は厳尤・陳茂の敗北を聞き、司空の王邑を伝馬で馳せさせ、司徒の王尋とともに兵を発して山東を平定させた。兵法に明るい六十三家を召して軍吏に備え、巨人の巨母覇を塁尉とし、また虎・豹・犀・象などの猛獣を駆り立てて威武を助けさせた。
- 邑が洛陽に至ると、州郡はそれぞれ精兵を選び、牧守が自ら率いた。集まったのは四十二万人、百万と号した。道中にある者の旌旗と輜重は千里絶えなかった。
- 夏五月、尋と邑が南へ潁川に出て厳尤・陳茂と合流した。諸将は尋・邑の兵が盛んなのを見てみな逃げ返って昆陽に入り、恐れおののき妻子を案じて散り散りに諸城へ帰ろうとした。
- 劉秀が言った。「今、兵も穀も少なく、外の敵は強大だ。力を合わせて防げば功も立てられよう。分散すれば勢いとして双方とも全うできぬ。しかも宛城はまだ落ちておらず、救い合えない。昆陽が落ちれば一日のうちに諸部も滅びる。今、心胆を同じくしてともに功名を挙げようとせず、かえって妻子や財物を守ろうというのか」と。
- 諸将は怒って「劉将軍がどうしてそんなことを言えるのか」と言った。秀は笑って立ち上がった。
- 折しも斥候の騎が帰って「大軍が城北に迫っている。陣は数百里に及び、後ろが見えない」と告げた。諸将はもとより秀を軽んじていたが、切迫すると互いに「改めて劉将軍に計ってもらおう」と言った。秀が再び成敗を図って示すと、諸将はみな「承知した」と言った。
- 当時、城中には八、九千人しかいなかった。秀は王鳳と廷尉大将軍の王常に昆陽を守らせ、夜、五威将軍の李軼ら十三騎とともに城の南門から出て、外で兵を集めた。当時、莽の兵で城下に到着した者は十万近く、秀らはあやうく出られぬところだった。
- 尋と邑は兵を放って昆陽を囲んだ。厳尤が邑に説いた。「昆陽は城は小さいが堅固です。今、僭号する者は宛にいる。急ぎ大兵を進めれば彼らは必ず逃げ、宛が敗れれば昆陽は自ずと服します」と。
- 邑は言った。「私は昔、翟義を囲んで生け捕りにできず責められた。今、百万の衆を率いて城に遇いながら落とせぬのは威を示す所以でない。まずこの城を屠り、血を踏んで進み、前で歌い後ろで舞う。愉快ではないか」と。そのまま城を十重に囲み、営を列ねること百を数え、鉦鼓の音は数十里に聞こえた。あるいは地道を掘り、衝車と輣車で城を突き、積弩を乱射して矢は雨のように降った。城中では戸板を背負って水を汲んだ。
- 王鳳らが降を乞うたが許されなかった。尋と邑は功が瞬時に成ると思い、軍事を憂えなかった。厳尤は「兵法に城を囲むには一方を空けよとある。逃げ出させて宛の下にいる者を怖れさせるべきです」と言ったが、邑はまた聴かなかった。
- 棘陽守長の岑彭は前隊貳の厳説とともに宛城を守っていた。漢兵が数か月攻め、城中では人が食い合うに至り、ついに城を挙げて降った。更始が入って都とした。諸将は彭を殺そうとしたが、劉縯が「彭は郡の大吏として心を堅くして守った。それがその節である。今、大事を挙げるには義士を表彰すべきだ。封ずるに如くはない」と言った。更始はそこで彭を帰徳侯に封じた。
- 劉秀は郾・定陵に至り、諸営の兵をことごとく発した。諸将は財物を惜しみ、兵を分けて守らせようとした。秀は「今もし敵を破れば珍宝は万倍になり、大功が成る。もし敗れれば首すら残らぬ。財物どころではない」と言い、ことごとく発した。
- 六月己卯朔、秀は諸営とともに進み、自ら歩騎千余を率いて前鋒となり、大軍を四、五里離れて陣を敷いた。尋と邑もまた兵数千を遣って合戦した。秀が突撃して数十級を斬った。諸将は喜んで「劉将軍は日ごろ小敵を見ては怯むのに、今は大敵を見て勇ましい。実に不思議だ。もう一度前に出てくれ。将軍を助けよう」と言った。
- 秀が再び進むと尋・邑の兵は退き、諸部がこぞって乗じて数百千級を斬った。連勝して進み、諸将の胆気はいよいよ壮んになり、一人で百人に当たらぬ者はなかった。
- 秀はそこで決死の三千人とともに城の西の水上から中軍の堅陣を衝いた。尋と邑はこれを侮り、自ら一万余人を率いて陣を巡り、諸営には持ち場を按じて動くなと命じ、独りで迎え撃って漢兵と戦って不利になった。大軍は勝手に救援できなかった。尋と邑の陣が乱れると、漢兵は鋭に乗じて崩し、ついに王尋を殺した。城中もまた鼓を鳴らして打って出、内外が勢いを合わせ、震え上がるような叫び声が天地を動かした。
- 莽の兵は大潰し、逃げる者が互いに踏み合い、伏す屍は百余里に及んだ。折しも激しい雷風が起こって屋根瓦がみな飛び、雨が注ぐように降って滍川が溢れた。虎豹すら脚を震わせ、士卒で水に入って溺死する者は万を数え、水は流れなくなった。
- 王邑・厳尤・陳茂は軽騎で死人を踏んで川を渡って逃げ去った。その軍需と輜重をことごとく獲たが、数え切れぬほどで、運び出すのに月を連ねても尽きず、残りは焼いた。
- 士卒は逃げ走ってそれぞれの郡へ帰り、王邑だけが率いてきた長安の勇敢の士数千人とともに洛陽へ戻った。関中はこれを聞いて震え恐れた。
- ここに海内の豪傑が一斉に響応し、みなその牧守を殺して自ら将軍と称し、漢の年号を用いて詔命を待った。旬月のうちに天下に遍く広がった。
- 劉秀はまた潁川を徇え、父城を攻めたが落ちず、巾車郷に屯した。潁川郡の掾の馮異は五県を監督していたが漢兵に捕らえられた。異は「私には父城に老母がおります。帰って五城を押さえ、功を効して恩に報いたい」と言った。秀は許した。
- 異は帰って父城長の苗萌に言った。「諸将は暴虐横暴な者が多いが、劉将軍だけは行く先々で掠奪しない。その言葉遣いと挙止を見るに凡人ではない」と。そのまま萌とともに五県を率いて降った。
- 新市・平林の諸将は、劉縯兄弟の威名がいよいよ盛んなのを憂え、ひそかに更始に除くよう勧めた。秀が縯に「事が不穏です」と言うと、縯は笑って「いつものことだ」と言った。
- 更始が諸将を大いに集め、縯の宝剣を取って眺めた。繡衣御史の申屠建がすかさず玉玦を献じたが、更始は敢えて事を起こさなかった。縯の舅の樊宏が縯に「建には范増のような意図があるのでは」と言ったが、縯は答えなかった。
- 李軼ははじめ縯兄弟と親しかったが、後には新たな貴人に諂って仕えた。秀は縯を戒めて「この男はもう信用できません」と言ったが、縯は従わなかった。
- 縯の部将の劉稷は勇が三軍に冠たる者で、更始が立ったと聞いて怒った。「もともと挙兵して大事を図ったのは伯升兄弟だ。今の更始が何者だというのか」と。更始は稷を抗威将軍としたが、稷は拝命を承知しなかった。
- 更始はそこで諸将とともに兵数千人を並べ、まず稷を捕らえて誅そうとした。縯が固く争ったので、李軼と朱鮪はそれに乗じて更始に勧め、縯も併せて捕らえてその日のうちに殺した。族兄の光禄勲の劉賜を大司徒とした。
- 秀はこれを聞き、父城から宛へ馳せて謝罪した。司徒の官属が出迎えて弔うと、秀は私語を交わさず、ただ深く自らの過ちを引くばかりで、昆陽の功を自慢したことがなかった。また敢えて縯のために喪に服さず、飲食も談笑も平常どおりだった。更始はこれによって恥じ入り、秀を破虜大将軍に拝して武信侯に封じた。
- 更始は王匡を遣って洛陽を攻めさせ、申屠建と李松に武関を攻めさせた。京兆の諸県および城中がともに挙兵して王莽を殺した。王匡は洛陽を抜き、莽の太師の王匡と哀章を生け捕りにしていずれも斬った。
- 更始が洛陽に都しようとし、劉秀に司隷校尉を代行させ、先に赴いて宮府を整えさせた。秀は僚属を置いて文書を作り、従事が監察するのを一切旧来の規定どおりにした。
- 当時、三輔の吏士が東へ更始を迎えに行き、諸将が通るのを見ると、みな冠と頭巾をつけながら婦人の衣を着ていたので、笑わぬ者はなかった。ところが司隷の僚属を見ると、みな喜びに堪えず、年老いた吏の中には涙を垂れて「今日また漢の官の威儀を見られようとは思わなかった」と言う者もあった。これによって識者はみな心を寄せた。
- 更始は北して洛陽に都し、使者を分け遣って郡国を徇えさせ、「先に降る者は爵位を復す」と告げた。
- 使者が上谷に至ると、上谷太守で扶風の耿況が印綬を差し出して迎えた。使者はこれを受け取り、一晩泊まっても返す意思がなかった。功曹の寇恂が兵を率いて使者に会い、これを請うた。使者が与えず「天王の使者だぞ。功曹は脅そうというのか」と言うと、恂は「敢えて使君を脅すのではありません。ただ計の粗漏を惜しむのです。今、天下は定まったばかり。使君が節を執り命を銜えて来られ、郡国は首を伸ばし耳を傾けている。上谷に着いたばかりで先に大信を損なわれては、この先どうやって他郡に号令なさいますか」と言った。使者は答えなかった。
- 恂は左右を叱って使者の命として況を召した。況が来ると、恂は進んで印綬を取って況に帯びさせた。使者はやむなく制を承けてこれを詔した。況は受けて帰った。
- 更始は親近の大将に河北を徇えさせようとした。大司徒の劉賜が「諸家の子で使えるのは文叔(劉秀)だけです」と言った。朱鮪らは不可としたが、更始が迷うと賜は深く勧めた。更始はそこで劉秀に大司馬の事を代行させ、節を持たせて北へ河を渡り、州郡を鎮撫させた。
- 大司徒の賜を丞相とし、先に関中へ入って宗廟と宮室を修めさせた。
- 大司馬の秀は河北に至り、通る郡県で官吏を考察して能否によって黜陟し、囚徒を公平に処理し、王莽の苛政を除いて漢の官名を復した。吏民は喜び、争って牛や酒を持って迎え労ったが、秀はみな受けなかった。
- 南陽の鄧禹は策を杖ついて秀を追い、鄴で追いついた。秀は「私は封拝を専断できる。生(あなた)が遠くから来られたのは仕官を望んでか」と言った。禹は「望みません」と答えた。秀が「ではどうしたいのか」と問うと、禹は「ただ明公の威徳が四海に及び、私がわずかなりとも力を効して功名を竹帛に垂れたいだけです」と答えた。秀は笑い、そのまま泊まらせた。
- 禹はひそかに説いた。
- 今、山東は安まらず、赤眉・青犢の類は動けば万を数えます。更始はもとより凡才で自ら判断できず、諸将はみな凡人が急に立ったもので、志は財貨にあり、威力を競って朝夕を快くするだけ。忠良明智で深く慮り遠く図り、主を尊び民を安んじようとする者はおりません。
- 往古を通観すれば、聖人の興起は二つの科によるだけ。天の時と人の事です。今、天の時から見れば、更始が立ちながら災変がまさに起こっている。人の事から見れば、帝王の大業は凡夫の任ではなく、分崩離析の形勢が見て取れます。明公が藩輔の功を建てられても、なお成し遂げられぬことを恐れます。
- まして明公はもとより盛徳と大功があって天下に慕われ、軍政は整い賞罰は明信です。今の計としては、英雄を招き集め、務めて民心を悦ばせ、高祖の業を立てて万民の命を救うに如くはありません。公をもって慮れば、天下は定めるに足りません。
- 秀は大いに喜び、禹を常に幕中に泊まらせて計議を定め、諸将を任用するたびに多く禹に諮り、みなその才に当たった。
- 秀は兄の縯が死んで以来、独りでいるときは酒肉を口にせず、枕と席に涙の跡があった。主簿の馮異だけが叩頭して慰めた。秀は「卿、妄りに言うな」と止めた。異はそこで説いた。「更始の政は乱れ、百姓は依り仰ぐところがありません。人は長く飢え渇いていれば満腹させやすい。今、公は一方を専らに命ぜられている。官属を分け遣って郡県を巡らせ、恵沢を宣布すべきです」と。秀はこれを容れた。
- 騎都尉で宋子の耿純が邯鄲で秀に謁し、退いてその官属や将兵の法度が他の将と違うのを見て、そのまま自ら結んで従った。
- 王莽の時、長安に成帝の子の子輿と自称する者があり、莽はこれを殺した。邯鄲の卜者の王郎はこれにかこつけて真の子輿と詐称し、天子に立って州郡に檄を回した。趙国以北、遼東以西はみな風になびいて響応した。
淮陽王更始二年(24年)
- 春正月、大司馬の秀は王郎が新たに盛んなのを見て、北へ薊を徇えた。
- 申屠建と李松が長安から更始を迎えて遷都させた。二月、更始が洛陽を発った。
- そもそも三輔の豪傑で号を借りて莽を誅した者は、めいめい封侯を望んでいた。申屠建は王憲を斬った上、「三輔の小僧どもはひどく狡い。共謀してその主を殺した」と言いふらした。吏民は恐懼し、属県は集まって立て籠もり、建らは下せなかった。更始が長安に着いて詔を下し、王莽の子でなければみな罪を除くと大赦した。これで三輔はことごとく平らいだ。
- 当時、長安は未央宮だけが焼かれ、その他の宮室・供帳・倉庫・官府はみな元のままで、市も里も旧に変わらなかった。
- 更始は長楽宮に住み、前殿に昇った。郎吏が順に庭中に列すると、更始は羞じて俯き、席を掻きむしって見ようともしなかった。後から来た諸将に更始が「掠奪でどれだけ取ったか」と問うと、左右の侍官はみな長く宮省にいた吏だったので、驚いて顔を見合わせた。
- 李松と棘陽の趙萌が更始に、諸功臣をみな王にすべきだと説いた。朱鮪は「高祖の約に、劉氏でなければ王とせずとあります」と争った。更始はそこでまず諸宗室を封じ、劉祉を定陶王、劉慶を燕王、劉歙を元氏王、劉嘉を漢中王、劉賜を宛王、劉信を汝陰王とした。
- その後で王匡を沘陽王、王鳳を宜城王、朱鮪を膠東王、王常を鄧王、申屠建を平氏王、陳牧を陰平王、衛尉大将軍の張卬を淮陽王、執金吾大将軍の廖湛を穰王、尚書の胡殷を随王、柱天大将軍の李通を西平王、五威中郎将の李軼を舞陰王、水衡大将軍の成丹を襄邑王、驃騎大将軍の宗佻を潁陰王、尹尊を郾王とした。朱鮪だけが辞退して受けず、そこで鮪を左大司馬とした。宛王の賜を前大司馬として李軼らとともに関東を鎮撫させ、また李通に荊州を鎮めさせ、王常に南陽太守の事を行わせた。李松を丞相、趙萌を右大司馬とし、ともに内の任に当たらせた。
- 更始は趙萌の娘を納れて夫人としたので、政を萌に委ね、日夜後庭で酒宴をした。群臣が事を言おうとしても、いつも酔って会えなかった。やむを得ぬときは侍中を帷の内に坐らせて代わりに応答させた。
- 韓夫人はことに酒を好み、侍って飲むたびに常侍が奏事に来るのを見ると怒って「帝はまさに私と飲んでいるのに、よりによってこの時に事を持ってくるのか」と言い、立ち上がって書案を叩き壊した。
- 趙萌は権を専らにし、生殺を恣にした。郎吏で萌の放縦を言う者があると、更始は怒って剣を抜いて撃った。これ以後、敢えて言う者はなかった。ついには身分の低い者や料理人まで濫りに官爵を授けられ、長安ではこう言われた。「竈の下の煮炊き役が中郎将、爛れた羊の胃が騎都尉、爛れた羊の頭が関内侯」と。
- 軍師将軍の李淑が上書して諫めた。「陛下が業を定められたのは下江・平林の勢いによるとはいえ、それは臨時の間に合わせであって、安定した後に施すべきものではありません。名と器は聖人の重んじるところ。今、その人でない者に加えて万分の一の益を望むのは、木に縁って魚を求め山に登って珠を採るようなもの。海内はこれを見て漢の祚を測ろうとしましょう」と。更始は怒って淑を囚えた。
- 外にある諸将はみな誅賞を専断し、めいめい牧守を置いたので、州郡が交錯して従うべき先がわからなかった。これによって関中は離心し、四海は怨んで叛いた。
- 耿況が子の弇を遣って奏を奉じて長安へ向かわせた。弇は当時二十一歳。宋子まで来たとき王郎の挙兵に遭った。弇の従吏の孫倉と衛包が「劉子輿は成帝の正統だ。これを捨てて帰さず、遠くへ行ってどうする」と言った。
- 弇は剣を按じて言った。「子輿は下劣な賊で、しまいには降虜になるだけだ。私は長安に着いたら国家に漁陽・上谷の兵馬のことを申し上げ、帰って突騎を発し、烏合の衆を蹴散らす。枯れ木を折り腐った物を砕くようなものだ。お前たちは去就をわきまえぬ。族滅は遠くないぞ」と。倉と包はそのまま逃げて王郎に降った。
- 弇は大司馬の秀が盧奴にいると聞き、北へ馳せて謁した。秀は留めて長史に任じ、ともに北して薊に至った。
- 王郎が檄を回して秀に十万戸の懸賞をかけた。秀は功曹令史の潁川の王覇に市中で人を募って王郎を撃たせようとしたが、市の人はみな大笑いして手を挙げて揶揄した。覇は恥じ入って戻った。
- 秀が南へ帰ろうとすると、耿弇が言った。「今、兵が南方から来ています。南へ行ってはなりません。漁陽太守の彭寵は公と同郷、上谷太守は私の父です。この二郡を発せば弓を引く騎兵一万。邯鄲など憂えるに足りません」と。秀の官属と腹心はみな承知せず、「死ぬときも南に頭を向けたい。どうして北へ行って袋の中に入るのか」と言った。秀は弇を指して「これが私の北道の主人だ」と言った。
- 折しも、もと広陽王の子の劉接が薊中で挙兵して郎に応じた。城内は騒乱し、「邯鄲の使者がまさに到着する。二千石以下はみな出迎えよ」と言われた。そこで秀は急ぎ車を駆って出た。南の城門に至ると門はすでに閉まっており、攻めて出ることができた。
- そのまま昼夜南へ馳せ、敢えて城邑に入らず道端で食事した。蕪蔞亭に至ったとき、天は厳しく寒く、馮異が豆粥を差し出した。
- 饒陽に至ると官属はみな食に窮した。秀はそこで自ら邯鄲の使者と称して伝舎に入った。伝の吏が食を進めると、従者は飢えていて争って奪った。伝の吏は偽りを疑い、太鼓を数十回打ち鳴らして「邯鄲将軍が到着した」と偽って告げた。官属はみな顔色を失った。秀は車に乗って馳せようとしたが、逃げ切れぬと懼れ、静かに戻って坐り、「邯鄲将軍にお入りいただけ」と言った。しばらくして車を駆って去った。
- 昼夜兼行し、霜雪を冒して顔はみな裂けた。下曲陽に至ると、王郎の兵が後ろにいるという噂が伝わり、従者はみな恐れた。
- 滹沱河に至ると、斥候の吏が帰って「河は流氷があり船がなく渡れません」と告げた。秀は王覇を遣って見に行かせた。覇は衆を驚かせるのを恐れ、ひとまず前進して水に阻まれてから引き返すことにし、偽って「氷が堅く、渡れます」と言った。官属はみな喜んだ。秀は笑って「斥候の吏はやはり出鱈目を言ったな」と言った。
- そのまま進んで河に着くと、河の氷も凍り合っていた。そこで王覇に渡河を護らせた。渡り終わらぬうち、数騎を残して氷が解けた。
- 南宮に至って大風雨に遭い、秀は車を引いて道端の空き家に入った。馮異が薪を抱え、鄧禹が火を焚き、秀は竈に向かって衣を炙った。馮異はまた麦飯を進めた。
- 進んで下博城の西に至ったとき、当惑して行く先がわからなかった。白衣の老人が道端におり、指さして言った。「努めよ。信都郡は長安のために城を守っている。ここから八十里だ」と。秀はただちに馳せ向かった。
- このとき郡国はみなすでに王郎に降っており、ただ信都太守で南陽の任光と和戎太守で信都の邳肜だけが従おうとしなかった。光は孤城を独り守っては全うできぬと思っていたので、秀が来たと聞いて大いに喜び、吏民はみな万歳を称えた。邳肜も和戎から来て合流した。
- 議者の多くは「信都の兵に送らせて西へ長安に帰るがよい」と言った。邳肜が言った。
- 吏民が歌い口ずさんで漢を思うこと久しい。ゆえに更始が尊号を挙げると天下が響応し、三輔は宮を清め道を掃いて迎えた。今、卜者の王郎は名を借り勢いに因って烏合の衆を駆り集め、燕・趙の地を振るわせているが、根本の固さがない。明公が二郡の兵を奮って討たれるのに、何を克てぬと憂えましょう。
- 今これを捨てて帰れば、ただ空しく河北を失うだけでなく、必ず三輔を驚動させ、威重を損なう。得策ではありません。
- もし明公にもう征伐の意がないなら、信都の兵ですら集めがたい。なぜか。明公が西へ行けば邯鄲の勢いは成り、民は父母を捨て成った主に背いて千里も公を送ることを承知しない。離散逃亡は必至です。
- 秀はそこで思いとどまった。
- 秀は二郡の兵が弱いので、城頭子路や刁子都の軍に身を寄せようとしたが、任光は不可とした。そこで近隣の県から精兵四千人を得た。任光を左大将軍、信都都尉の李忠を右大将軍、邳肜を後大将軍として和戎太守は元のまま、信都令の万脩を偏将軍とし、みな列侯に封じた。南陽の宗広を留めて信都太守の事を領させ、任光・李忠・万脩に兵を率いて従わせ、邳肜には兵を率いて先鋒とした。
- 任光は檄文を多く作らせた。「大司馬劉公が城頭子路・刁子都の兵百万の衆を率い、東方から来て諸反虜を撃つ」と。騎兵を馳せて鉅鹿の界に至らせると、吏民は檄を得て次々と伝え告げた。
- 秀は日暮れに堂陽の界に入り、多く騎を張って火を沢中に満たした。堂陽はただちに降った。また貰県を撃って降した。
- 城頭子路とは東平の爰曾のことで、河・済の間を掠め、衆二十余万を擁していた。刁子都の衆は六、七万。ゆえに秀はこれに依ろうとしたのである。
- 昌城の人の劉植が兵数千人を集めて昌城に拠り、秀を迎えた。秀は植を驍騎将軍とした。耿純は宗族と賓客二千余人を率い、老いた者や病んだ者はみな棺を車に載せて従い、育で秀を迎えた。純を前将軍に拝した。
- 進んで下曲陽を攻めて降し、衆はしだいに集まって数万人になった。さらに北へ中山を撃った。耿純は宗家が異心を懐くのを恐れ、従弟の訢と宿を帰らせて廬舎を焼き、後ろを顧みる望みを断たせた。
- 秀は進んで盧奴を抜き、通る先々で奔命の兵を発し、檄を辺郡に回してともに邯鄲を撃つよう促した。郡県はまた響応した。
- 当時、真定王の劉楊が挙兵して王郎に付き、衆は十余万だった。秀は劉植を遣って楊を説き、楊は降った。秀はそのまま真定に留まり、楊の姉妹の子の郭氏を納れて夫人とし、結びを固めた。
- 進んで元氏・防子を撃ってみな下し、鄗に至って王郎の将の李惲を撃って斬った。柏人に至ってまた郎の将の李育を破ったが、育は退いて城を保ち、攻めても落ちなかった。
- 南鄭の人の延岑が挙兵して漢中に拠った。漢中王の劉嘉がこれを撃って降した。
- 校尉で南陽の賈復は更始の政が乱れているのを見て、嘉に説いた。「今、天下はまだ定まらぬのに大王は保つところを安んじて守っておられる。その保つところも保てなくなるのでは」と。嘉は「卿の言うことは大きすぎて私の任ではない。大司馬が河北におられる。必ず用いてくれよう」と言い、書を作って復および長史で南陽の陳俊を劉秀に推薦した。復らは柏人で秀に会い、秀は復を破虜将軍、俊を安集掾とした。
- 秀の家の召使いが法を犯し、軍市令で潁川の祭遵がこれを打ち殺した。秀は怒って遵を捕らえるよう命じたが、主簿の陳副が諫めた。「明公は常に全軍が整うことを望まれています。今、遵は法を奉じて憚りませんでした。これは教令が行われている証しです」と。そこで許し、刺姦将軍とした。諸将に「祭遵に用心せよ。わが家の子が法を犯してすら殺したのだ。必ず卿らを私することはない」と言った。
- ある者が大司馬の秀に、「柏人を守るより鉅鹿を定めるに如かず」と説いた。秀はそこで兵を率いて東北へ広阿を抜いた。
- 秀は地図を広げて鄧禹に指し示し、「天下の郡国はこれだけある。今やっとその一つを得たに過ぎない。先に『私をもって慮れば天下は定めるに足りぬ』と言ったのはどういうことか」と言った。禹は「今、海内は乱れ、人が明君を思うのは赤子が慈母を慕うようなもの。古の興起は徳の厚薄によるので、大小によりません」と答えた。
- 薊中の乱で耿弇は劉秀とはぐれ、北へ昌平へ走って父の況のもとへ行き、況に邯鄲を撃つよう説いた。
- 当時、王郎は将を遣って漁陽・上谷を徇えさせ、急ぎその兵を発しようとした。北州は疑い惑い、従おうとする者が多かった。上谷功曹の寇恂と門下掾の閔業が況に説いた。「邯鄲は急に立ったもので、信じがたい。さきの大司馬の劉伯升の同母弟は賢を尊び士に下ります。これに帰すべきです」と。況は「邯鄲は今まさに盛んで、独りでは拒めぬ。どうする」と言った。答えて「今、上谷は完全で充実し、弓を引く騎兵一万。よく吟味して去就を選べます。恂が東へ漁陽と約し、心を斉しくして衆を合わせれば、邯鄲は図るに足りません」と。況はもっともとし、恂を東へ遣って彭寵と約させ、それぞれ突騎二千匹と歩兵千人を発して大司馬の秀のもとへ送ることにした。
- 安楽令の呉漢、護軍の蓋延、孤奴令の王梁もまた寵に秀に従うよう勧め、寵はもっともと思ったが、官属はみな王郎に付こうとし、寵は覆せなかった。
- 漢は出て外の亭に泊まり、一人の儒生に遇って召して食べさせ、聞いていることを問うた。儒生は「大司馬の劉公は通る先々で郡県に称えられています。邯鄲で尊号を挙げた者は実は劉氏ではありません」と言った。漢は大いに喜び、ただちに秀の書を偽作して漁陽に檄を回し、儒生に持たせて寵のもとへ行かせ、聞いたことを具さに説かせた。折しも寇恂が到着し、寵はそこで歩騎三千人を発し、呉漢に長史を代行させ、蓋延・王梁とともにこれを率いさせた。南へ薊を攻めて王郎の大将の趙閎を殺した。
- 寇恂が帰り、上谷長史の景丹および耿弇とともに兵を率いてともに南下し、漁陽の軍と合流した。通る先々で王郎の大将・九卿・校尉以下を撃ち斬り、合わせて三万級を斬り、涿郡・中山・鉅鹿・清河・河間の合わせて二十二県を平定した。
- 広阿の前に至って城中に車騎が甚だ多いと聞いた。丹らは兵を整えて「これは何の兵か」と問うた。「大司馬劉公です」と答えた。諸将は喜んで進んで城下に至った。城中では初め二郡の兵が邯鄲のために来たと伝わり、衆はみな恐れた。劉秀は自ら西の城楼に登り、兵を整えて問うた。耿弇が城下で拝すると、ただちに召し入れ、発兵の次第を具さに述べた。
- 秀はそこで景丹らをみな召し入れ、笑って言った。「邯鄲の将帥はしばしば『私が漁陽・上谷の兵を発した』と言っていた。私は適当に『私も発した』と応じておいた。まさか二郡がほんとうに私のために来てくれようとは。今こそ士大夫とともにこの功名を分かとう」と。そこで景丹・寇恂・耿弇・蓋延・呉漢・王梁をみな偏将軍とし、帰ってその兵を領させ、耿況と彭寵に大将軍を加え、況・寵・丹・延をみな列侯に封じた。
- 呉漢は人となり実直で文飾に乏しく、とっさに言葉で意を通じられなかったが、沈着勇敢で智略があった。鄧禹がしばしば秀に薦め、秀はしだいに親しみ重んじた。
- 更始が尚書令の謝躬を遣って六将軍を率いて王郎を討たせたが、下せなかった。秀が至って合流し、東へ鉅鹿を囲むこと一月余りでまだ落ちなかった。
- 王郎が将を遣って信都を攻めさせると、大姓の馬寵らが城を開いて入れた。更始が兵を遣って信都を攻め破り、秀は李忠を帰らせて太守の事を行わせた。
- 王郎が将の倪宏・劉奉を遣って数万人を率いて鉅鹿を救わせた。秀は南欒で迎え撃って不利だったが、景丹らが突騎を放って撃ち、宏らは大敗した。秀は「私は突騎が天下の精兵と聞いていた。今その戦いを見た。愉快と言うも及ばぬ」と言った。
- 耿純が秀に言った。「久しく鉅鹿を守れば士衆は疲弊します。大兵が精鋭なうちに進んで邯鄲を攻めるに如くはありません。王郎が誅されれば鉅鹿は戦わずして自ずと服します」と。秀は従った。
- 夏四月、将軍の鄧満を留めて鉅鹿を守らせ、邯鄲へ進軍し、連戦してこれを破った。郎はそこで諫大夫の杜威を遣って降を請うた。威はしきりに「郎は実は成帝の遺体です」と称えた。秀は「たとえ成帝が生き返っても天下は得られぬ。まして子輿と詐る者などなおさらだ」と言った。威が万戸侯を求めると、秀は「身が全うできれば結構というものだ」と言った。威は怒って去った。
- 秀は急ぎ攻めること二十余日。五月甲辰、郎の少傅の李立が門を開いて漢兵を入れ、ついに邯鄲を抜いた。郎は夜に逃げたが、王覇が追って斬った。
- 秀は郎の文書を収め、吏民が郎と通じて秀を謗った書状数千通を得たが、秀は目も通さず、諸将軍を集めてこれを焼き、「後ろめたい者を安心させよ」と言った。
- 秀が吏卒を配分して諸軍に属させると、士はみな「大樹将軍に属したい」と言った。大樹将軍とは偏将軍の馮異のことである。人となり謙遜して功を誇らず、吏士に「交戦して敵を受けるとき以外は常に諸営の後ろを行け」と命じ、宿営するたびに諸将が並んで功を論ずる中、異はいつも独り樹の下に退いていた。ゆえに軍中で大樹将軍と呼ばれた。
- 護軍で宛の人の朱祐がさりげなく秀に言った。「長安の政は乱れ、公には日角の相があります。これは天命です」と。秀は「刺姦を召して護軍を捕らえよ」と言った。祐はそれきり敢えて口にしなかった。
- 更始が使者を遣って秀を蕭王に立て、ことごとく兵を罷めて諸将で功ある者とともに行在所へ来るよう命じ、苗曾を幽州牧、韋順を上谷太守、蔡充を漁陽太守として、みな北の任地へ向かわせた。
- 蕭王は邯鄲の宮に居り、昼、温明殿に臥していた。耿弇が入って牀の下に進み、人払いを請うて説いた。「吏士の死傷が多うございます。上谷へ帰って兵を増やしたい」と。蕭王は「王郎はすでに破れ、河北はほぼ平らいだ。また兵を用いて何とする」と言った。
- 弇は言った。「王郎は破れましたが、天下の兵乱はまさに始まったばかりです。今、使者が西方から来て兵を罷めさせようとしていますが、聴いてはなりません。銅馬・赤眉の類は数十組、一組が数十百万人。向かうところ敵なく、聖公(更始)には処理できません。敗れることは遠くありません」と。
- 蕭王は起き上がって坐り、「卿、失言だ。卿を斬るぞ」と言った。弇は「大王が私を哀れみ厚遇されること父子のようですから、敢えて赤心を披いたのです」と言った。蕭王は「戯れただけだ。なぜそう言う」と言った。
- 弇は答えた。「百姓は王莽に苦しんで再び劉氏を思い、漢兵が起こったと聞いて、虎口を離れて慈母のもとへ帰るように喜ばぬ者はありませんでした。今、更始が天子となっても諸将は山東で命を専らにし、貴戚は都内で横行し、掠奪を恣にしています。民は胸を叩いて改めて莽の朝を懐かしむ。ゆえに必ず敗れるとわかるのです。公はすでに功名が著れ、義をもって征伐すれば天下は檄を伝えて定まります。天下は至って重い。公は自ら取られるがよく、他姓に得させてはなりません」と。
- 蕭王はそこで河北がまだ平らがぬことを理由に召しに応ぜず、更始に対して二心を抱き始めた。
- このとき諸賊の銅馬・大彤・高湖・重連・鉄脛・大槍・尤来・上江・青犢・五校・五幡・五楼・富平・獲索らがそれぞれ部曲を率い、衆は合わせて数百万人。至る所で掠奪した。
- 蕭王はこれを撃とうとし、呉漢と耿弇をともに大将軍に拝し、節を持たせて北へ幽州十郡の突騎を発しに行かせた。苗曾はこれを聞いてひそかに諸部に応調せぬよう命じた。呉漢は二十騎を率いて先に無終へ馳せ、曾が路上に出迎えると、漢はただちに曾を捕らえて斬った。耿弇は上谷に着いて韋順と蔡充を捕らえて斬った。北州は震え上がった。そこでその兵をことごとく発した。
- 秋、蕭王が鄡で銅馬を撃った。呉漢が突騎を率いて清陽で合流した。士馬は甚だ盛んだった。漢は兵の帳簿をすべて幕府に上げ、配属先の指示を請い、敢えて私しなかった。王はいよいよ重んじた。
- 王は偏将軍で沛国の朱浮を大将軍・幽州牧とし、薊城を治めさせた。
- 銅馬は食が尽きて夜に逃げた。蕭王は追撃して館陶で大破した。降伏を受け終わらぬうちに高湖と重連が東南から来て銅馬の残兵と合流した。蕭王はまた蒲陽で大戦し、ことごとく破って降し、その首領を列侯に封じた。
- 諸将は賊を信じられず、降った者も安んじなかった。王はその心を察し、降者にそれぞれ自分の営へ帰って兵を整えさせ、自ら軽騎に乗って部陣を巡視した。降者は互いに言い合った。「蕭王は赤心を推して人の腹中に置いてくださる。どうして命を投げ出さずにいられよう」と。これによってみな服した。降人をすべて諸将に分配し、衆は数十万に達した。
- 赤眉の別帥が青犢・上江・大肜・鉄脛・五幡ら十余万の衆とともに射犬にあった。蕭王は兵を率いて進撃し大破した。南へ河内を徇え、河内太守の韓歆が降った。
- 冬、蕭王は北へ燕・趙を徇えようとし、赤眉が必ず長安を破ると推し量り、その隙に乗じて関中を併せようと考えたが、誰に託すべきかわからなかった。そこで鄧禹を前将軍に拝し、麾下の精兵の半ば二万人を分けて西へ関中に入らせ、偏将・裨将以下でともに行く者を自ら選ばせた。
- 当時、朱鮪・李軼・田立・陳僑が兵を率いて三十万と号し、河南太守の武勃とともに洛陽を守り、鮑永と田邑は并州にいた。
- 蕭王は河内が険要で富み実っているので、諸将から河内を守る者を選ぼうとしたが、人選に迷って鄧禹に問うた。禹は「寇恂は文武ともに備わり、民を牧し衆を御する才があります。この人でなければ任せられません」と言った。そこで恂を河内太守に拝し、大将軍の事を代行させた。
- 蕭王は恂に言った。「昔、高祖は蕭何を関中に留めた。私は今、公に河内を委ねる。軍糧を給足し、士馬を励まし、他の兵を防ぎ止めて北へ渡らせぬようにせよ」と。馮異を孟津将軍に拝し、魏郡・河内の兵を統べて河上で洛陽に対峙させた。
- 蕭王は自ら鄧禹を野王まで送った。禹が西へ発つと、蕭王はまた兵を率いて北へ向かった。寇恂は糧食を調え器械を整えて軍に供したので、軍は遠征しても欠乏したことがなかった。
漢光武建武元年(25年)
- 春正月、鄧禹が箕関に至り、河東都尉を撃ち破り、進んで安邑を囲んだ。
- 夏四月、蕭王が北へ元氏で尤来・大槍・五幡を撃ち、北平まで追って連破した。また順水の北で戦い、勝ちに乗じて軽々しく進んだためかえって敗れた。王は自ら高い崖から飛び降り、突騎の王豊に遇って、豊が馬を降りて王に授け、王はかろうじて免れた。散兵は帰って范陽を保った。
- 軍中で王の姿が見えず、すでに戦死したと言う者もあった。諸将はどうしてよいかわからなかった。呉漢は「卿ら努めよ。王の兄の子が南陽におられる。主がないことを憂えるに及ばぬ」と言った。衆は恐懼し、数日してようやく落ち着いた。
- 賊は戦いに勝ちながらも王の威名を憚り、夜のうちに引き揚げた。大軍はまた追って安次に至り、連戦して破った。賊は退いて漁陽へ入り、通る先々で掠奪した。
- 彊弩将軍の陳俊が王に言った。「戦うにも輜重がありません。軽騎を賊の前に出し、百姓にそれぞれ堅く壁を守らせてその食を絶てば、戦わずして殄滅できます」と。王はもっともとし、俊に軽騎を率いて賊の前へ馳せ出させた。人が保つ壁で堅固なものは固守を命じ、野に散らばっているものは掠め取らせた。賊は着いても得るものがなく、ついに散り敗れた。王は俊に「この虜を困らせたのは将軍の策だ」と言った。
- 馮異が李軼に書を送り、禍福を陳べて蕭王に帰服するよう勧めた。軼は長安がすでに危ういと知りながら、伯升の死のことで内心安んじられずにいた。そこで返書して言った。「軼はもと蕭王と最初に謀って漢を興した者。今、軼は洛陽を守り将軍は孟津を鎮め、ともに要所に拠っている。千載一遇の機会だ。金を断つほどの結びを成したい。どうか深く蕭王に伝え、愚策を進めて国を佐け民を安んじたい」と。
- 軼は書を通じて以来、二度と異と鋒を争わなかった。ゆえに異は北へ天井関を攻めて上党の二城を抜き、また南へ河南の成皋以東の十三県を下し、降る者は十余万に上った。
- 武勃が一万余人を率いて叛いた者たちを攻めた。異は士郷の下で戦って大破し、勃を斬った。軼は門を閉ざして救わなかった。異はその信の証しを見て、具さに王に報告した。
- 王は異に返答した。「季文(李軼)は詐りの多い男で、人はその要領を得られぬ。今、その書を回して守尉に告げ、警備すべき者に知らせよ」と。衆はみな王が軼の書を公にしたのを怪しんだ。朱鮪はこれを聞いて人を遣って軼を刺殺させた。これによって城中は乖離し、降る者が多かった。
- 朱鮪は王が北征して河内が手薄と聞き、将の蘇茂・賈彊を遣って三万余人を率いて鞏で河を渡って温を攻めさせ、鮪自身は数万人を率いて平陰を攻めて馮異を牽制した。
- 檄書が河内に届くと、寇恂はただちに軍を整えて馳せ出し、併せて属県に告げて兵を発し温の下に集めた。軍吏はみな諫めた。「今、洛陽の兵が河を渡ること前後絶えません。諸軍が集まり終わるのを待ってから出るべきです」と。恂は「温は郡の藩屏である。温を失えば郡は守れぬ」と言い、そのまま馳せ向かった。
- 翌日合戦したところ、馮異の遣った救援と諸県の兵がちょうど到着した。恂は士卒に城に登って鼓を打ち鳴らして大声で「劉公の兵が到着したぞ」と叫ばせた。蘇茂の軍はこれを聞いて陣が動揺した。恂はそこで突撃して大破した。
- 馮異もまた河を渡って朱鮪を撃ち、鮪は逃げた。異と恂は追って洛陽に至り、城を一周して帰った。これ以後、洛陽は震え恐れ、城門は昼も閉ざされた。
- 異と恂が檄を回して状況を報告すると、諸将は入って祝賀し、そのついでに尊号を上ることを勧めた。将軍で南陽の馬武が真っ先に進み出て言った。「大王が謙退を執られても、宗廟社稷はどうなさいます。まず尊位に即かれ、その上で征伐を議すべきです。今、誰を賊としてこれを馳せ撃つのですか」と。王は驚いて「何たることを将軍は言うのか。斬るべきだぞ」と言い、軍を率いて薊へ帰った。
- また呉漢を遣り、耿弇・景丹ら十三将軍を率いて尤来らを追わせ、一万三千余級を斬った。追い詰めて浚靡まで至って帰った。賊は散って遼西・遼東に入り、烏桓や貊人に襲われてほぼ殲滅された。
- 都護将軍の賈復が真定で五校と戦い、復は重傷を負った。王は大いに驚いて言った。「私が賈復を別軍の将としなかったのは、敵を軽んじるからだ。果たしてわが名将を失った。その妻が身ごもっていると聞く。女を生めばわが子に娶らせ、男を生めばわが娘を嫁がせよう。妻子を憂えさせぬためだ」と。復の傷はほどなく癒え、薊で王に追いついた。相見て大いに歓んだ。
- 中山に帰ると、諸将はまた尊号を上ろうとしたが、王はまた聴かなかった。南平棘まで来ると諸将はまた固く請うたが、王は許さなかった。
- 諸将が退こうとすると、耿純が進み出て言った。「天下の士大夫が親戚を捨て郷土を棄てて矢石の間に大王に従っているのは、その計るところ、もとより龍の鱗にすがり鳳の翼に付いて志を成そうとしてのことです。今、大王が時を留めて衆に逆らい、号位を正されなければ、士大夫は望みを絶ち計を窮めて去り帰る思いを抱きましょう。長く自ら苦しまれてはなりません。大衆はひとたび散れば再び合わせがたいのです」と。純の言はきわめて誠切だった。王は深く感じて「私も考えよう」と言った。
- 鄗まで来ると馮異を鄗に召し、四方の動静を問うた。異は「更始は必ず敗れます。宗廟の憂いは大王にかかっています。衆議に従うべきです」と言った。
- 折しも儒生の彊華が関中から赤伏符を奉じて来て王に差し出した。「劉秀、兵を発して不道を捕らえ、四夷雲のごとく集まり、龍が野に鬭う。四七の際、火をもって主となす」と。群臣はそこでまた奏請した。
- 六月己未、王が鄗の南で皇帝の位に即いた(光武帝)。改元して大赦した。
- 秋七月己亥、帝は呉漢に建義大将軍の朱祐ら十一将を率いさせ、洛陽に朱鮪を囲ませた。
- 諸将が洛陽を囲むこと数か月、朱鮪は堅く守って落ちなかった。帝は廷尉の岑彭がかつて鮪の校尉だったので、行って説かせた。鮪は城上、彭は城下で成敗を陳べた。鮪は言った。「大司徒(劉縯)が害されたとき、私は謀に加わった。また更始に蕭王を北伐に遣らぬよう諫めた。まことに自ら罪の深さを知っており、敢えて降れない」と。
- 彭は帰って具さに帝に伝えた。帝は「大事を挙げる者は小さな怨みを忌まぬ。鮪が今降れば官爵も保てる。まして誅罰などあろうか。河水はここにある。私は食言しない」と言った。
- 彭がまた行って鮪に告げると、鮪は城上から綱を下ろして「まことに信じられるなら、これに乗って登れ」と言った。彭が綱を急いで手繰って登ろうとすると、鮪はその誠意を見てただちに降を許した。
- 辛卯、朱鮪は面縛して岑彭とともに河陽へ赴いた。帝はその縛を解いて召し見、また彭に夜のうちに鮪を城へ送り返させた。翌朝、鮪は蘇茂らとその衆をことごとく率いて出て降った。鮪を平狄将軍に拝し、扶溝侯に封じた。
- 冬十月癸丑、車駕が洛陽に入り、南宮に行幸して、そのまま都と定めた。
漢光武建武二年(26年)
- 春正月庚辰、諸功臣をことごとく列侯に封じた。梁侯の鄧禹と広平侯の呉漢はいずれも四県を食んだ。
- 博士の丁恭が議して言った。「古は諸侯を封じても百里を過ぎませんでした。幹を強くし枝を弱くするのが治の道です。今、四県を封じるのは法制に合いません」と。帝は「古の亡国はみな無道によるもの。功臣の地が多くて滅亡したという話は聞いたことがない」と言った。
- 洛陽に高廟を建て、四季に高祖・太宗・世宗を合祀し、宗廟の右に社稷を建て、城南に郊の祭壇を立てた。