通鑑紀事本末趙充国、羌を破る(趙充國破羌)

諸羌が仇を解いて盟い、匈奴と結ぼうとするなか、義渠安國の失策で先零が叛く。七十余歳の趙充國が自ら将を買って出て金城に赴き、慎重に軍を進めて先零だけを撃ち、䍐・开には手を出さず招き降す方針を、辛武賢や朝議の反対を押して主張し通した。騎兵を罷めて屯田し敵の自壊を待つ十二の便を説き、ついに羌を瓦解させる。元康四年(前62年)から神爵二年(前60年)までの3年間。

年表(3件)
  • 漢宣帝
  • 元康四年前62年諸羌が仇を解いて盟い、趙充國が匈奴との結託を警告する
  • 神爵元年前61年義渠安國の誅殺が羌の叛乱を招き、充國が出陣して先零を破り屯田を上奏する
  • 神爵二年前60年羌が先零の豪族を斬って降り、金城属国を置いて屯兵を罷める

漢宣帝元康四年(前62年)

  • かつて武帝は河西に四郡を開き、羌と匈奴が通じ合う道を断ち、諸羌を追い払って湟中の地に住まわせなかった。
  • 帝が即位すると、光祿大夫の義渠安國が諸羌を巡察した。先零の豪族が「時に応じて湟水の北を渡り、民が耕さない所を追って牧畜したい」と願い出、安國はこれを報告した。後将軍の趙充國は、安國が使命を奉じるのに不敬であったとして弾劾した。
  • これ以後、羌人は先の申し出を口実に、勝手に湟水を渡り、郡県は禁じられなかった。
  • やがて先零と諸羌の種族の豪族二百余人が、互いの仇を解いて人質を交換し盟いを結んだ。上はこれを聞いて趙充國に問うた。
  • 充國は答えた。「羌人が制しやすいのは、種族ごとに豪族がいて度々攻め合い、勢力が一つにまとまらないからです。三十余年前に西羌が叛いたときも、まず仇を解いて約を結び、令居を攻めて漢と対峙し、五、六年でようやく平定しました。匈奴は度々羌人を誘って共に張掖・酒泉の地を撃ち、そこに羌を住まわせようとしています。近ごろ匈奴は西方で困窮しており、改めて使者を羌の中へ送って結ぼうとしているのではないかと疑われます。私は羌の変がこれで止まらず、さらに他の種族と結ぶことを恐れます。まだそうならぬうちに備えるべきです」と。
  • 一月余り後、羌侯の狼何が果たして匈奴に使者を送って兵を借り、鄯善・敦煌を撃って漢への道を絶とうとした。
  • 充國は、狼何の勢力では単独でこの計は立てられないとして、匈奴の使者がすでに羌の中に至っており、先零と䍐・开が仇を解いて約を結んだのだと疑った。「秋になって馬が肥えれば必ず変が起こる。使者を遣って辺境の兵を巡察させ、あらかじめ備えさせ、諸羌を監視して仇を解かせないようにし、その謀を発覚させるべきです」と述べた。
  • そこで両府(丞相府・御史府)は改めて義渠安國を遣って諸羌を巡察させ、善悪を分別させることを申し上げた。

漢宣帝神爵元年(前61年)

  • 三月、義渠安國が羌の中に至り、先零の諸豪族三十余人を召し、とりわけ狡猾な者をみな斬り、兵を放ってその種族を撃ち、千余級を斬った。
  • そこで降っていた諸羌および帰順していた羌侯の楊玉らは怨り怒り、頼るところを失って、ついに小さな種族を脅し取り込み、背いて塞を侵し、城邑を攻めて長吏を殺した。
  • 安國は騎都尉として騎三千を率いて羌に備えて駐屯していたが、浩亹で敵に撃たれ、輜重と兵器を甚だ多く失った。安國は引き返して令居に至り、これを報告した。
  • 当時、趙充國は七十余歳。上は老いていると考え、丙吉を遣って誰を将にできるか問わせた。充國は「老臣に勝る者はありません」と答えた。
  • 上が人を遣って「将軍は羌の敵をどう見るか。何人ほど必要か」と問うと、充國は「百聞は一見に如かず。兵は遠くからは測りがたい。私は金城へ馳せて、方策を図に描いて奉りたい。羌戎は小さな夷にすぎず、天に逆らい背いた以上、滅亡は遠くない。どうか陛下、老臣にお任せください。ご心配には及びません」と答えた。上は笑って「よろしい」と言った。
  • そこで大挙して兵を発して金城へ送った。夏四月、充國を遣ってこれを率いさせ、西羌を撃たせた。

  • 六月、趙充國が金城に至った。兵が一万騎に満ちるのを待ち、黄河を渡ろうとしたが、敵に遮られることを恐れた。そこで夜のうちに三校に枚を銜ませて先に渡らせ、渡るごとに陣営を築かせ、夜明けには全軍が順に渡り終えた。

  • 敵の数十から百騎が軍のかたわらに出入りした。充國は「我が士馬は疲れたばかりで馳せ回れない。彼らはみな驍勇な騎で制しがたく、しかも誘いの兵かもしれない。敵を撃つのは殲滅を期してのこと。小利は貪るに足りない」と言い、軍に撃たせなかった。
  • 斥候の騎を遣って四望峡の中を偵察させ、敵がいないと分かると、夜に兵を進めて落都に至った。諸校尉・司馬を召して「私は羌の敵が兵を用いられないと分かった。もし敵が数千人を出して四望峡を守り塞いでいたら、兵はどうして入れたろうか」と言った。
  • 充國は常に斥候を遠くまで出すことに努め、行軍すれば必ず戦備を整え、駐屯すれば必ず陣営を堅くした。とりわけ慎重を保ち、士卒を愛し、まず計を立ててから戦った。
  • ついに西へ西部都尉府に至り、日々軍士に酒食を振る舞ったので、士はみな用いられることを望んだ。敵が度々挑戦しても、充國は堅守した。
  • 捕虜を得て聞くと、羌の豪族が互いに責め合って「お前たちに叛くなと言ったのだ。今、天子が趙将軍を遣ってきた。年は八、九十だが用兵に長けている。今、一戦して死にたいと願っても、それすら叶うまい」と言っている、とのことだった。
  • はじめ䍐・开の豪族の靡當兒が弟の雕庫を遣って都尉に「先零が叛こうとしている」と告げさせ、数日後に果たして叛いた。雕庫の種族の者がかなり先零の中にいたので、都尉は雕庫を人質として留めた。
  • 充國は罪はないとして帰し、種族の豪族に告げさせた。「大軍は罪ある者を誅す。はっきりと自ら区別し、巻き添えで滅ぼされることのないようにせよ。天子は諸羌に、法を犯した者を捕らえ斬れば罪を除き、功の大小に応じて銭を賜ると告げておられる」と。また、捕らえた者の妻子・財物はすべてその者に与えることとした。
  • 充國の計は、威と信で䍐・开および脅されて加わった者を招いて降し、敵の謀を解散させ、疲れ切ったところで撃つというものだった。
  • 当時、上はすでに内郡の兵を発して辺境に駐屯させ、合わせて六万人となっていた。
  • 酒泉太守の辛武賢が奏言した。「郡の兵はみな南山の備えに駐屯し、北辺は手薄です。この情勢は長く続けられません。秋冬になってから進兵するのは、敵が境外にいる場合の策です。今、敵は朝夕に寇をなしている。土地は寒く苦しく、漢の馬は冬に耐えられません。七月上旬に三十日分の糧を携え、兵を分けて張掖・酒泉から出し、鮮水のほとりにいる䍐・开を挟撃するに如くはありません。誅し尽くせなくとも、その家畜を奪い妻子を捕らえて兵を引き、冬にまた撃つ。大軍が続けて出れば敵は必ず震え崩れます」と。
  • 天子はその書を下し、充國に議させた。充國は答えた。
  • 馬一頭が三十日分の食を自ら負うと、米二斛四斗、麦八斛になります。さらに衣装と兵器がある。追撃は難しい。敵は必ず我が軍の進退を計り、少しずつ引いて水草を追い山林へ入る。それに従って深入りすれば、敵は前の険に拠り後の隘を守って糧道を絶つ。必ず傷つき危うくなる憂いがあり、夷狄に笑われて千載取り返しがつきません。
  • 武賢が家畜を奪い妻子を捕らえられると言うのは、おそらく空言であって最良の計ではありません。
  • 先零が真っ先に叛逆し、他の種族は脅されて加わったのです。ゆえに私の愚計では、䍐・开のはっきりしない過ちは捨て置いて表沙汰にせず、先に先零を誅して震え上がらせる。彼らが過ちを悔いて善に返るなら、その罪を赦し、良吏でその俗を知る者を選んで慰撫し和らげる。これが軍を全うし勝ちを保ち辺境を安んじる策です。
  • 天子はその書を下したが、公卿の議者はみな「先零は兵が盛んで䍐・开の助けを恃んでいる。まず䍐・开を破らなければ先零は図れない」と考えた。
  • 上は侍中の許延壽を彊弩将軍とし、その場で酒泉太守の武賢を破羌将軍とし、璽書を賜ってその策を嘉して採用し、書で充國を敕して責めた。
  • 今、輸送が一斉に起こって百姓は煩わされている。将軍は一万余の衆を率いながら、秋の水草の利がある早いうちに敵と家畜の食を争わず、冬まで待とうとする。冬には敵はみな食を蓄えて山中に隠れ険阻に拠る。将軍の士は寒さで手足がひび割れ凍傷になる。何の利があろう。
  • 将軍は中国の費えを念頭に置かず、年数をかけて敵に勝とうとする。将軍でなくとも誰がそれを喜ばぬはずがあろう。
  • 今、破羌将軍武賢らに七月に䍐羌を撃たせるよう詔した。将軍も兵を率いて並び進み、二度と疑いを差し挟むな。
  • 充國は上書した。
  • 陛下は先に幸いにも書を賜り、人を遣って䍐に「大軍が至るが、漢は䍐を誅さない」と諭してその謀を解こうとされた。ゆえに私は开の豪族の雕庫を遣って天子の至徳を宣べさせ、䍐・开の一族はみな聞き知っています。
  • 今、先零の羌の楊玉は石山や林に拠って便を窺い寇をなしていますが、䍐羌はまだ何も犯していません。それなのに先零を措いて先に䍐を撃つのは、罪ある者を放って罪なき者を誅すことであり、一つの難を起こして二つの害を成すもの。まことに陛下の本来の計ではありません。
  • 兵法に「攻めるに足りない者は守って余りある」と言い、また「よく戦う者は人を致して人に致されない」と言います。今、䍐羌が敦煌・酒泉を寇そうとしているなら、兵馬を整え戦士を鍛えてその到来を待つべきです。座して敵を招き寄せる術を得、逸をもって労を撃つ、勝ちを取る道です。
  • 今、二郡の兵が少なくて守れないことを恐れて発し、進んで攻めるのは、敵を招く術を捨てて敵に招かれる道に従うもの。私はこれを不便と考えます。
  • 先零の羌は背き叛こうとして䍐・开と仇を解いて約を結びましたが、その内心では、漢兵が至れば䍐・开が背くのではないかと恐れずにいられません。ゆえにその計は常に、まず䍐・开の急に駆けつけてその約を固めようとするはずです。先に䍐羌を撃てば、先零は必ずこれを助けます。
  • 今、敵の馬は肥え糧食は豊かで、撃っても傷つけられないでしょう。かえって先零に䍐羌へ徳を施させ、約を固め党を合わせさせるだけです。敵の交わりが固く党が合えば、精兵二万余人となり、脅されて付き従う小さな種族もしだいに増え、莫須の類も容易には離れられなくなります。そうなれば敵兵はますます多くなり、誅すのに数倍の力を要する。国家の憂いは十年数えても足りず、二、三年で済まないことを恐れます。
  • 私の計では、まず先零を誅せば、䍐・开の類は兵を煩わさずに服します。先零を誅しても䍐・开が服さなければ、正月を過ぎて撃つのが計の道理にかない、しかも時宜にかないます。今、進兵しても、まことにその利が見えません。
  • 戊申、充國が上奏した。秋七月甲寅、璽書で返答があり、充國の計に従うこととなった。
  • 充國は兵を率いて先零のいる所に至った。敵は長く屯集して緩んでおり、大軍を見ると輜重を棄てて湟水を渡ろうとした。道は狭く隘だった。充國はゆっくり進んで追い立てた。
  • ある者が「利を追うのに進みが遅い」と言った。充國は「これは窮した敵だ。追い詰めてはならない。緩めれば振り返らずに逃げるが、急かせば引き返して死力を尽くす」と答えた。諸校尉はみな「善し」と言った。
  • 敵は水に飛び込んで溺死した者数百、降伏および斬首は五百余人、馬牛羊十万余頭、車四千余両を得た。
  • 兵が䍐の地に至ると、充國は軍に集落を焼かず田の中で馬を放牧させないよう令した。䍐羌はこれを聞いて喜び、「漢は果たして我らを撃たない」と言った。豪族の靡忘が人を遣って「故地に帰りたい」と言ってきた。充國は報告したがまだ返答がなかった。
  • 靡忘が自ら帰順しに来ると、充國は飲食を賜って帰し、種族の者に諭させた。護軍以下はみな争って「これは叛いた敵だ。勝手に帰してはならない」と言った。充國は「諸君はただ文書の体裁をよくして自ら保身したいだけで、公家のための忠実な計ではない」と言った。言い終わらぬうちに璽書が届き、靡忘を贖罪として論じるよう命じた。後に䍐はついに兵を煩わさずに降った。
  • 上は破羌将軍・彊弩将軍に駐屯地へ赴かせ、十二月に充國と合流して先零を撃たせようとした。当時、羌の降伏者はすでに一万余人になっていた。充國はその崩壊を見込み、騎兵を罷めて屯田し、その疲弊を待とうと考え、上奏文を作ってまだ提出していないうちに、進兵の璽書を得た。
  • 充國の子で中郎将の卬は恐れ、食客を遣って充國を諫めさせた。「もし兵を出して軍が破れ将が殺され国家を傾けるというなら、将軍が守られるのももっともです。しかし利か害かという程度のことで、どうして争うのですか。ひとたび上の意に沿わず、繡衣の使者が遣わされて将軍を責めれば、将軍ご自身の身も保てません。それで何の国家の安泰ですか」と。
  • 充國は嘆じて言った。
  • なんと不忠な言葉か。もともと私の言を用いていれば、羌の敵がここまで至ったろうか。かつて羌の件を先に処理できる者を挙げよと言われ、私は辛武賢を挙げたが、丞相・御史はまた義渠安國を遣るよう申し上げ、ついに羌の件を台無しにした。
  • 金城・湟中の穀は一斛八銭だった。私は耿中丞に三百万斛を買えば羌人は動けなくなると言った。耿中丞は百万斛を請うたが、得られたのは四十万斛だけ。義渠が再び使いしてその半分を費やした。この二つの策を失ったから、羌人はついに叛くに至った。毫釐を失えば千里を違える。まさにその通りになった。
  • 今、兵が長く決せず、四夷が急に動揺して次々に起これば、智者がいてもその後始末はできない。羌だけが憂えるに足るものか。私はもとより死をもってこれを守る。明主には忠言を申し上げられる。
  • そして屯田の奏を上げた。
  • 私が率いる吏士と馬牛が食う糧穀・秣・藁の調達は甚だ広範で、長く続ければ解けなくなる。徭役が止まなければ他の変が生じ、明主の憂いとなるでしょう。まことに、あらかじめ廟堂で定めた必勝の策ではありません。しかも羌は計で破りやすく、兵で砕くのは難しい。ゆえに私の愚心では撃つのは不便と考えます。
  • 計るに、臨羌の東から浩亹まで、羌の旧田および公田で民がまだ開墾していない地が二千頃以上あります。そのあいだの郵亭は壊れたものが多い。私は先に士を山に入れて材木六万余枚を伐り、水辺に置いてあります。
  • 騎兵を罷め、歩兵一万二百八十一人を留めて要害に分屯させたい。氷が解けたら漕運で下し、郷亭を修繕し溝渠を浚え、湟峡以西の道と橋七十か所を修めて鮮水の左右まで至れるようにする。田事には一人二十畝の割り当てを出す。四月に草が生えたら、郡の騎および属国の胡騎各一千を発して草を頼りとし、耕作する者の遊撃兵として金城郡に入れる。蓄えを増して大きな費えを省けます。今、大司農が輸送した穀は一万人の一年分の食を支えるに足ります。謹んで田の場所と器具の帳簿を奉ります。
  • 返答があった。「将軍の計の通りなら、敵はいつ誅に伏し、兵事はいつ決着するのか。よく考えてその便を改めて奏せよ」と。
  • 充國は状を上げた。
  • 帝王の兵は全きをもって勝ちを取ります。ゆえに謀を貴び戦を賤しむ。百戦して百勝するのは善の善なるものではありません。ゆえにまず勝てない態勢を作って、敵が勝てる状態になるのを待つのです。
  • 蛮夷の習俗は礼義の国と異なりますが、害を避け利に就き、親戚を愛し死亡を畏れるのは同じです。今、敵はその良い土地と豊かな草を失い、身の寄せどころに憂い、遠く逃れて骨肉は心が離れ、人には叛く志がある。そこで明主が軍を返して兵を罷め、一万人を留めて耕させ、天の時に順い地の利によって、勝てる状態の敵を待つ。すぐには罪に伏さなくとも、兵事の決着は一か月ほどで望めます。
  • 羌の敵は瓦解しており、前後の降伏者は一万七百余人、こちらの言葉を受けて去った者は合わせて七十組。これは座して羌の敵を解体する手立てです。
  • 謹んで出兵せず留まって耕す便宜十二事を列挙します。
    1. 歩兵九校、吏士一万人を留屯させて武備とし、耕して穀を得る。威と徳が並び行われる。
    2. 羌の敵を押しのけて肥沃な地へ帰らせず、その衆を貧しく破って、羌が互いに背き合う端緒を作る。
    3. 居民が並んで耕作でき、農業を失わない。
    4. 軍馬の一月分の食は、耕す士の一年分を支えるに相当する。騎兵を罷めて大きな費えを省ける。
    5. 春には甲士を減らし、河湟に沿って穀を臨羌まで漕運して羌の敵に示す。武を揚げ、代々敵を退ける手立てを伝えられる。
    6. 暇なときに先に伐った材木を下ろし、郵亭を修繕して金城に納める。
    7. 兵を出せば危険を冒して僥倖を頼むことになる。出さなければ、叛いた敵は風寒の地に逃げ隠れ、霜露・疾疫・凍傷の患いに遭う。座して必勝の道を得られる。
    8. 険阻を越えて遠く追う死傷の害がない。
    9. 内には武威の重みを損なわず、外には敵に隙を突かせない。
    10. 河南の大开を驚かせて他の変を生じさせる憂いがない。
    11. 湟峡の中の道と橋を修めて鮮水まで至れるようにし、西域を制して威を千里に伸ばす。枕席の上から師を出すようなものである。
    12. 大きな費えが省け、徭役をあらかじめ休ませて不測に備えられる。
  • 留屯・耕作には十二の便があり、出兵には十二の利の喪失がある。どうか明詔をもってお選びください。
  • 上はまた返答した。「兵事の決着が一か月ほどで望めるというのは、今年の冬のことか、いつのことか。将軍は、兵がかなり罷められたと敵が聞けば、壮丁が集まって耕作者や道中の屯兵を攻め騒がせ、また人民を殺し略奪することを計算に入れないのか。何をもってこれを止めるのか。将軍、よく考えて改めて奏せよ」と。
  • 充國は奏した。
  • 兵は計を本とすると聞きます。ゆえに算多きは算少なきに勝つ。先零の羌の精兵は今、七、八千人を超えません。地を失い遠く客居し、分散して飢え凍え、背いて帰る者が絶えません。私の愚考では、敵の崩壊は日月のうちに期待でき、遅くとも来春でしょう。ゆえに兵事の決着は一か月ほどで望めると申したのです。
  • 見るところ、北辺は敦煌から遼東まで一万一千五百余里、塞に拠って地を並べ吏卒は数千人。敵が度々大衆で攻めても害を成せません。今、騎兵を罷めても、敵は屯田の士に精兵一万人がいるのを見ます。今から三月まで敵の馬は痩せており、必ず妻子を他の種族の中に置いて遠く河山を渉って寇に来ることはできず、また輜重を連れて故地へ帰ることもできません。これが私の愚計で敵を測るところであり、必ず瓦解し、その場で戦わずに自ら破れる策です。
  • 敵が小さな寇盗をなし時に人民を殺すことについては、その根を一気に禁じることはできません。「戦って必ず勝てないなら軽々しく刃を交えず、攻めて必ず取れないなら軽々しく衆を労さない」と聞きます。まことに兵を出せば、先零を滅ぼせなくとも、敵に小さな寇すらさせなくできるというなら、出兵してよい。しかし今は同じことなのに、座して勝つ道を捨て危険に乗る勢いに従い、行っても結局利は見えず、いたずらに内を疲弊させ、重きを損ない自ら傷つく。蛮夷に示すべきことではありません。
  • しかも大軍がひとたび出れば、帰った後にまた留まらせられず、湟中を空にすることもできません。そうなれば徭役はまた改めて発することになります。私はこれを不便と考えます。
  • 私はひそかに思います。詔を奉じて塞を出、軍を率いて遠く撃ち、天子の精兵を窮めさせ車と甲を山野に散らして、寸尺の功もないまま、嫌疑を避ける便を得て後の咎めを免れる。それは人臣が不忠によって得る利であって、明主・社稷の福ではありません。
  • 充國の奏が上がるたびに公卿の議に下された。はじめ充國の計を是とする者は十のうち三、途中で十のうち五、最後には十のうち八となった。詔して以前に不便だと言った者を詰問すると、みな頓首して服した。
  • 魏相は「私は愚かで兵事の利害に習熟していません。しかし後将軍は度々軍略を描き、その言は常に正しい。私はその計を保証します。必ず用いるべきです」と言った。
  • 上はそこで充國に返答して嘉して採用した。ただし破羌将軍・彊弩将軍が度々撃つべきだと言っていたので、両方の計に従った。
  • 詔して両将軍と中郎将の卬に出撃させた。彊弩は四千余人を降し、破羌は二千級を斬り、中郎将の卬も二千余級を斬りまた降した。充國が降した者はさらに五千余人。詔して兵を罷め、充國だけが留まって屯田した。

漢宣帝神爵二年(前60年)

  • 夏五月、趙充國が奏言した。「羌はもともとおよそ五万人。軍は合わせて七千六百級を斬り、降った者は三万一千二百人、河湟に溺れ飢餓で死んだ者は五、六千人。計算すると、逃れて煎鞏・黄羝とともに逃亡した者は四千人を超えません。羌の靡忘らが必ず捕らえると請け合っています。屯兵を罷めることを請います」と。奏は許された。
  • 充國は軍を整えて帰った。親しい浩星賜が迎えて充國に説いた。「衆人はみな破羌・彊弩が出撃して多くを斬り生け捕り降させたから敵が崩れたと思っています。しかし識者は、敵の勢いが窮しており兵を出さなくても必ず自ら服したと考えている。将軍が拝謁されたら、功を二将軍の出撃に帰されるのがよい。愚臣の及ばぬところですが、そうすれば将軍の計も誤りにはなりません」と。
  • 充國は言った。「私は年老い、爵位も極まった。どうして一時の事を誇って明主を欺くことを憚ろうか。兵の情勢は国の大事であり、後の法とすべきものだ。老臣が余命をもって一度でも陛下に兵の利害を明言しなければ、死んでしまえば誰が改めて言おう」と。ついに自分の考えのまま答えた。上はその計をもっともとし、辛武賢を罷めて酒泉太守の官に帰し、充國を再び後将軍とした。
  • 秋、羌の若零・離留・且種・兒庫が共に先零の大豪族である猶非と楊玉の首を斬り、諸豪族の弟の澤・湯・雕・良兒・靡忘がみな煎鞏・黄羝の類四千余人を率いて漢に降った。若零と弟の澤の二人を帥衆王に封じ、その他はみな侯・君とした。はじめて金城属国を置いて降った羌を住まわせた。
  • 詔して護羌校尉となれる者を挙げさせた。当時、充國は病んでいた。四府は辛武賢の末弟の湯を挙げた。充國は急ぎ起きて「湯は酒癖が悪く蛮夷を管掌させられません。湯の兄の臨衆に及びません」と奏した。当時、湯はすでに任じられて節を受けていたが、詔して臨衆に代えた。
  • 後に臨衆が病で免ぜられ、五府が再び湯を挙げた。湯は度々酔って羌人を罵り、羌人は叛いた。ついに充國の言った通りになった。
  • 辛武賢は深く充國を恨み、上書して中郎将の卬が禁中の言葉を漏らしたと告発した。卬は吏に下されて自殺した。