通鑑紀事本末匈奴、漢に帰服する(匈奴歸漢)

武帝の遠征で疲弊した匈奴が、単于位をめぐる内紛から五単于の分立に至り、ついに呼韓邪単于が漢に臣従して来朝するまでを描く。西では鄭吉が車師を破って西域都護を置き、甘延壽・陳湯が康居に走った郅支単于を斬って北辺を鎮めた。呼韓邪の入朝と王昭君の降嫁で漢と匈奴の関係は安定し、以後代々の単于が朝献した。昭帝始元二年(前85年)から哀帝元壽二年(前1年)までの約85年間。

年表(30件)
  • 漢昭帝
  • 始元二年前85年狐鹿姑単于が死に、衛律らが遺命を偽って壺衍鞮単于を立て匈奴が衰えはじめる
  • 始元六年前81年壺衍鞮単于が漢に和親を求め、常惠の機転で蘇武らが帰国する
  • 元鳳元年前80年匈奴二万騎の侵入を漢兵が撃破し、甌脱王を生け捕る
  • 元鳳三年前78年張掖で犁汙王を射殺し、范明友が烏桓を撃って六千余級を斬る
  • 漢宣帝
  • 本始二年前72年烏孫の求めに応じ、五将軍を発して匈奴征伐の大軍を起こす
  • 本始三年前71年常惠と烏孫が右谷蠡王の庭を襲って四万級を得、匈奴は大雪と三国の攻撃で大いに衰える
  • 地節二年前68年壺衍鞮単于が死んで虚閭權渠単于が立ち、匈奴は飢饉で人畜の六、七割を失う
  • 地節三年前67年鄭吉が車師を破り、吏卒三百人を車師の地へ送って屯田させる
  • 元康二年前64年魏相の諫言で匈奴右地への出兵を中止し、車師の故地を匈奴に与える
  • 神爵二年前60年虚閭權渠単于が死んで握衍朐鞮単于が立ち、日逐王が降って鄭吉が西域都護となる
  • 神爵四年前58年稽侯㹪が呼韓邪単于に立ち、握衍朐鞮単于は敗れて自殺する
  • 五鳳元年前57年屠耆・呼掲・車犂・烏藉と呼韓邪の五単于が並び立ち、蕭望之が乗じての出兵に反対する
  • 五鳳二年前56年屠耆単于が敗れて自殺し、呼韓邪単于が単于の庭に復するが郅支単于が東辺に自立する
  • 五鳳四年前54年郅支単于が閏振を殺して呼韓邪を破り、単于の庭に都する
  • 甘露元年前53年呼韓邪単于が左伊秩訾の計を容れ、子を人質に送って漢への臣従を決める
  • 甘露二年前52年蕭望之の議により、単于を諸侯王の上に置き客の礼で遇すると定める
  • 甘露三年前51年呼韓邪単于が来朝し、董忠らの護衛と穀の給付を受けて幕南に住む
  • 黄龍元年前49年郅支単于が西へ烏孫を破り烏掲・堅昆・丁令を併せて堅昆に都する
  • 漢元帝
  • 初元五年前44年郅支単于が漢使の谷吉を殺し、康居に迎えられて西へ移る
  • 永光元年前43年呼韓邪単于が北の庭へ帰り、民衆が帰服してその国が安定する
  • 建昭三年前36年甘延壽と陳湯が制を偽って兵を発し、康居で郅支単于を斬る
  • 建昭四年前35年郅支の首が京師に至り、槀街に十日懸けてから埋める
  • 建昭五年前34年呼韓邪単于が郅支の誅殺を聞き、喜びかつ恐れて入朝を願い出る
  • 竟寧元年前33年呼韓邪単于が来朝して王昭君を賜り、侯應の十不可で辺塞廃止の議が退けられる
  • 漢成帝
  • 建始二年前31年呼韓邪単于が死に、雕陶莫皋が復株累若鞮単于として立つ
  • 建始四年前29年陳湯が匡衡に弾劾されて免ぜられ、谷永の弁護で死を免れて士伍に落とされる
  • 河平二年前27年谷永・杜欽の議により、降伏を申し出た伊邪莫演を受け入れず帰す
  • 綏和元年前8年烏珠留若鞮単于が立ち、夏侯藩が張掖に接する地を求めて拒まれる
  • 漢哀帝
  • 建平四年前3年楊雄の上書により、いったん拒んだ単于の入朝を許す
  • 元壽二年前1年匈奴の単于が来朝し、前より厚い賜与を受ける

漢昭帝始元二年(前85年)

  • かつて武帝が匈奴を征伐し、深入りして追撃すること二十余年。匈奴は馬や家畜が孕んでも流産し、疲れ果てて苦しみ、常に和親したい意向はあったが実現できなかった。
  • 狐鹿姑単于に異母弟があり、左大都尉となって賢明で国人が心を寄せていた。母の閼氏は、単于が子を立てず左大都尉を立てるのではと恐れ、私かに人を遣って殺させた。左大都尉の同母兄は怨んで、二度と単于の庭に参集しなくなった。
  • この年、単于が病んで死のうとするとき、諸貴人に「我が子は幼く国を治められない。弟の右谷蠡王を立てよ」と言った。
  • 単于が死ぬと、衛律らは顓渠閼氏と謀って喪を隠し、単于の令を偽って、改めて子の左谷蠡王を立てて壺衍鞮単于とした。
  • 左賢王と右谷蠡王は怨んで、その衆を率いて南の漢に帰そうとしたが、自力では至れないと考え、盧屠王を脅して西の烏孫に降ろうとした。盧屠王が単于に告げ、単于が人を遣って取り調べたが、右谷蠡王は服さず、かえってその罪を盧屠王に着せた。国人はみな盧屠王を冤とした。
  • こうして二王は去ってその居所に留まり、二度と龍城に参集しなくなった。匈奴はここから衰えはじめた。

漢昭帝始元六年(前81年)

  • 春二月、壺衍鞮単于が立ったが、母の閼氏の行いが正しくなく国内は離反し、常に漢兵の襲来を恐れた。そこで衛律が単于に漢との和親を謀った。
  • 漢の使者が至って蘇武らを求めたが、匈奴は偽って「武は死んだ」と言った。後に漢の使者がまた至ったとき、常惠が私かに漢の使者に会い、単于にこう言うよう教えた。「天子が上林で射たとき、雁の足に帛書が結ばれており、武らが某の沢中にいると書かれていた」と。
  • 使者は大いに喜び、惠の言葉通りに単于を責めた。単于は左右を見回して驚き、漢の使者に詫びて「武らは実際に生きている」と言った。
  • そこで武および馬宏らを帰した。馬宏はさきに副として光祿大夫の王忠に従い西国へ使いしたが、匈奴に遮られて忠は戦死し、馬宏は生け捕られたが降らなかった者である。ゆえに匈奴はこの二人を返して善意を通じようとした。

漢昭帝元鳳元年(前80年)

  • 匈奴が左右の部から二万騎を発して四隊とし、並んで辺境に入って寇をなした。漢兵が追撃して九千人を斬り捕らえ、甌脱王を生け捕った。漢に損失はなかった。
  • 匈奴は甌脱王が漢にいるのを見て、道案内にされて撃たれることを恐れ、西北へ遠く去って敢えて南下して水草を追わず、人民を発して甌脱に駐屯させた。

漢昭帝元鳳二年(前79年)

  • 匈奴は改めて九千騎を受降城に駐屯させて漢に備え、北は余吾水に橋を架けて渡れるようにし、逃走に備えた。和親を求めたかったが漢が聴かないことを恐れ、自分から言おうとせず、常に側近に漢の使者へそれとなく伝えさせた。
  • しかしその侵略はますます少なくなり、漢の使者への待遇はますます厚くなった。しだいに和親に持ち込もうとしたのである。漢もまたこれを繋ぎ止めた。

漢昭帝元鳳三年(前78年)

  • 春正月、匈奴の単于が犁汙王に辺境を窺わせ、「酒泉・張掖の兵はますます弱い。兵を出して試しに撃てば、その地を取り戻せるかもしれない」と言った。
  • 当時、漢は先に降人を得てその計を聞いていたので、天子は詔して辺境に警備させた。
  • ほどなく右賢王と犁汙王が四千騎を三隊に分けて日勒・屋蘭・番和に入った。張掖太守と属国都尉が兵を発して撃って大破し、脱出できた者は数百人だった。属国の義渠王が犁汙王を射殺し、黄金二百斤・馬二百匹を賜り、犁汙王に封じられた。これ以後、匈奴は敢えて張掖に入らなかった。
  • かつて冒頓が東胡を破ったとき、東胡の残った衆は散って烏桓山と鮮卑山に拠り、二つの族となって代々匈奴に従属した。武帝が匈奴の左地を撃破すると、烏桓を上谷・漁陽・右北平・遼東の塞外に移し、漢のために匈奴の動静を偵察させ、護烏桓校尉を置いて監督させ、匈奴と通じさせないようにした。
  • このころ部衆はしだいに強くなり、ついに叛いた。これに先立ち、匈奴の三千余騎が五原に入って数千人を殺し略奪し、後に一万騎が塞の周辺を狩りに来て塞外の亭障を攻め、吏民を略奪して去った。
  • 当時、漢の辺郡は烽火と偵察が行き届いており、匈奴は辺境で寇をなしても利が少なく、めったに塞を侵さなくなった。
  • 漢はまた匈奴の降人を得て、「烏桓がかつて先の単于の墓を暴いた。匈奴は怒って二万騎を発して烏桓を撃とうとしている」と聞いた。
  • 霍光は兵を発して迎え撃とうとし、護軍都尉の趙充國に問うた。充國は「烏桓は近ごろ度々塞を侵しています。今、匈奴がこれを撃つのは漢に好都合です。しかも匈奴は北辺を寇することが少なく、幸いに事がありません。蛮夷が自ら攻め合うところへ兵を発して迎え撃つのは、寇を招き事を生じさせるもの。良策ではありません」と答えた。
  • 光は改めて中郎将の范明友に問うと、明友は撃てると言った。そこで明友を度遼将軍として二万騎を率いさせ遼東から出した。匈奴は漢兵の到来を聞いて引き上げた。
  • はじめ光は明友を戒めて「兵を空しく出すな。匈奴に後れたら、そのまま烏桓を撃て」と言っていた。烏桓はちょうど匈奴の兵を受けたばかりだった。明友は匈奴に後れたので、烏桓の疲弊に乗じて撃ち、六千余級を斬り、三人の王の首を得た。匈奴はこれによって恐れ、二度と兵を出せなかった。

漢宣帝本始二年(前72年)

  • 昭帝の時、烏孫の公主が上書して「匈奴と車師が共に烏孫を侵しています。どうか天子、お救いください」と言った。漢は士馬を養って匈奴征伐を議したが、折しも昭帝が崩じた。
  • 上は光祿大夫の常惠を烏孫へ遣った。烏孫の公主および昆彌はいずれも使者を送って上書し、「匈奴が再び大兵を発して烏孫を侵撃し、使者を遣って烏孫に急ぎ公主を差し出せと言い、漢と隔絶させようとしています。昆彌は国の精兵五万騎を発して力を尽くして匈奴を撃ちたい。どうか天子、兵を出して公主をお救いください」と述べた。
  • これに先立ち匈奴は度々漢の辺境を侵し、漢もこれを討とうとしていた。
  • 秋、大挙して兵を発した。御史大夫の田廣明を祁連将軍として四万余騎で西河から、度遼将軍の范明友に三万余騎で張掖から、前将軍の韓增に三万余騎で雲中から、後将軍の趙充國を蒲類将軍として三万余騎で酒泉から、雲中太守の田順を虎牙将軍として三万余騎で五原から出させ、それぞれ塞を出て二千余里進むことを期した。常惠を校尉として節を持たせ烏孫の兵を監督させ、共に匈奴を撃たせた。

漢宣帝本始三年(前71年)

  • 春正月戊辰、五将軍が長安を発した。匈奴は漢兵が大挙して出たと聞き、老弱は逃げ、家畜を駆り立てて遠く逃れた。そのため五将軍の戦果は少なかった。
  • 夏五月、軍を罷めた。度遼将軍は塞を出て千二百余里、蒲離候水に至り七百余級を斬り捕らえた。前将軍は塞を出て千二百余里、烏員に至り百余級を斬り捕らえた。蒲類将軍は塞を出て千八百余里、西の候山を過ぎ、単于の使者である蒲陰王以下三百余級を斬り捕らえたが、敵がすでに引き上げたと聞いていずれも期日の地点に至らずに帰った。天子はその過ちを軽く見て、寛大に扱い罪としなかった。
  • 祁連将軍は塞を出て千六百里、雞秩山に至り十九級を斬り捕らえた。匈奴から帰る漢の使者の冉弘らに会い、「雞秩山の西に敵の衆がいる」と聞いた。祁連はただちに弘を戒めて「敵はいない」と言わせ、兵を返そうとした。御史属の公孫益壽が不可と諫めたが、祁連は聴かず兵を引いて帰った。
  • 虎牙将軍は塞を出て八百余里、丹餘吾水のほとりに至ってそこで兵を止め進まず、千九百余級を斬り捕らえて兵を引いて帰った。
  • 上は、虎牙将軍が期日の地点に至らず偽って戦果を水増ししたこと、祁連が敵が前方にいると知りながら逗留して進まなかったことから、いずれも吏に下し、二人は自殺した。公孫益壽を侍御史に抜擢した。
  • 烏孫の昆彌が自ら五万騎を率い、校尉の常惠とともに西方から入って右谷蠡王の庭に至り、単于の父の世代および嫂・居次・名王・犁汙都尉・千長・騎将以下四万級、馬牛羊驢駱駝七十余万頭を得た。烏孫はみな鹵獲した物を自分で取った。
  • 上は五将軍がいずれも功なく、惠だけが使命を果たして戦果を挙げたとして、惠を長羅侯に封じた。
  • しかし匈奴は民衆で傷ついて去った者、家畜で遠くへ移して死んだ者が数えきれなかった。ここに匈奴はついに衰え疲弊し、烏孫を怨んだ。
  • 冬、匈奴の単于が自ら数万騎を率いて烏孫を撃ち、老弱をかなり得て帰ろうとした。折しも大雪が降り、一日で丈余の深さとなり、人民と家畜は凍死して帰れた者は十分の一にも満たなかった。
  • そこで丁令が弱みに乗じてその北を攻め、烏桓がその東に入り、烏孫がその西を撃った。三国が殺した者は合わせて数万級、馬数万匹、牛羊は甚だ多かった。さらに餓死が重なり、人民の死者は十分の三、家畜は十分の五に及んだ。匈奴は大いに虚弱となり、従属していた諸国はみな瓦解し、攻め寇されても処理できなかった。
  • その後、漢が三千余騎を三道に分けて並び入り、匈奴の捕虜数千人を得て帰った。匈奴はついに報復しようとせず、ますます和親に向かおうとし、辺境は事が少なくなった。

漢宣帝地節二年(前68年)

  • 匈奴の壺衍鞮単于が死に、弟の左賢王が立って虚閭權渠単于となった。右大将の娘を大閼氏とし、先の単于が寵愛した顓渠閼氏を退けた。顓渠閼氏の父の左大且渠は怨んだ。
  • このとき漢は匈奴が辺境を寇せなくなったので塞外の諸城を廃して百姓を休ませた。単于はこれを聞いて喜び、貴人を召して漢との和親を謀った。
  • 左大且渠は内心これを妨げようとして「以前、漢の使者が来たとき、兵がその後に続きました。今もそれに倣って兵を発し、先に使者を送り込みましょう」と言い、自ら呼盧訾王とそれぞれ一万騎を率い、南の塞の周辺で狩りをして落ち合い、共に入ることを願い出た。
  • 行かないうちに、三人の騎が逃げて漢に降り、匈奴が寇をなそうとしていると告げた。天子は詔して辺境の騎を発して要害に駐屯させ、大将軍の軍監である治衆ら四人に五千騎を率いさせて三隊に分けて塞を出させ、それぞれ数百里進んで敵を数十人ずつ捕らえて帰った。
  • このとき匈奴は三人の騎を失っていたので入る勇気がなく、そのまま引き上げた。
  • この年、匈奴は飢饉となり、人民と家畜は十分の六、七が死んだ。また二つの屯を発してそれぞれ一万騎で漢に備えた。
  • その秋、匈奴が以前に得て左地に住まわせていた西嗕は、その君長以下数千人がみな家畜を駆って移動し、甌脱と戦って殺傷が甚だ多かったが、ついに南して漢に降った。

漢宣帝地節三年(前67年)

  • 昭帝の時、匈奴が四千騎に車師で屯田させていたが、五将軍が匈奴を撃つと車師で耕していた者は驚いて去り、車師は再び漢と通じた。
  • 匈奴は怒ってその太子の軍宿を召して人質にしようとした。軍宿は焉耆の外孫で匈奴の人質になりたくなかったので、焉耆へ逃げた。車師王は改めて子の烏貴を太子に立てた。烏貴が王となると匈奴と婚姻を結び、匈奴に漢と烏孫を結ぶ道を遮ることを教えた。
  • この年、侍郎で會稽の鄭吉が校尉の司馬憙とともに、刑を免じた罪人を率いて渠犂で屯田し穀を蓄えた。城郭諸国の兵一万余人を発し、率いていた屯田の士千五百人とともに車師を撃って破り、車師王は降伏を請うた。
  • 匈奴が兵を発して車師を攻めた。吉と憙が兵を率いて北へ迎え撃つと、匈奴は進めなかった。吉と憙は候一人と卒二十人を留めて王を守らせ、兵を率いて渠犂に帰った。
  • 車師王は匈奴の兵がまた来て殺されることを恐れ、軽騎で烏孫へ走った。吉はその妻子を迎えて長安へ送った。匈奴は改めて車師王の兄弟の兠莫を車師王とし、その残った民を収めて東へ移り、故地に住もうとしなかった。
  • そこで鄭吉ははじめて吏卒三百人を車師の地へ送って耕させ、そこを充実させた。

漢宣帝元康二年(前64年)

  • 匈奴の大臣はみな「車師の地は肥沃で匈奴に近い。漢がこれを得て多く耕して穀を蓄えれば、必ず我が国の害となる。争わずにはいられない」と考え、度々兵を遣って車師で耕す者を撃った。
  • 鄭吉は渠犂の屯田の卒七千余人を率いて救ったが、匈奴に囲まれた。吉は上言して「車師は渠犂から千余里、渠犂にいる漢兵は少なく、救い合えません。屯田の卒を増やしていただきたい」と述べた。
  • 上は後将軍の趙充國らと議し、匈奴の衰弱に乗じて兵を出してその右地を撃ち、二度と西域を騒がせないようにしようと考えた。
  • 魏相が上書して諫めた。
  • 私が聞くところでは、乱を救い暴を誅すのを義兵といい、義の兵は王となる。敵が自らに加えてきてやむを得ず起こすのを應兵といい、應の兵は勝つ。小さな理由で恨みを争い憤りを抑えられないのを忿兵といい、忿の兵は敗れる。人の土地や財宝を利とするのを貪兵といい、貪の兵は破れる。国家の大きさを恃み民衆の多さを誇って敵に威を示そうとするのを驕兵といい、驕の兵は滅ぶ。この五つは人事だけでなく天の道です。
  • 近ごろ匈奴はかつて善意を示し、得た漢の民をそのたびに送り返し、辺境を犯していません。車師の屯田を争っているとはいえ、意に留めるに足りません。
  • 今、諸将軍が兵を興してその地に入ろうとしていると聞きますが、私にはこの兵が何と名づけられるべきものか分かりません。
  • 今、辺郡は困窮し、父子が犬羊の裘を共にし草木の実を食べ、常に自ら存続できないことを恐れています。兵を動かすのは困難です。
  • 軍旅の後には必ず凶年があると申します。民の愁苦の気が陰陽の和を傷つけるからです。兵を出して勝っても後の憂いがあり、災害の変がこれによって生じることを恐れます。
  • 今、郡国の守・相は選任が実に適っておらず、風俗はとりわけ薄く、水旱は時を得ない。今年の集計を見ますと、子弟が父兄を殺し妻が夫を殺した者が合わせて二百二十二人。私はこれを小さな変とは思いません。
  • 今、側近はこれを憂えず、兵を発して遠夷にわずかな憤りを報じようとしている。おそらく孔子の言う「私は季孫の憂いが顓臾にあるのではなく蕭牆の内にあることを恐れる」というものです。
  • 上は相の言に従って中止し、長羅侯の常惠を遣って張掖・酒泉の騎を率いさせ、車師へ行って鄭吉とその吏士を迎えて渠犂へ帰らせた。焉耆にいた旧車師太子の軍宿を召して王に立て、車師の国民をすべて移して渠犂に住ませ、車師の故地を匈奴に与えた。鄭吉を衛司馬として鄯善以西の南道を統轄させた。

漢宣帝神爵二年(前60年)

  • 九月、匈奴の虚閭權渠単于が十余万騎を率いて塞の周辺で狩りをし、辺境に入って寇をなそうとした。至らぬうちに、その民の題除渠堂が逃げて漢に降って状況を告げた。漢はこの者を言兵鹿奚盧侯とし、後将軍の趙充國に四万余騎を率いさせて辺境沿いの九郡に駐屯させ敵に備えた。
  • 一月余り後、単于は病んで血を吐き、そのため入る勇気がなくなって引き上げた。そこで兵を罷め、題王の都犂胡次らを漢に入れて和親を請うたが、返答を得ないうちに単于が死んだ。
  • 虚閭權渠単于は立ったばかりで顓渠閼氏を退けていた。顓渠閼氏は右賢王の屠耆堂と密通していた。右賢王が龍城の会に出て去るとき、顓渠閼氏は「単于の病が甚だ重い。遠くへ行くな」と告げた。数日後に単于が死んだ。
  • 政を執る貴人の郝宿王刑未央が人を遣って諸王を召したが、まだ到着しないうちに、顓渠閼氏はその弟の左大且渠都隆奇と謀って右賢王を立て、握衍朐鞮単于とした。握衍朐鞮単于は烏維単于の玄孫である。
  • 握衍朐鞮単于は立つと凶悪で、刑未央らを殺して都隆奇を任用し、また虚閭權渠の子弟・近親をことごとく免じて自分の子弟に代えた。
  • 虚閭權渠単于の子の稽侯㹪は立てられず、妻の父の烏禪幕のもとへ逃げた。烏禪幕はもと烏孫と康居のあいだの小国の者で、度々侵され暴虐を受けたので、その衆数千人を率いて匈奴に降った。狐鹿姑単于はその弟の子である日逐王の姉を妻とし、その衆を率いさせて右地に住ませていた。
  • 日逐王の先賢撣は、その父の左賢王が本来単于となるべきところを狐鹿姑単于に譲り、狐鹿姑単于は先賢撣を立てることを許していた。ゆえに国人には日逐王が単于となるべきだと言う者がかなりいた。
  • 日逐王はかねて握衍朐鞮単于と隙があり、その衆を率いて漢に降ろうとした。人を渠犂へ遣って騎都尉の鄭吉と連絡を取った。吉は渠犂・龜茲など諸国の五万人を発して日逐王を迎えた。人口一万二千人、小王・将十二人。吉に従って河曲に至るまでにかなり逃亡する者があり、吉は追って斬った。そのまま京師へ送り、漢は日逐王を歸德侯に封じた。
  • 吉は車師を破り日逐を降して威が西域を震わせ、ついに車師以西の北道も併せ統轄したので、都護と号した。都護の設置は吉から始まる。上は吉を安遠侯に封じた。
  • 吉はそこで西域の中央にあたる烏壘城に幕府を置いた。陽關から二千七百余里。匈奴はますます弱くなり、西域を争えず、僮僕都尉はこれによって廃された。
  • 都護は烏孫・康居など三十六国の動静を督察し、変があれば報告し、安んじられるものは安んじ、できないものは誅伐した。漢の号令が西域に行き渡ったのである。
  • 握衍朐鞮単于は改めて従兄の薄胥堂を日逐王に立てた。

漢宣帝神爵三年(前59年)

  • 匈奴の単于がさらに先賢撣の二人の弟を殺した。烏禪幕が助命を請うたが聴かれず、内心憤った。
  • その後、左奥鞬王が死ぬと、単于は自分の末子を奥鞬王に立てて庭に留めた。奥鞬の貴人は共に旧奥鞬王の子を王に立て、ともに東へ移った。単于は右丞相に一万騎を率いさせて撃たせたが、数千人を失って勝てなかった。

漢宣帝神爵四年(前58年)

  • 五月、匈奴の単于が弟の呼留若王勝之を遣って来朝させた。
  • 匈奴の握衍朐鞮単于は暴虐で殺伐を好み、国中は付かなかった。しかも太子と左賢王が度々左地の貴人を讒言したので、左地の貴人はみな怨んだ。
  • 折しも烏桓が匈奴の東辺を撃ち、姑夕王が人民をかなり奪われた。単于が怒ったので姑夕王は恐れ、烏禪幕および左地の貴人とともに稽侯㹪を立てて呼韓邪単于とし、左地の兵四、五万人を発して西へ握衍朐鞮単于を撃った。
  • 姑且水の北に至り、まだ戦わないうちに握衍朐鞮単于の兵は敗走した。単于は人を遣って弟の右賢王に「匈奴がこぞって私を攻めている。兵を発して助けてくれるか」と伝えた。右賢王は「お前は人を愛さず、兄弟や諸貴人を殺した。それぞれ自分の場所で死ね。来て私を汚すな」と答えた。
  • 握衍朐鞮単于は憤って自殺した。左大且渠の都隆奇は右賢王のもとへ逃げ、その民衆はことごとく呼韓邪単于に降った。
  • 呼韓邪単于は庭に帰って数か月で兵を罷め、それぞれ故地へ帰らせた。そして民間にいた兄の呼屠吾斯を迎えて左谷蠡王とし、人を遣って右賢の貴人に告げて右賢王を殺させようとした。
  • その冬、都隆奇は右賢王と共に日逐王の薄胥堂を立てて屠耆単于とし、兵数万人を発して東へ呼韓邪単于を襲った。呼韓邪単于の兵は敗走した。
  • 屠耆単于は帰って長子の都塗吾西を左谷蠡王、末子の姑瞀樓頭を右谷蠡王とし、単于の庭に留まり住んだ。

漢宣帝五鳳元年(前57年)

  • 秋、匈奴の屠耆単于は先賢撣の兄の右奥鞬王と烏藉都尉にそれぞれ二万騎で東方に駐屯させ、呼韓邪単于に備えた。
  • このとき西方の呼掲王が来て唯犂當户と謀り、共に右賢王を讒言して「自ら単于に立とうとしている」と言った。屠耆単于は右賢王父子を殺したが、後に冤罪と知って唯犂當户も殺した。
  • そこで呼掲王は恐れ、ついに背いて去り、自立して呼掲単于となった。右奥鞬王はこれを聞いてその場で自立して車犂単于となった。烏藉都尉もまた自立して烏藉単于となった。合わせて五人の単于である。
  • 屠耆単于は自ら兵を率いて東へ車犂単于を撃ち、都隆奇に烏藉を撃たせた。烏藉と車犂はいずれも敗れて西北へ走り、呼掲単于の兵と合わせて四万人となった。烏藉と呼掲はいずれも単于の号を捨て、力を合わせて車犂単于を尊び輔けた。
  • 屠耆単于はこれを聞き、左大将・都尉に四万騎を率いさせて東方に分屯させ呼韓邪単于に備え、自ら四万騎を率いて西へ車犂単于を撃った。車犂単于は敗れて西北へ走り、屠耆単于はそのまま兵を率いて西南へ進み、闟敦の地に留まった。
  • 漢の議者の多くは「匈奴の害は久しい。その崩壊に乗じて兵を挙げて滅ぼすべきだ」と言った。
  • 詔して御史大夫の蕭望之に問うと、答えて言った。「『春秋』に、晉の士匄が師を率いて齊を侵し、齊侯の死を聞いて師を引いて帰った、とあります。君子はその喪を伐たなかったことを大とし、恩は孝子を服させるに足り、義は諸侯を動かすに足るとしました。先の単于は教化を慕い善に向かい、弟と称し使者を遣って和親を請いました。海内は喜び、夷狄で知らぬ者はありません。約を全うしないうちに、不幸にも賤しい臣に殺された。今これを伐つのは、乱に乗じ災いを幸いとするものです。彼らは必ず逃げて遠く遁れ、義によって兵を動かすのでなければ、労して功がないことを恐れます。使者を遣って弔問し、その弱きを輔け、その災患を救うべきです。四夷がこれを聞けば、みな中国の仁義を貴びましょう。もし恩を蒙ってその位に復せれば、必ず臣と称して服従します。これこそ徳の盛んなことです」と。上はその議に従った。

漢宣帝五鳳二年(前56年)

  • 秋八月、匈奴の呼韓邪単于が弟の右谷蠡王らを遣って西へ屠耆単于の駐屯兵を襲わせ、一万余人を殺し略奪した。
  • 屠耆単于はこれを聞いて自ら六万騎を率いて呼韓邪単于を撃ったが、屠耆単于の兵は敗れて自殺した。都隆奇は屠耆の末子の右谷蠡王姑瞀樓頭とともに漢へ逃げ帰った。車犂単于は東して呼韓邪単于に降った。
  • 冬十一月、呼韓邪単于の左大将の烏厲屈とその父の呼遫累烏厲溫敦は、いずれも匈奴の乱を見てその衆数万人を率いて漢に降った。烏厲屈を新城侯、烏厲溫敦を義陽侯に封じた。
  • このとき李陵の子が改めて烏藉都尉を単于に立てたが、呼韓邪単于が捕らえて斬り、ついに再び単于の庭に都した。しかしその衆はわずか数万人だった。
  • 屠耆単于の従弟の休旬王が自立して閏振単于となり西辺にあり、呼韓邪単于の兄の左賢王呼屠吾斯もまた自立して郅支骨都侯単于となって東辺にあった。

漢宣帝五鳳三年(前55年)

  • 六月、西河・北地に属国を置き、匈奴の降人を住まわせた。

漢宣帝五鳳四年(前54年)

  • 春、匈奴の単于が臣と称し、弟の谷蠡王を送って侍らせた。辺塞に寇がなくなったので、守備の卒を十分の二減らした。
  • 夏四月、匈奴の閏振単于がその衆を率いて東へ郅支単于を撃った。郅支は戦って閏振を殺し、その兵を併せ、進んで呼韓邪を攻めた。呼韓邪の兵は敗走し、郅支は単于の庭に都した。

漢宣帝甘露元年(前53年)

  • 匈奴の呼韓邪単于が敗れたとき、左伊秩訾王が呼韓邪に計を進め、臣と称して入朝し漢に仕え、漢に助けを求めるよう勧めた。そうすれば匈奴は安定する、と。
  • 呼韓邪が諸大臣に問うと、みな「なりません。匈奴の俗はもともと気力を上とし服役を下とし、馬上の戦闘を国のあり方とする。ゆえに百蛮に威名があります。戦死は壮士の当然の帰結です。今、兄弟が国を争っており、兄でなければ弟のもの。死んでもなお威名があり、子孫は常に諸国の長です。漢は強くとも匈奴を併呑できない。どうして先古の制を乱し漢に臣事して先の単于を卑しめ辱め、諸国に笑われるのですか。そうして安んじたとして、どうして再び百蛮の長でいられましょう」と言った。
  • 左伊秩訾は言った。「そうではない。強弱には時がある。今、漢はまさに盛んで、烏孫や城郭諸国はみな臣妾です。且鞮侯単于以来、匈奴は日ごとに削られて回復できない。ここで強がっても、一日として安らかだったことがありません。今、漢に仕えれば安泰に存続でき、仕えなければ危亡する。この計に勝るものがありましょうか」と。
  • 諸大人は長く論難し合ったが、呼韓邪はその計に従い、衆を率いて南の塞に近づき、子の右賢王銖婁渠堂を送って侍らせた。郅支単于もまた子の右大将駒于利受を送って侍らせた。

漢宣帝甘露二年(前52年)

  • 冬十二月、匈奴の呼韓邪単于が五原の塞に至り、国の珍宝を奉じて三年正月に朝したいと願い出た。
  • 詔して有司にその儀を議させた。丞相・御史は「聖王の制では、まず京師、次に諸夏、次に夷狄です。匈奴の単于の朝賀の礼儀は諸侯王と同じとし、位次はその下とすべきです」と言った。
  • 太子太傅の蕭望之は「単于は正朔の及ばぬ者で、ゆえに敵国と称する。臣としない礼で待遇し、位は諸侯王の上とすべきです。外夷が稽首して藩と称すれば、中国は譲って臣としない。これが羈縻の義、謙遜による亨通の福です。『書』に『戎狄は荒服』とあるのは、その服従が荒忽として常ないことを言います。もし匈奴の後嗣が急に烏のように逃げ鼠のように潜んで朝享に来なくなっても、叛いた臣とはならない。万世の長策です」と述べた。
  • 天子はこれを採り、詔して言った。「匈奴の単于が北の藩と称して正朔に朝する。朕は不徳で広く覆えないが、客の礼で待遇せよ。単于の位を諸侯王の上とし、賛謁には臣と称するが名は称えさせない」と。

史論(荀悦曰・単于の礼遇)

  • 『春秋』の義では王者に外はなく、天下を一つにしようとする。戎狄は道のりが遠く人跡が絶えているので、正朔が及ばず礼教が加わらない。尊んだのではなく、勢いがそうさせるのである。
  • 『詩』に「彼の氐羌より、敢えて来王せざるなし」とある。ゆえに要服・荒服の君も必ず王への貢を奉じ、職を供さなければ譴責と号令が加えられる。敵国と呼ぶべきものではない。
  • 望之が臣としない礼で待遇して王公の上に置こうとしたのは、分を越えて序を失い天の常を乱すもので、礼ではない。ただし臨機の便宜としてなら、また別の議論になる。

  • 詔して車騎都尉の韓昌を遣って単于を迎えさせ、通過する七郡から二千騎を発して道に並ばせた。

漢宣帝甘露三年(前51年)

  • 春正月、匈奴の呼韓邪単于が来朝した。賛謁には藩臣と称したが名は称えなかった。
  • 冠・帯・衣裳、黄金の璽と盭綬、玉飾りの剣、佩刀、弓一張、矢四発、棨戟十、安車一乗、鞍と轡一具、馬十五匹、黄金二十斤、銭二十万、衣被七十七襲、錦・繡・綺・縠・雑帛八千匹、綿六千斤を賜った。
  • 礼が終わると、使者に単于を先導させて長平に宿らせた。上は甘泉から池陽宮に宿った。上が長平の坂に登ると、詔して単于に謁見を免じ、その左右の當户・群臣もみな列して観覧できるようにした。諸蛮夷の君長・王侯数万がみな渭橋の下で迎え、道を挟んで列した。上が渭橋に登ると、みな万歳と称えた。
  • 単于は長安の邸に入り、建章宮で酒宴を設けて饗し、珍宝を見せた。
  • 二月、単于を国へ帰した。単于は自ら幕南の光祿塞の下に留まり住み、急があれば漢の受降城に拠りたいと願い出た。
  • 漢は長樂衛尉の高昌侯董忠と車騎都尉の韓昌に騎一万六千を率いさせ、さらに辺郡の士馬を千を数えるほど発して単于を送り、朔方の雞鹿塞から出した。詔して忠らを留めて単于を衛らせ、服さない者の誅殺を助けさせた。また辺境の穀・米・乾飯を前後三万四千斛送ってその食を賄った。
  • これに先立ち、烏孫以西から安息まで匈奴に近い諸国はみな匈奴を畏れて漢を軽んじていた。呼韓邪単于が漢に朝してからは、みな漢を尊ぶようになった。
  • 上は戎狄が服従したので股肱の臣の功を思い、その人物を麒麟閣に描かせ、その形貌をかたどり官爵・姓名を記した。ただ霍光だけは名を記さず「大司馬大将軍博陸侯、姓は霍氏」とした。その次は張安世・韓增・趙充國・魏相・丙吉・杜延年・劉德・梁丘賀・蕭望之・蘇武。合わせて十一人。みな功徳があって当世に名を知られたので、表して顕彰し、中興の輔佐として方叔・召虎・仲山甫に列することを明らかにしたのである。

漢宣帝甘露四年(前50年)

  • 冬十月、匈奴の呼韓邪・郅支の両単于がともに使者を遣って朝献した。漢は呼韓邪の使者への待遇を厚くした。

漢宣帝黄龍元年(前49年)

  • 春正月、匈奴の呼韓邪単于が来朝し、二月に帰国した。
  • はじめ郅支単于は、呼韓邪の兵が弱く漢に降った以上、二度と自力では帰れまいと考え、その衆を率いて西へ進み、右地を平定しようとした。
  • また屠耆単于の末弟がもと呼韓邪に仕えていたが、これも右地へ逃げ、二人の兄の残兵を収めて数千人を得、自立して伊利目単于となった。道で郅支に出会って戦い、郅支は殺してその兵を併せ、五万余人となった。
  • 郅支は漢が兵と穀を出して呼韓邪を助けていると聞き、そのまま右地に留まり住んだ。自らの力では匈奴を平定できないと見て、さらに西へ烏孫に近づき、力を合わせようとして使者を小昆彌の烏就屠に会わせた。烏就屠はその使者を殺し、八千騎を発して郅支を迎え撃った。
  • 郅支はその謀を察して兵を整えて迎え撃ち、烏孫を破った。そのまま北へ烏掲・堅昆・丁令を撃って三国を併せ、度々兵を遣って烏孫を撃ち、常に勝った。堅昆は東は単于の庭から七千里、南は車師から五千里。郅支は留まってそこに都した。

漢元帝初元元年(前48年)

  • 秋九月、匈奴の呼韓邪単于が再び上書して民衆が困窮していると述べた。詔して雲中・五原郡から穀二万斛を送って給した。

漢元帝初元五年(前44年)

  • 匈奴の郅支単于は、自ら道が遠いこと、また漢が呼韓邪を庇護して自分を助けないことを怨み、漢の使者の江乃始らを困らせ辱めた。そのうえで使者を送って献上し、ついでに人質の子の返還を求めた。
  • 漢は衛司馬の谷吉を遣って送らせることを議した。御史大夫の貢禹と博士で東海の匡衡は「郅支単于の教化への傾きはまだ純粋でなく、居所は絶遠です。使者にその子を塞まで送らせて帰らせるべきです」と考えた。
  • 吉は上書して言った。「中国と夷狄には羈縻して絶たない義があります。今、すでにその子を十年養い育て、徳沢は甚だ厚い。それをむなしく絶って送り届けず、近くの塞から帰すのでは、見捨てて養わないと示すことになり、心を寄せる気を失わせる。前の恩を捨てて後の怨みを立てるもので、不便です。議者は先に江乃始が敵に応じる術を持たず智も勇も窮して恥辱を招いたのを見て、私のために先回りして憂えているのでしょう。しかし私は幸いにも強い漢の節を立て、明聖の詔を承け、厚恩を宣べ諭すのです。彼らも敢えて凶暴には出られますまい。もし禽獣の心を抱いて私に無道を加えれば、単于は長く大罪を負い、必ず遠くへ逃れて辺境に近づけなくなります。一人の使者を失って百姓を安んじるなら、国の計であり私の願いです。庭まで送らせてください」と。上は許した。
  • 着くと郅支単于は怒り、ついに吉らを殺した。自ら漢に負い目があると知り、また呼韓邪がますます強いと聞いて襲撃されることを恐れ、遠くへ去ろうとした。
  • 折しも康居王が度々烏孫に苦しめられており、諸翕侯と計って「匈奴は大国で、烏孫はもとよりこれに服属していた。今、郅支単于は困窮して外にいる。迎えて東辺に置き、兵を合わせて烏孫を取らせて立ててやれば、長く匈奴の憂いがなくなる」と考え、使者を堅昆へ遣って郅支と話をつけた。
  • 郅支はかねて恐れており、また烏孫を怨んでいたので、康居の計を聞いて大いに喜び、ついに結んで兵を率いて西へ向かった。郅支の人衆は寒さに当たって道中で死に、康居に着いたのはわずか三千人だった。
  • 康居王は娘を郅支に嫁がせ、郅支も娘を康居王に与えた。康居は甚だ郅支を尊敬し、その威を借りて諸国を脅そうとした。
  • 郅支は度々兵を借りて烏孫を撃ち、深入りして赤谷城に至り、人民を殺し略奪し家畜を駆り去った。烏孫は敢えて追わず、西辺は空虚となり、五千里にわたって住む者がなくなった。

漢元帝永光元年(前43年)

  • 匈奴の呼韓邪単于は民衆がますます盛んになり、塞下の禽獣は尽きた。単于は自衛できるようになって郅支を畏れなくなり、その大臣の多くが北へ帰るよう勧めた。久しくして単于はついに北の庭へ帰り、民衆はしだいにこれに帰して、その国はついに安定した。

漢元帝建昭三年(前36年)

  • 冬、西域都護・騎都尉で北地の甘延壽と、副校尉で山陽の陳湯が、匈奴の郅支単于を康居で共に誅斬した。
  • はじめ郅支単于は自ら大国の威名を尊重し、また勝ちに乗じて驕り、康居王に礼を尽くさなかった。怒って康居王の娘と貴人・人民数百人を殺し、あるいは体を裂いて都頼水に投げ込んだ。民を発して城を築き、日に五百人が働いて二年でようやく完成した。また使者を遣って闔蘇・大宛など諸国に責め、毎年の貢納を出させ、諸国は与えないわけにいかなかった。
  • 漢は使者を三度康居へ遣って谷吉らの遺体を求めたが、郅支は使者を困らせ辱め、詔を奉じようとせず、都護を通じて上書して「困窮しております。強い漢に身を寄せたい。子を送って侍らせます」と言った。その驕慢さはこの通りだった。
  • 湯の人となりは沈着で勇があり大きな思慮があり、策謀に富み奇功を好んだ。延壽と謀って言った。
  • 夷狄が大きな種族を畏れ服するのはその天性です。西域はもと匈奴に属していました。今、郅支単于は威名が遠く聞こえ、烏孫・大宛を侵し、常に康居のために計を立てて降服させようとしている。この二国を得れば、数年のうちに城郭諸国は危うくなります。
  • しかもその人は剽悍で戦を好み、度々勝ちを取っている。長く放置すれば必ず西域の患いとなります。所在は絶遠とはいえ、蛮夷には金城や強弩の守りはない。屯田の吏士を発し、烏孫の衆兵を駆り従えてその城下を真っ直ぐ指せば、彼らは逃げても行き場がなく、守っても自ら保てない。千載の功が一朝にして成ります。
  • 延壽ももっともと思い、奏請しようとした。湯は「国家が公卿と大策を議しても、凡人の見るところでは事は必ず通りません」と言った。延壽は迷って聴かなかった。
  • 折しも延壽が長く病んだ。湯は独断で制を偽って城郭諸国の兵と車師の戊己校尉の屯田の吏士を発した。延壽はこれを聞いて驚いて起き、止めようとした。湯は怒って剣を按じ、延壽を叱って「大衆はすでに集まった。小僧め、衆を挫くつもりか」と言った。延壽はついに従い、隊列を編成した。漢兵と胡兵は合わせて四万余人。
  • 延壽と湯は上疏して自ら制を偽った罪を弾劾し、あわせて兵の状況を陳べ、その日のうちに軍を進めた。分かれて六校とし、そのうち三校は南道から葱嶺を越えて大宛を通り、三校は都護自ら率いて溫宿国から発し北道から赤谷に入って烏孫を過ぎ、康居の界を渉って闐池の西に至った。
  • ところが康居の副王の抱闐が数千騎を率いて赤谷城の東を寇し、大昆彌の民千余人を殺し略奪し、家畜を甚だ多く駆り去っていた。後方から漢軍に追いつき、かなり後方の輜重を寇した。湯は胡兵を放って撃ち、四百六十人を殺し、略奪された民四百七十人を得て大昆彌に返し、その馬牛羊は軍食に充てた。
  • また抱闐の貴人の伊奴毒を捕らえた。康居の東界に入ってからは軍に寇をなさせず、密かにその貴人の屠墨を呼んで会い、威と信を諭して盟いの酒を酌み交わして帰した。
  • 真っ直ぐ進み、単于の城まで六十里ほどの所で止営した。また康居の貴人の貝色の子の男開牟を捕らえて道案内とした。貝色は屠墨の母の弟で、いずれも単于を怨んでおり、これによって郅支の内情をつぶさに知った。
  • 翌日進んで、城まで三十里の所で止営した。単于が使者を遣って「漢兵はなぜ来たのか」と問うた。答えて「単于は上書して『困窮しております。強い漢に身を寄せ、自ら入朝して天子にお目にかかりたい』と言われた。天子は単于が大国を棄てて康居に身を屈しているのを哀れみ、ゆえに都護将軍を遣って単于の妻子を迎えさせられた。左右を驚かせることを恐れて、まだ城下へは至っていない」と言った。数度往来して答え合った。
  • 延壽と湯はこれを機に責めた。「我らは単于のために遠く来たのに、今に至るまで名王・大人で将軍に会って事を受ける者がいない。単于は大計を忽せにし、客と主の礼を失っている。兵は来て道は遠く、人も家畜も疲れ果て、食糧も尽きようとしている。自力で帰れなくなることを恐れる。どうか単于は大臣とよく計られよ」と。
  • 翌日、進んで郅支城の都頼水のほとりに至り、城から三里の所で止営して陣を敷いた。望み見ると、単于の城の上に五彩の幡が数百立ち、甲を着けて城に登り、また百余騎を出して城下を往来して馳せ、歩兵百余人が門を挟んで魚鱗の陣を敷き、用兵を演習していた。城上の人が代わる代わる漢軍を招いて「戦いに来い」と言った。百余騎が営に馳せ寄せると、営はみな弩を張り満月に引いて指した。騎は退いた。
  • 吏士を出して城門の騎兵・歩兵を射させると、騎兵も歩兵もみな中に入った。延壽と湯は軍に「鼓の音を聞いたらみな城下に迫れ」と令した。四面から城を囲み、それぞれ受け持ちを定め、堀を掘って門戸を塞ぎ、大楯を前に戟と弩を後にして、城楼の上の人を仰ぎ射た。楼上の人は下って逃げた。
  • 土の城の外には二重の木の城があり、木の城の中から射てかなり外の者を殺傷した。外の者は薪を集めて木の城を焼いた。夜、数百騎が外へ出ようとしたので、迎え射て殺した。
  • はじめ単于は漢兵の到来を聞いて去ろうとしたが、康居が自分を怨んで漢の内応となるのではと疑い、また烏孫など諸国の兵もみな発したと聞いて、行き場がないと考えた。郅支はいったん出てからまた戻り、「堅守するに如くはない。漢兵は遠くから来ており長く攻められない」と言った。
  • 単于は甲を着けて楼上にあり、諸閼氏・夫人数十人がみな弓で外の者を射た。外の者が射て単于の鼻に当て、夫人もかなり死んだので、単于は下りた。
  • 夜半を過ぎて木の城が破られ、中の者は退いて土の城に入り、城に登って叫んだ。このとき康居の兵一万余騎が十余か所に分かれて四面から城を取り巻き、これと呼応した。夜に何度も営に押し寄せたが、不利になるたびに退いた。
  • 夜明け、四面から火が起こった。吏士は喜んで大声を上げて乗り込み、鉦鼓の音は地を動かした。康居の兵は引き退いた。漢兵は四面から大楯を押して並び入り、土の城の中へ進んだ。
  • 単于の男女百余人が大内に逃げ込んだ。漢兵が火を放ち、吏士は争って入った。単于は傷を負って死に、軍候の假丞の杜勲が単于の首を斬った。漢の使者の節二本、および谷吉らが持参した帛書を得た。鹵獲した物はみな得た者に与えた。
  • 斬った閼氏・太子・名王以下は千五百十八級、生け捕り百四十五人、降った者千余人。城郭諸国が発した十五王に分け与えた。

漢元帝建昭四年(前35年)

  • 春正月、郅支の首が京師に至った。延壽と湯が上疏した。
  • 私が聞くところでは、天下の大義は混じて一つとなるべきものです。昔は唐虞があり、今は強い漢がある。匈奴の呼韓邪単于はすでに北の藩と称しましたが、ただ郅支単于だけが叛逆して罪に伏していない。大夏の西では、強い漢も臣とできぬと思われていました。
  • 郅支単于は惨毒を民に行い、大悪は天に通じた。臣延壽・臣湯は義兵を率いて天誅を行い、陛下の神霊に頼り、陰陽ともに応じ天気は晴れ明らかで、陣を破り敵に克ち、郅支の首および名王以下を斬りました。
  • 首を槀街の蛮夷の邸のあいだに懸けて万里に示し、強い漢を犯す者は遠くとも必ず誅されることを明らかにすべきです。
  • 丞相の匡衡らは、今は春で骨を覆い埋める時期だから懸けるべきでないと考えた。詔して十日懸けてから埋めさせた。あわせて郊と廟に告げ祀り、天下に赦を行い、群臣が長寿を祝って酒宴を設けた。

漢元帝建昭五年(前34年)

  • 匈奴の呼韓邪単于は郅支が誅されたと聞いて喜びかつ恐れ、上書して入朝したいと願った。

漢元帝竟寧元年(前33年)

  • 春正月、匈奴の呼韓邪単于が来朝し、自ら漢家の婿となって親しみたいと願った。帝は後宮の良家の子である王嬙、字は昭君を単于に賜った。
  • 単于は喜んで上書し、「上谷以西から敦煌までの塞を保ち、これを無窮に伝えたい。辺境の備えの塞の吏卒を罷めて天子の人民を休ませていただきたい」と願った。
  • 天子は有司に議させ、議者はみな便宜と考えた。郎中の侯應は辺境の事に習熟しており、許すべきでないと考えた。上が理由を問うと、應は答えた。
  • 周・秦以来、匈奴は暴虐で辺境を侵し寇しました。漢が興ってからとりわけその害を被りました。
  • 私が聞くところでは、北辺の塞から遼東まで、外に陰山があって東西千余里、草木が茂り禽獣が多い。もともと冒頓単于はその中に拠って弓矢を作り、出て寇をなしました。その苑囿だったのです。孝武の世に師を出して征伐し、この地を奪って幕北へ追い、塞と徼を建て亭隧を起こし外城を築き屯戍を設けて守った。その後で辺境はやや安んじられるようになったのです。
  • 幕北の地は平らで草木が少なく大きな砂漠が多い。匈奴が寇に来ても身を隠す所が少ない。塞から南は深い山谷を通るので往来がやや難しい。辺境の長老は「匈奴は陰山を失って以来、そこを通るたびに哭かずにはいられない」と言います。備えの塞の戍卒を罷めれば夷狄に大きな利を示すことになる。不可の第一です。
  • 今、聖徳は広く及び、天のごとく匈奴を覆っている。匈奴は生き延びる恩を蒙って稽首して臣となった。夷狄の情は、困れば卑しく従い、強ければ驕り逆らう。天性がそうなのです。先に外城を廃し亭隧を減らし、かろうじて偵察と烽火の通信ができる程度にした。古は安きに危うきを忘れないという。二度と罷めてはならない。不可の第二です。
  • 中国には礼義の教えと刑罰の誅があっても、愚民はなお禁を犯します。まして単于がその衆に必ず約を犯させないと言えましょうか。不可の第三です。
  • 中国でさえ關と橋を設けて諸侯を制するのは、臣下の野心を絶つためです。塞と徼を設け屯戍を置くのは、匈奴のためだけでなく、諸属国の降人のためでもあります。もともと匈奴の人だから、旧を思って逃亡することを恐れるのです。不可の第四です。
  • 近ごろ西羌が塞を保って漢人と往来し、吏民が利を貪ってその家畜や妻子を侵し奪ったので、これを怨んで叛きました。今、塞に拠るのを罷めれば、侮り軽んじて争う端緒を生じます。不可の第五です。
  • かつて従軍して帰らなかった者が多く、その子孫は貧困です。ひとたび逃げ出してその親戚のもとへ行くでしょう。不可の第六です。
  • また辺境の人の奴婢は愁い苦しんで逃げたがる者が多く、日ごろ「匈奴の中は楽だ」と聞いていますが、監視が厳しいのでどうにもならないでいる。それでも時に塞を出て逃げる者があります。不可の第七です。
  • 盗賊で狡猾な群れが法を犯し、窮すれば北へ逃げ出す。そうなれば制せられません。不可の第八です。
  • 塞を起こして以来百有余年。すべて土の垣ではなく、山岩・木石・渓谷・水門を利用して少しずつ平らにしたものです。卒と徒が築き修めた功と費えは久しく、数えきれません。議者が終始を深く慮らず、一切の徭役と戍を省こうとすることを恐れます。十年の外、百年の内に急に他の変があり、障塞が壊れ亭隧が絶えれば、改めて屯を発して修繕せねばならない。累世の功は一朝には回復できません。不可の第九です。
  • もし戍卒を罷め偵察を省けば、単于は自ら塞を保ち守っていると考えて、必ず深く漢に恩を着せ、求めるところが際限なくなる。少しでもその意に沿わなければ、何が起こるか測れません。夷狄に隙を開き中国の堅固を欠くことになる。不可の第十です。
  • 永く至安を保ち百蛮を威制する長策ではありません。
  • 奏が上がると、天子は詔して辺塞の廃止を議させないこととし、車騎将軍の許嘉に単于へ口頭で諭させた。
  • 単于は上書して北の塞の吏士と屯戍を罷め、子孫代々塞を保ちたいと願った。単于が礼義を慕い民のために計るところは甚だ厚く、長久の策である。朕は甚だこれを嘉する。
  • 中国は四方にみな關・橋・障・塞がある。塞外に備えるためだけでなく、中国の姦邪が放縦に出て寇害をなすのを防ぐためでもある。ゆえに法度を明らかにして衆心を専らにするのだ。謹んで単于の意は承った。朕に疑いはない。
  • 単于が罷めないことを怪しむだろうと考えて、嘉に説明させたのである。単于は謝して「愚かで大計を知りませんでした。天子が幸いにも大臣を遣って告げ諭してくださった。甚だ厚いことです」と言った。
  • はじめ左伊秩訾は呼韓邪のために漢に帰す計を描き、ついに国を安定させた。その後、ある者が「伊秩訾は自らその功を誇り、常に不満げだ」と讒言し、呼韓邪はこれを疑った。伊秩訾は誅されることを恐れ、その衆千余人を率いて漢に降った。漢は關内侯として食邑三百戸を与え、その王の印綬を佩びさせた。
  • 呼韓邪が来朝して伊秩訾と会い、詫びて言った。「王は私のために甚だ厚く計ってくれた。匈奴が今日まで安寧なのは王の力だ。王の意を裏切って王を去らせ、引き止めなかったのは、みな私の過ちだ。今、天子に申し上げて王を庭へ帰していただきたい」と。
  • 伊秩訾は「単于は天命によって自ら漢に帰し、安寧を得られた。単于の神霊と天子の加護です。私に何の力がありましょう。すでに漢に降ったうえで、また匈奴に帰るのは二心です。単于のために漢で使えとして仕えたい。ご命令には従えません」と答えた。単于は固く請うたが叶わず帰った。
  • 単于は王昭君を寧胡閼氏と号した。一男の伊屠智牙師を生み、右日逐王となった。
  • はじめ中書令の石顯がかつて姉を甘延壽に嫁がせようとしたが、延壽は娶らなかった。郅支を破って帰ると、丞相・御史もまたその制を偽ったことを憎み、いずれも味方しなかった。
  • 陳湯はかねて貪欲で、鹵獲した財物を持って塞に入るのに法に外れることが多かった。司隷校尉が文書を回して道中で吏士を捕らえ取り調べた。
  • 湯は上疏して「私は吏士とともに郅支単于を誅し、幸いにも捕らえ滅ぼして万里の彼方から軍を整えて帰りました。使者が道中で迎え労うべきところ、今、司隷はかえって捕らえて取り調べている。これは郅支のために仇を報じるものです」と述べた。上はただちに吏士を釈放し、県道に酒食を用意して軍を通過させた。
  • 到着して功を論じると、石顯と匡衡は「延壽と湯は勝手に師を興し制を偽った。誅されずに済んだだけ幸いなのに、そのうえ爵と土地を加えれば、後に使いする者が争って危険に乗じ僥倖を求めて蛮夷に事を生じ、国に難を招くことになる」と主張した。
  • 帝は内心、延壽と湯の功を嘉しながら、匡衡・石顯の議に逆らうのを憚り、長く決めなかった。
  • 旧宗正の劉向が上疏して言った。
  • 郅支単于は使者と吏士を囚え殺すこと百を数え、事は外国に暴かれて威を傷つけ重みを毀ちました。群臣はみな憂え、陛下は赫として誅そうと思われ、その意を忘れたことがありません。
  • 西域都護の延壽と副校尉の湯は、聖旨を承け神霊に倚り、百蛮の君を総べ城郭の兵を率い、百死の中に出て絶域に入り、ついに康居を踏み三重の城を屠り、翕侯の旗を抜き郅支の首を斬り、旌を万里の外に懸け、威を昆山の西に揚げ、谷吉の恥を掃い、昭明の功を立てました。万夷は畏れ伏し、震え上がらぬ者はありません。
  • 呼韓邪単于は郅支が誅されたのを見て喜びかつ恐れ、風に向かい義に馳せ、稽首して来朝し、北の藩を守り累世臣を称したいと願った。千載の功を立て万世の安を建てたのです。群臣の勲でこれより大きいものはありません。
  • 昔、周の大夫の方叔・吉甫は宣王のために獫狁を誅して百蛮が従いました。その詩に「嘽嘽焞焞、霆のごとく雷のごとし。顕らかに允なる方叔、獫狁を征伐して、蛮荆来り威る」とあります。『易』に「嘉きことあり、首を折く。獲るはその醜に匪ず」とあります。首悪の人を誅せば従わぬ者もみな来り従う、という意味です。
  • 今、延壽と湯が誅した震撼ぶりは、『易』の折首も『詩』の雷霆も及びません。大功を論じる者は小過を記録せず、大美を挙げる者は細瑕をあげつらいません。『司馬法』に「軍の賞は月を越えず」とあるのは、民に速やかに善をなす利を得させたいからです。武功を急ぎ人を用いることを重んじるのです。
  • 吉甫が周に帰ると厚く賜りました。その詩に「吉甫宴喜し、既に多く祉を受く。来り帰るは鎬よりし、我が行くこと永久なり」とあります。千里の鎬でさえ遠いとされた。まして万里の外、その労苦は極まっています。
  • 延壽と湯はまだ福を受ける報いを得ないばかりか、かえって命を捨てた功を屈められ、久しく刀筆の吏の前で挫かれている。功ある者を勧め兵士を励ますゆえんではありません。
  • 昔、齊の桓公は前に周を尊ぶ功があり後に項を滅ぼす罪があった。君子は功で過を覆って諱みました。貳師将軍の李廣利は五万の師を捨て億万の費えを費やし四年の労を経て、わずかに駿馬三十匹を得ただけ。大宛王母寡の首を斬ったとはいえ費えを償うに足らず、その私罪と悪は甚だ多い。それでも孝武は万里の征伐だからとその過ちを記録せず、二人の侯、三人の卿、二千石百有余人を封拝しました。
  • 今、康居の国は大宛より強く、郅支の号は宛王より重く、使者を殺した罪は馬を留めたより甚だしい。しかも延壽と湯は漢の士を煩わさず一斗の糧も費やさなかった。貳師に比べれば功徳は百倍です。
  • しかも常惠は撃とうとした烏孫に随っただけ、鄭吉は自ら来た日逐を迎えただけで、いずれも土地を裂かれ爵を受けました。ゆえに威武と勤労で言えば方叔・吉甫より大きく、功を挙げ過を覆うことでは齊の桓公より優れ、貳師の近事の功より高い。それなのに安遠侯・長羅侯より大功が顕彰されず、小さな悪ばかりが度々流布している。私はひそかに痛みます。
  • 速やかに拘留を解き籍を通じ、過ちを除いて処罰せず、爵位を尊び寵して功ある者を勧めるべきです。
  • そこで天子は詔して延壽と湯の罪を赦して処罰せず、公卿にその封を議させた。議者は軍法により単于を捕らえ斬った例に倣うべきだと考えたが、匡衡と石顯は「郅支はもともと亡命して国を失い、絶域で号を僭称した者で、真の単于ではない」と主張した。帝は安遠侯鄭吉の故事を採って千戸としたが、衡と顯がまた争った。
  • 夏四月戊辰、延壽を義成侯に封じ、湯に關内侯の爵を賜り、食邑はそれぞれ三百戸、さらに黄金百斤を賜った。延壽を長水校尉、湯を射聲校尉に任じた。

漢成帝建始二年(前31年)

  • 匈奴の呼韓邪単于は左伊秩訾の兄の娘二人を寵愛していた。長女の顓渠閼氏は二子を生み、長を且莫車、次を囊知牙斯という。少女の大閼氏は四子を生み、長を雕陶莫皋、次を且糜胥といい、いずれも且莫車より年長。末子の咸と樂の二人は囊知牙斯より年下。他の閼氏の子も十余人いた。
  • 顓渠閼氏は且莫車を貴び愛した。呼韓邪が病んで死のうとするとき且莫車を立てようとしたが、顓渠閼氏は言った。「匈奴は十余年乱れ、髪の毛一本でつながるようだった。漢の力に頼ってようやく安んじられた。今、平定して間もなく、人民は戦闘に懲りている。且莫車は年少で百姓はまだ付いていない。また国を危うくすることを恐れます。私と大閼氏は一家で子を共にする。雕陶莫皋を立てるに如くはありません」と。
  • 大閼氏は「且莫車は年少でも大臣がともに国事を支えます。今、貴い者を措いて賤しい者を立てれば、後世は必ず乱れます」と言った。単于はついに顓渠閼氏の計に従い、雕陶莫皋を立て、国を弟に伝えるよう約させた。
  • 呼韓邪が死ぬと雕陶莫皋が立って復株累若鞮単于となった。復株累若鞮単于は且麋胥を左賢王、且莫車を左谷蠡王、囊知牙斯を右賢王とした。復株累単于は改めて王昭君を妻とし、二女を生んだ。長女の云は須卜居次、次女は當于居次となった。

漢成帝建始四年(前29年)

  • 上が即位したばかりのころ、丞相の匡衡が改めて射聲校尉の陳湯を奏劾した。「二千石の吏として使命を奉じ蛮夷の中で専断しながら、身を正して下に先んじず、収めた康居の財物を盗んだ。官属に『絶域の事は再調査されない』と戒めた。赦の前のこととはいえ、位に留めるべきではありません」と。湯は連座して免ぜられた。
  • 後に湯が「康居王の人質の子は王子ではない」と上言したが、調べると実際に王子だった。湯は獄に下されて死罪に当たった。
  • 太中大夫の谷永が上疏して湯を弁護した。
  • 私が聞くところでは、楚に子玉得臣がいて文公はそのために席を傾けて座り、趙に廉頗・馬服がいて強い秦は井陘に兵を窺えず、近くは漢に郅都・魏尚がいて匈奴は南して沙漠に向かえませんでした。これから言えば、戦って克つ将は国の爪牙であり、重んじずにはいられません。
  • 君子は鼓鼙の音を聞けば将帥の臣を思うと申します。ひそかに見ますに、關内侯の陳湯は先に郅支を斬って威を百蛮に震わせ武を西海に暢べました。漢の建国以来、方外を征伐した将でこれほどの者はありません。
  • 今、湯は言上した事が正しくなかったことで幽囚され、久しく繋がれて時を経ても決着せず、法を執る吏は死刑に致そうとしている。
  • 昔、白起は秦の将として南は郢都を抜き北は趙括を穴埋めにしましたが、わずかな過ちで杜郵に死を賜り、秦の民は憐れんで涙を流さぬ者がありませんでした。今、湯は自ら鉞を執り、万里の外で席巻し血を踏み、功を祖廟に薦め上帝に告げ祀った。甲冑の士でその義を慕わぬ者はありません。言上した事で罪となっただけで、顕著な悪はありません。
  • 『周書』に「人の功を記し人の過を忘れる。それが君たる者のあるべき姿だ」とあります。犬馬でも人に労があれば帷や車蓋を掛けてやる報いがある。まして国の功臣においてをや。
  • 陛下が鼙鼓の音を忽せにし『周書』の意を察せず帷蓋の施しを忘れ、凡庸な臣として湯を遇し、ついに吏の議に従われれば、百姓に秦の民のような恨みを抱かせることになる。死難の臣を励ますゆえんではありません。
  • 書が奏されて天子は湯を出したが、爵を奪って士伍とした。

漢成帝河平元年(前28年)

  • 匈奴の単于が右皋林王伊邪莫演らを遣って献上し、正月に朝させた。

漢成帝河平二年(前27年)

  • 春、伊邪莫演が帰ろうとするとき、自ら「降りたい。受け入れられなければ自殺する。決して帰らない」と言った。使者が報告し、公卿の議に下された。
  • 議者のなかには「故事の通り、その降伏を受け入れるべきだ」と言う者もあった。光祿大夫の谷永と議郎の杜欽は言った。
  • 漢が興って匈奴は度々辺境の害となったので、金と爵の賞を設けて降人を待遇しました。今、単于は身を屈して臣と称し北の藩に列し、使者を遣って朝賀し二心がありません。漢家の応対は往時と異なるべきです。
  • 今、単于の聘貢の質を享けながら、そのうえ逃亡した臣を受け入れるのは、一人の男を得る貪りで一国の心を失うもの。罪ある臣を庇って義を慕う君と絶つことです。
  • 仮に単于が立ったばかりで中国に身を委ねたいが利害が分からず、私かに伊邪莫演に降伏を装わせて吉凶を占っているのなら、受け入れれば徳を欠き善を挫き、単于に自ら疎んじさせ辺吏に親しませなくなります。あるいは反間を仕掛けてこれを機に隙を生じさせようとしているのなら、受け入れることはその策に適い、彼らに曲を我らに帰させて正しさを責めさせることになる。
  • これはまことに辺境の安危の源、軍旅の動静の始めです。詳らかにせずにはいられません。受け入れず、日月のごとき信を明らかにし、詐りの謀を抑え、親しみ付く心を懐かせるのがよいでしょう。
  • 奏が上がって天子は従い、中郎将の王舜を遣って降伏の事情を問わせた。伊邪莫演は「私は病んで狂い、妄言しただけです」と言った。帰らせると、官位は元のままで、漢の使者に会わせようとしなかった。

漢成帝河平四年(前25年)

  • 春正月、匈奴の単于が来朝した。

漢成帝元延元年(前12年)

  • 匈奴の搜諧単于が入朝しようとして、塞に入らぬうちに病死した。弟の且莫車が立って車牙若鞮単于となり、囊知牙斯を左賢王とした。

漢成帝綏和元年(前8年)

  • 秋八月、匈奴の車牙単于が死に、弟の囊知牙斯が立って烏珠留若鞮単于となった。烏珠留単于は弟の樂を左賢王、興を右賢王とした。
  • 漢は中郎将の夏侯藩と副校尉の韓容を匈奴へ遣った。
  • ある者が王根に説いた。「匈奴に漢の地へ突き出た所があり、張掖郡と向かい合っている。珍しい材木や矢柄、鷲の羽を産する。これを得れば辺境は甚だ豊かになる。国家には地を広げる実があり、将軍は顕功を無窮に垂れられます」と。
  • 根が上にその利を述べた。上は単于に直接求めたかったが、得られなければ命を傷つけ威を損なうと考えた。根はただ上の意向を藩に伝え、藩自身の考えとして求めさせた。
  • 藩は匈奴に至り、話のついでに単于に説いた。「見ますに、匈奴には漢の地へ突き出た所があり張掖郡と向かい合っている。漢は三人の都尉が塞上にあり士卒数百人が寒さと苦しみに耐えて久しく偵察に労している。単于は上書してこの地を献じ、真っ直ぐ切り分けて二人の都尉と士卒数百人を省き、天子の厚恩に報いるべきです。その返礼は必ず大きい」と。
  • 単于は「これは天子の詔の言葉か。それとも使者が自ら求めるのか」と問うた。藩は「詔の意です。しかし私も単于のために良い計を描いているだけです」と答えた。単于は「そこは溫偶駼王の住む地だ。その地形も産物もよく分からない。使者を遣って問わせたい」と言った。
  • 藩と容は漢に帰り、後に再び匈奴へ使いした。着いて地を求めると、単于は「父兄五代にわたって漢はこの地を求めなかった。私の代になって独り求めるのはなぜか。すでに溫偶駼王に問うた。匈奴の西辺の諸侯は穹廬や車を作るのにみなこの山の材木に頼っている。しかも先父の地であり、失うわけにいかない」と言った。
  • 藩は帰って太原太守に遷った。単于は使者を遣って上書し、藩が地を求めた状況を報告した。詔して単于に返答した。「藩は勝手に詔と称して単于に地を求めた。法では死に当たる。ただ二度の大赦があったので、今、藩を濟南太守に移し、匈奴に当たらせない」と。

漢哀帝建平四年(前3年)

  • 秋八月、匈奴の単于が上書して翌五年に朝したいと願った。
  • 当時、帝は病んでいた。ある者が「匈奴は上流から来て人に祟る」と言い、黄龍・竟寧の時に単于が朝すると中国にそのたびに大事があったと述べた。上はこれによって難色を示し、公卿に問うと、これも無駄に府庫を費やすとして、ひとまず許さないことにした。単于の使者は辞去して、まだ発たなかった。
  • 黄門郎の楊雄が上書して諫めた。
  • 私が聞くところでは、六経の治は乱れる前を貴び、兵家の勝ちは戦う前を貴びます。二つとも微かなことですが、大事の本であり察せずにはいられません。
  • 今、単于が上書して朝を求めたのに、国家が許さず断った。私の愚考では、漢と匈奴はこれから隙ができます。匈奴はもともと五帝も臣とできず三王も制せなかった。隙を作ってはならないことは甚だ明らかです。
  • 遠くを引くまでもなく、秦以来で申しましょう。秦の始皇の強さ、蒙恬の威をもってしても西河を窺えず、長城を築いて境としました。漢が興ったばかりのころ、高祖の威霊と三十万の衆が平城で困窮した。当時、奇計の士と大策の臣は甚だ多かったが、脱出できた理由は世に語り伝えられていません。高皇后の時にも匈奴は悖り慢り、大臣が権謀の書を送ってようやく解けました。
  • 孝文の時、匈奴が北辺を侵し暴れ、斥候の騎が雍・甘泉に至り京師は大いに驚き、三将軍を発して細柳・棘門・霸上に駐屯させて備え、数か月でようやく罷めました。
  • 孝武が即位して馬邑の権謀を設け匈奴を誘おうとしましたが、いたずらに財を費やし師を労し、一人の敵も見られなかった。まして単于の顔においてをや。
  • その後、深く社稷の計を思い万載の策を広く定め、大挙して数十万の師を興し、衛青・霍去病に兵を執らせること前後十余年。ここに西河に浮かび大幕を越え、寘顔を破り王庭を襲い、その地を窮め、逃げる者を追い、狼居胥山で封じ姑衍で禪し、翰海に臨んだ。敵の名王・貴人は百を数えました。これ以後、匈奴は震え恐れてますます和親を求めましたが、まだ臣と称そうとはしなかった。
  • そもそも前世が、どうして量り知れない費えを傾け罪なき人を役して、狼望の北で溜飲を下げることを楽しんだでしょう。一度大いに労さねば長く安逸を得られず、しばらく費やさねば永く寧んじられないと考えたからです。ゆえに百万の師を忍んで飢えた虎の口を摧き、府庫の財を運んで盧山の谷を埋めても悔いなかったのです。
  • 本始の初めに至って匈奴に凶悪な心があり、烏孫を掠め公主を侵そうとしたので、五将の師十五万騎を発して撃ちました。当時、得るところは少なく、いたずらに威武を揚げ、漢兵が雷風のごときことを明らかにしただけです。空しく行き空しく帰ったので、二人の将軍を誅しました。ゆえに北狄は服さず、中国は枕を高くして安眠できなかったのです。
  • 元康・神爵のあいだに至り、大化は神明で鴻恩はあまねく行き渡り、匈奴は内乱して五人の単于が立つことを争い、日逐と呼韓邪が国を挙げて命を託し、這うようにして臣と称した。それでもなお羈縻の計であって、専ら制することはしなかった。これ以後、朝したい者は拒まず、望まない者は強いなかった。
  • なぜか。外国の天性は忿り猛々しく、姿は魁偉で、力を恃み気を頼み、善に化しにくく悪に染まりやすい。その強さは屈しがたく、その和は得がたい。ゆえに服さぬ時は師を労して遠く攻め、国を傾け財を尽くし、屍を伏せ血を流して堅きを破り敵を抜くのがあれほど難しく、服した後は慰め労い撫し循い、交わり接して贈り、威儀の俯仰があれほど整えられるのです。
  • かつて大宛の城を屠り烏桓の塁を踏み姑繒の壁を探り蕩妲の場を蹂み朝鮮の旗を薙ぎ両越の旗を抜きました。近ければ旬月の役、遠くても二季の労を出ず、その庭を犂きその閭を掃い、郡県として置き、雲のように払い席のように巻いて、後に余災がなかった。ただ北狄だけがそうではない。まことに中国の堅い敵です。三方はこれに比べれば懸絶しています。前世が重んじたのはこのためで、軽々しく扱ってはなりません。
  • 今、単于は義に帰し誠意を懐き、その庭を離れて御前に姿を見せたいと言う。これこそ上世の遺策であり神霊の望むところ。国家に費えがあってもやむを得ないものです。
  • どうして「来られては祟る」という言葉で拒み、「いつとも知れぬ」という期日で疎んじ、往昔の恩を消し将来の隙を開くのですか。疑って隙を作れば恨む心を抱かせ、前の言葉に背き過去の辞を頼りに漢に怨みを帰し、そのまま自ら絶って、ついに北面の心がなくなる。威で臨めず諭しても聴かない。どうして大きな憂いとならずにいられましょう。
  • 明者は形のないうちに視、聡者は声のないうちに聴くと申します。まことに未然に先んじれば、兵革を用いずに憂患は生じません。そうでなく、ひとたび隙ができれば、智者が内で心を労し弁者が外で車を走らせても、未然のときには及びません。
  • しかも、かつて西域を図り車師を制し城郭に都護を置き三十六国を治めるのに、毎年大万を数える費えを費やしたのは、康居や烏孫が白龍堆を越えて西辺を寇せるからではありません。匈奴を制するためです。百年労してきたものを一日で失い、十を費やして一を惜しむ。私はひそかに国のために不安に思います。
  • どうか陛下、乱れる前・戦う前に少し意を留められ、辺境の禍の芽を遏められますよう。
  • 書が奏されて天子は悟り、匈奴の使者を召し戻し、改めて単于への書に返答して許した。雄に帛五十匹・黄金十斤を賜った。
  • 単于は出発しないうちに病み、改めて使者を遣って翌年に朝したいと願い、上は許した。

漢哀帝元壽二年(前1年)

  • 春正月、匈奴の単于が来朝した。黄龍以来、単于が入朝するたびに、賜る錦繡・繒絮はそのたびに以前より厚くして慰め遇した。