通鑑紀事本末武帝、朝鮮を撃つ(武帝撃朝鮮)
衛滿の孫の右渠が漢の亡命者を集め入朝もせず、辰國の朝貢まで塞いだため、漢の使者涉何の刺殺事件を発端に、武帝が楊僕と荀彘を派遣する。包囲は数か月に及んだが、両将が反目して降伏交渉が進まず、最後は朝鮮の大臣が右渠を殺して降り、四郡が置かれる。元封二年(前109年)から元封三年(前108年)までの2年間。
漢武帝元封二年(前109年)
- かつて燕が全盛だったころ、真番・朝鮮を攻略して属させ、吏を置いて障塞を築いた。秦が燕を滅ぼすと遼東の外の境界に属させた。漢が興ると遠くて守りにくいため、遼東の旧塞を修復して浿水を境とし、燕に属させた。
- 燕王盧綰が叛いて匈奴に入ると、燕人の衛滿が亡命し、党を千余人集め、椎髻に蛮夷の服で東へ走り、塞を出て浿水を渡り、秦の旧い空き地の上下の障に住んだ。しだいに真番・朝鮮の蛮夷および燕からの亡命者を従属させ、その王となって王險に都した。
- 折しも孝惠・高后のころ、天下は定まったばかりで、遼東太守は滿と、外臣として塞外の蛮夷を抑え辺境を侵させないこと、蛮夷の君が天子に謁見したいときは妨げないことを約した。そのため滿は兵威と財物で周辺の小邑を侵し降し、真番・臨屯もみな服属して、方数千里に及んだ。
- 子に伝わり孫の右渠に至り、誘い込んだ漢の亡命者はますます多くなり、また一度も入朝しなかった。辰國が上書して天子に謁見しようとしても、これを塞いで通じさせなかった。
- この年、漢の使者の涉何が右渠を諭したが、ついに詔を奉じようとしなかった。何は去って境界に至り、浿水に臨んだところで御者に、何を送ってきた朝鮮の裨王長を刺殺させ、ただちに川を渡って塞へ馳せ入った。そして帰って天子に「朝鮮の将を殺した」と報告した。上はその名目が立派なので詰問せず、何を遼東東部都尉に任じた。朝鮮は何を怨み、兵を発して襲い、何を攻め殺した。
- 秋、上は天下の死罪の者を募って兵とし、樓船将軍の楊僕を齊から渤海に浮かべ、左将軍の荀彘を遼東から出して朝鮮を討たせた。
漢武帝元封三年(前108年)
- 漢兵が朝鮮の境に入った。朝鮮王右渠は兵を発して険に拠った。
- 樓船将軍が齊の兵七千人を率いて先に王險に至った。右渠は籠城していたが、樓船の軍が少ないと窺い知って城を出て樓船を撃った。樓船の軍は敗れて散り、山中に逃げ込んだ。十余日かけて散った卒を集め直した。
- 左将軍は朝鮮の浿水の西の軍を撃ったが破れなかった。
- 天子は両将が戦果を挙げないので、衛山を遣り、兵威を背景に右渠を諭させた。右渠は使者に会って頓首し謝して「降りたい。ただ両将が偽って私を殺すことを恐れていました。今、信の節を見ましたので、改めて降ります」と言い、太子を送って謝罪させ、馬五千匹および軍糧を献じることとした。
- 人衆一万余が武器を持ってまさに浿水を渡ろうとした。使者と左将軍は変事を疑い、「太子はすでに降伏に服したのだから、人に武器を持たせないようにすべきだ」と言った。太子もまた使者と左将軍が偽って自分を殺すのではないかと疑い、ついに浿水を渡らず引き返した。山が帰って報告し、天子は山を誅した。
- 左将軍が浿水のほとりの軍を破って前進し、城下に至ってその西北を囲んだ。樓船も合流して城の南に陣取った。右渠は堅守し、数か月経っても落ちなかった。
- 左将軍の率いる燕・代の卒は強く猛々しい者が多かった。樓船の率いる齊の卒はすでに敗走して困窮し辱められており、卒はみな恐れ、将は心中恥じていた。右渠を囲んでも常に和議の姿勢だった。左将軍は急攻した。
- 朝鮮の大臣は密かに人を遣って樓船に降伏を私約し、往来して語り合ったがまだ決しなかった。左将軍は何度も樓船と戦う期日を約したが、樓船は約を成立させたくて合流しなかった。左将軍もまた人を遣って隙をついて朝鮮を降そうとしたが、朝鮮は応じず樓船に心を寄せた。このため両将は互いにうまくいかなかった。
- 左将軍は、樓船に以前軍を失った罪があり、今また朝鮮と私かに親しみながら降らせもしないことから、叛意があるのではと疑ったが、まだ動かなかった。
- 天子は、両将が城を囲みながら食い違って兵が長く決しないので、濟南太守の公孫遂を遣って正させ、臨機に処置してよいとした。
- 遂が至ると、左将軍は「朝鮮はとうに落ちるはずなのに落ちないのは、樓船が何度も期日に合流しないからだ」と言い、かねての疑いをつぶさに告げて「今こうなった以上、取り除かなければ大害となる恐れがある」と述べた。遂ももっともと考え、節をもって樓船将軍を左将軍の陣営に招いて事を議するとし、その場で左将軍の麾下に樓船将軍を捕らえさせ、その軍を併せて天子に報告した。天子は遂を誅した。
- 左将軍は両軍を併せると急ぎ朝鮮を撃った。朝鮮の相の路人、相の韓陰、尼谿の相の參、将軍の王唊は謀って言った。「はじめ樓船に降ろうとしたが、樓船は今捕らえられた。左将軍だけが両軍を率いて戦いはますます急だ。とても戦えまい。しかも王は降ろうとしない」と。陰・唊・路人はみな逃げて漢に降ったが、路人は道中で死んだ。
- 夏、尼谿の參が人を遣って朝鮮王右渠を殺し、降ってきた。王險城はまだ落ちなかった。旧右渠の大臣である成已が再び叛いて吏を攻めた。左将軍は右渠の子の長降と相の路人の子の最に、その民に告げ諭させ、成已を誅した。こうしてついに朝鮮を平定し、樂浪・臨屯・玄菟・真番の四郡とした。
- 參を澅清侯、陰を萩苴侯、唊を平州侯、長を幾侯に封じ、最は父が死に功もかなりあったので涅陽侯とした。
- 左将軍は召還され、功を争い互いに嫉んで計を食い違わせた罪で棄市となった。樓船将軍もまた、兵が列口に着いたとき左将軍を待つべきだったのに勝手に先に放って多くを失った罪で誅に当たり、贖って庶人となった。
史論(班固曰・朝鮮の教化)
- 玄菟・樂浪はもと箕子が封じられた地である。昔、箕子が朝鮮にいて民に礼義・農耕・養蚕・機織りを教え、民のために禁を八条定めた。
- 人を殺した者はその場で殺して償わせ、人を傷つけた者は穀物で償わせ、盗んだ者は男はその家の奴に、女は婢に没入した。自ら贖おうとする者は一人五十万。民となることを免れても、俗はなおこれを恥とし、嫁娶の相手がいなかった。
- そのため民はついに盗み合わず、戸口を閉じることがなかった。婦人は貞信で淫らでなかった。田野の飲食には籩豆を用い、都邑ではかなり中国の風を真似て、吏はしばしば杯や器で食べた。
- 郡ははじめ遼東から吏を採った。吏は民が物を閉じてしまい込まないのを見、また商人で来た者は夜に盗みを働くようになり、俗は次第に薄れた。今では犯禁が増えて六十余条に至る。仁賢の教化とは尊いものである。
- しかし東夷の天性は柔順で三方の外の民と異なる。ゆえに孔子は道が行われないことを悼み、海に筏を浮かべて九夷に住みたいと言った。もっともなことである。