通鑑紀事本末武帝、神怪に惑う(武帝惑神恠)

李少君の竈祀りから始まり、少翁・欒大・公孫卿ら方士が次々に武帝を惑わせ、偽術が露見して誅されてもなお、宝鼎の出現を機に泰山の封禪が挙行される。その後も蓬萊を求めて海上を巡り、通天臺や建章宮を築いて神人を待ったが、ついに効験はなく、晩年に自ら過ちを認めて方士をすべて罷免した。元光二年(前133年)から後元二年(前87年)の崩御までの47年間。

年表(13件)

漢武帝元光二年(前133年)

  • 冬十月、李少君が竈を祀って老いを退ける術で上に謁見し、上は尊重した。
  • 少君はもと深澤侯の舎人で、年齢も出身地も隠していた。方術で諸侯を遍歴し、妻子がなかった。人々は彼が物を操れる術と不死の術を持つと聞いてしきりに贈り物をしたので、常に金銭・衣食が余っていた。人はみな、生業を営まずに豊かなのを不思議に思い、しかもどこの者か分からないので、ますます信じて争って仕えた。
  • 少君は巧みに言い当てるのが得意だった。かつて武安侯の酒宴に列したとき、座に九十余歳の老人がいた。少君はその祖父と遊び射をした場所を語り、老人は子供のころ祖父に従ってその場所を知っていた。一座はみな驚いた。
  • 少君は上に説いた。「竈を祀れば物を招き寄せられます。物を招けば丹砂を黄金に変えられ、寿命を延ばせ、蓬萊の仙人に会えます。会って封禪を行えば不死となる。黄帝がそれです。私はかつて海上に遊んで安期生に会い、瓜ほどの大きさの棗を食べさせてもらいました。安期生は仙人で蓬萊に通じており、気が合えば人に会い、合わなければ隠れます」と。
  • そこで天子ははじめて自ら竈を祀り、方士を海に入れて蓬萊の安期生の類を求めさせ、丹砂や諸薬を練って黄金に変えることに従事した。
  • 久しくして李少君は病死したが、天子は化して去ったので死んだのではないと考えた。海上の燕・齊の怪しく荒唐な方士がますます多く来て神の事を語るようになった。
  • 亳の人謬忌が太一を祀る方術を奏した。「天神で最も貴いのは太一、太一の補佐が五帝です」と。そこで天子は長安の東南の郊にその祠を立てた。

漢武帝元狩四年(前119年)

  • 齊人の少翁が鬼神の術で上に謁見した。上が寵愛した王夫人が没していたので、少翁は術で夜に王夫人の姿に似た鬼を招いた。天子は帷の中から望み見た。
  • そこで少翁を文成将軍に任じ、賞賜は甚だ多く、客の礼で遇した。
  • 文成はさらに上に勧めて甘泉宮を造らせ、中に臺と室を設けて天地・太一・諸鬼神を描き、祭具を置いて天神を招こうとした。
  • 一年余り経ってその術はますます効かなくなり、神は来なかった。そこで帛に字を書いて牛に食わせ、知らないふりをして「この牛の腹の中に不思議なものがある」と言った。殺して見ると書が出てきた。書の内容は甚だ怪しかったが、天子はその筆跡に見覚えがあり、書いた者を問いただすと、果たして偽書だった。そこで文成将軍を誅し、これを隠した。

漢武帝元狩五年(前118年)

  • 夏四月、天子が鼎湖で重く病み、巫医であらゆる手を尽くしても治らなかった。
  • 游水發根が「上郡に巫がおり、病んだときに鬼神が降ります」と言った。上は召して甘泉で祀らせた。病んだとき人を遣って神君に問わせると、神君は「天子は病を憂えるな。病が少し癒えたら無理をしてでも甘泉で私に会いに来い」と言った。
  • そこで病が癒えて起き上がり、甘泉に行幸すると病はすっかり治った。壽宮で酒宴を設けた。神君は見ることができず、その声だけが聞こえ、声は人と同じだった。時に去り時に来て、来ると風が粛然と吹いた。室内の帷の中にいた。
  • 神君の言うことを上は人に書き取らせ、それを「畫法」と名づけた。その語る内容は世俗の知るところで、特別なものではなかったが、天子だけがひそかに喜び、そのことは秘されて世に知られなかった。

漢武帝元鼎四年(前113年)

  • 春二月、樂成侯丁義が方士の欒大を推薦し、文成将軍と同門だと言った。上は文成を誅したことを悔いていたので、欒大を得て大いに喜んだ。
  • 大は先に膠東の康王に仕えていた。人となりは長身で美しく、方略を多く語り、敢えて大言して臆するところがなかった。
  • 大は言った。「私は常々海中を往来して安期・羨門の類に会いましたが、私を賤しいと見て信じてくれませんでした。また康王は諸侯にすぎず、方術を語るに足りないと見られたのです。私の師は『黄金は作れ、河の決壊は塞げ、不死の薬は得られ、仙人は招ける』と言いました。しかし文成のようになれば、方士はみな口を塞いで、どうして方術を語れましょう」と。
  • 上は「文成は馬の肝を食べて死んだだけだ。お前が本当にその術を修められるなら、私は何を惜しもう」と言った。大は「私の師は人を求めるのではなく、人が求めるのです。陛下がどうしても招きたければ、その使者を貴くし親族とし、客の礼で待遇してこそ、神人に言葉を通じさせられます」と言った。
  • そこで上は小さな術を試させた。碁石が自ら触れ合って打ち合った。
  • 当時、上は河の決壊を憂え、黄金も成らなかった。そこで大を五利将軍に任じ、さらに天士将軍・地士将軍・大通将軍にも任じた。
  • 夏四月乙巳、大を樂通侯に封じ、食邑二千戸を与え、上等の邸宅と僮僕千人を賜り、乗輿から外した車馬・帷帳・器物でその家を満たした。さらに衛長公主を妻とし、金十万斤を持たせた。天子自ら五利の邸に行き、使者の見舞いと供給が道に絶えなかった。大主・将相以下はみなその家で酒宴を張って贈り物をした。
  • 天子はまた玉印を刻んで「天道将軍」とし、使者に羽衣を着せて夜に白茅の上に立たせた。五利将軍もまた羽衣を着て白茅の上に立って印を受け、臣でないことを示した。
  • 大は謁見して数か月で六つの印を佩び、その貴さは天下を震わせた。こうして海上や燕・齊のあいだで、腕まくりして「秘伝の術があり神仙になれる」と言わない者がなくなった。
  • 六月、汾陰の巫の錦が魏脽の后土の祠のかたわらで大鼎を得た。河東太守が報告し、天子は人を遣って調べさせ、巫が鼎を得たのに不正がないと分かったので、礼をもって祀って鼎を迎えた。甘泉に至り、上に従って進み、宗廟と上帝に薦めて甘泉宮に蔵した。群臣はみな長寿を祝った。
  • 秋、上は雍に行幸して郊祀を行おうとした。ある者が「五帝は泰一の補佐です。泰一を立てて上が自ら郊祀されるべきです」と言った。上は迷って決めなかった。
  • 齊人の公孫卿が「今年、宝鼎を得ました。その冬の辛巳の朔旦が冬至に当たり、黄帝の時と同じです」と言った。卿は木札の書を持っており、「黄帝が宝鼎を得た年は己酉の朔旦が冬至。それから三百八十年で黄帝は仙となって天に登った」とあった。寵臣を通じて奏上すると上は大いに喜び、召して問うた。
  • 卿は答えた。「この書は申公から受けました。申公は『漢が興れば再び黄帝の時に当たる。漢の聖者は高祖の孫か曾孫にあたる。宝鼎が出て神と通じる。黄帝は明庭で万霊と交わった。明庭とは甘泉のことである。黄帝は首山の銅を採って荆山の下で鼎を鋳た。鼎が成ると龍が顎髭を垂らして降りてきて黄帝を迎え、黄帝は龍に乗り、群臣と後宮七十余人とともに天に登った』と言いました」と。
  • 天子は「ああ、まことに黄帝のようになれるなら、私は妻子を捨てるのを履物を脱ぐようにするだろう」と言い、卿を郎に任じ、東の太室で神を待たせた。

漢武帝元鼎五年(前112年)

  • 五利将軍が旅装を整えて東の海に入り師を求めようとしたが、結局海に入る勇気がなく、泰山へ行って祀った。上が人を遣って調べさせると、実際には何も見ておらず、五利は師に会ったとでたらめを言い、その術もことごとく効かなかった。欺いた罪で腰斬となり、樂成侯もまた棄市となった。

漢武帝元鼎六年(前111年)

  • 冬、公孫卿が河南で神を待ち、緱氏城の上に仙人の足跡を見たと言った。
  • 春、天子は自ら緱氏城に行幸して跡を見、卿に「文成・五利の二の舞ではあるまいな」と問うた。卿は「仙人は人主を求めず、人主が求めるものです。その道は、ゆとりをもって寛やかにしなければ神は来ません。神の事は迂遠で荒唐に見えても、年月を積み重ねてこそ招けるのです」と答えた。上は信じた。
  • そこで郡国はそれぞれ道を修め、宮観・名山・神祠を修理して行幸を待った。
  • かつて司馬相如が病んで死のうとするとき、遺書を残して功徳を頌え符瑞を述べ、上に泰山で封を行うよう勧めた。上はその言に感じ、折しも宝鼎を得たので、公卿・諸生と封禪を議した。
  • 封禪は行われることが稀で長く絶えており、誰もその儀式を知らなかった。しかも諸方士は「封禪とは不死の名に合致するものです。黄帝以上の封禪はみな怪物を招いて神と通じた。秦の皇帝は登って封じられなかった。陛下がどうしても登られるなら、少しずつ登ってみて、風雨がなければそのまま登って封じられます」と言った。
  • 上は諸儒に『尚書』『周官』『王制』の文から採って封禪の儀を草させたが、数年かけても成らなかった。
  • 上が左内史の兒寛に問うと、寛は答えた。「泰山で封じ梁父で禪するのは、姓を明らかにし瑞を考える帝王の盛儀です。しかし供え物を薦める意義は経に記されていない。私は、封禪して成功を告げ天地の神祇に合わせ祓うのは、聖王が自ら制定すべきことであって、群臣の並べ立てられることではないと考えます。今、大事を挙げようとして数年をゆったり過ごし、群臣に各々尽くさせても、ついに成らないのです。ただ天子が中和の極を建て、条理をすべて総べ、金の声で始め玉の音で締めくくって、天の慶びを順に成し遂げ、万世の基を垂れられますように」と。
  • 上はそこで自ら儀を定め、儒術をかなり採り入れて飾りとした。上が封禪の祭器を作って諸儒に示すと、「古と同じでない」と言う者があった。そこで諸儒をすべて罷めて用いなかった。
  • 上はまた、古は先に兵を振るい軍を解いてから封禪したのだと考えた。

漢武帝元封元年(前110年)

  • 冬十月、雲陽から北へ上郡・西河・五原を経て長城を出、北の単于臺に登り、朔方に至って北河に臨んだ。帰って橋山の黄帝の塚を祭り、須如で兵を解いた。
  • 上は「私は黄帝は死ななかったと聞くが、塚があるのはなぜか」と言った。公孫卿は「黄帝はすでに仙となって天に登られ、群臣が思慕してその衣冠を葬ったのです」と答えた。上は嘆じて「私が後に天に登ったら、群臣もまた私の衣冠を東陵に葬るのだろうか」と言い、甘泉に戻って類祭を行い太一を祀った。
  • 春正月、上は緱氏に行幸し、中嶽の太室を礼祭した。山の下にいた従官は、万歳と唱える声が三度聞こえたようだと言った。詔して祠官に太室の祠を増設させ、その草木の伐採を禁じ、山下の三百戸をその奉邑とした。
  • 上はそのまま東へ海上を巡り、八神を礼祀した。齊人で神怪・奇方を上疏する者は万を数えた。そこで船を増発し、海中の神山を語る者数千人に蓬萊の神人を求めさせた。
  • 公孫卿は節を持って常に先行して名山で待った。東萊に至り、「夜に身の丈数丈の大人を見た。近づくと見えなくなったが、その足跡は甚だ大きく、禽獣に似ていた」と言った。群臣のなかには、一人の老父が犬を牽いて「私は鉅公に会いたい」と言い、たちまち見えなくなったと言う者もあった。
  • 上ははじめ大きな足跡を見ても信じなかったが、群臣がまた老父のことを言うに及んで、大いに仙人だと考えた。海上に滞在し、方士に伝馬を与え、密使を送って神仙を求める者は千を数えた。
  • 夏四月、奉高に戻り、梁父で地主を礼祀した。乙卯、侍中の儒者に皮弁を着け紳を挿ませ、牛を射て儀を行わせた。泰山の下の東方に封じた。太一を郊祀する礼と同じである。封は広さ一丈二尺、高さ九尺、その下に玉牒の書を置いたが、書の内容は秘された。
  • 礼が終わると、天子は侍中奉車都尉の霍子侯とだけ泰山に登り、そこでも封を行ったが、その事はみな禁じられて口外されなかった。
  • 翌日、北側の道を下り、丙辰、泰山の麓の東北の肅然山で禪を行った。后土を祭る礼と同じである。天子はみな自ら拝礼し、黄色の衣を着てすべて音楽を用いた。江淮のあいだの三稜の茅を神の敷物とし、五色の土を混ぜて封を厚くした。その封禪の祠では、夜に光のようなものがあり、昼には白い雲が封の中から出た。
  • 天子は禪から戻って明堂に座り、群臣が代わる代わる長寿を祝い功徳を頌えた。詔して言った。
  • 朕は微小の身で至尊を承け、兢々として、ただ徳が薄く礼楽に明らかでないことを恐れてきた。ゆえに八神を祀ったところ、天地が恵みを施し景象を現し、はっきりと聞こえるようで、怪しい物に心を動かされた。やめようとしても敢えてできず、ついに泰山に登って封じ、梁父に至り、その後で肅然に禪して自ら新たになった。士大夫とともに改めて始めることを嘉する。
  • 十月をもって元封元年とする。巡幸の至った博・奉高・蛇丘・歷城・梁父の民の田租と滞納の賦はみな免除し、今年の算賦を出させない。天下の民に爵一級を賜る。
  • また五年に一度巡狩して泰山で祀ることとし、諸侯にそれぞれ泰山の下に邸を設けさせた。
  • 天子は泰山に封じて風雨がなかったので、方士は改めて「蓬萊の諸神はまもなく得られましょう」と言った。上は喜んで会えることを願い、再び東へ海上に至って望んだ。
  • 上は自ら海に浮かんで蓬萊を求めようとし、群臣が諫めても止められなかった。東方朔が「仙とは自然に得るもので、焦って求める必要はありません。道があれば得られないことを憂えず、道がなければ蓬萊に至って仙人に会っても益はありません。どうか陛下はひとまず宮に戻り、静かに待たれよ。仙人は自ずと至りましょう」と言った。上はやめた。
  • 折しも奉車の霍子侯が急病を発して一日で死んだ。子侯は霍去病の子である。上は甚だ悼み、そのまま去った。海沿いに北へ碣石に至り、遼西から北辺を経て九原に至り、五月に甘泉へ帰った。全行程はおよそ一万八千里であった。

漢武帝元封二年(前109年)

  • 春正月、公孫卿が東萊山で神人に会い、天子に会いたがっているようだと言った。天子は緱氏城に行幸し、卿を中大夫に任じ、そのまま東萊に至って数日滞在したが、何も見えず、大人の足跡を見たというだけだった。
  • 再び方士を遣って神怪を求め霊芝の薬を採らせること千を数えた。
  • この年は日照りだった。天子は出かける名分がなかったので、萬里沙で祈った。夏四月、帰りに泰山を祀った。
  • 公孫卿が「仙人は高殿に住むのを好みます」と言った。そこで上は長安に蜚廉・桂の観を、甘泉に益壽・延壽の観を作り、卿に節を持たせて設備を整えて神人を待たせた。また通天の莖臺を作り、その下に祭具を置いた。さらに甘泉の前殿を建て替え、諸宮室を広げた。

漢武帝太初元年(前104年)

  • 冬十月、上は泰山に行幸した。十一月甲子の朔旦が冬至で、明堂で上帝を祀った。東へ海上に至り、海に入った者や神を求めた方士を調べたが、いずれも効験がなかった。それでもますます派遣して、会えることを願った。
  • 十二月甲午の朔、上は自ら高里で禪して后土を祀り、渤海に臨んで蓬萊の類を望み祀り、殊廷に至れることを願った。
  • 春、上は戻り、柏梁臺が焼けたので、甘泉で諸侯の朝と会計報告を受けた。甘泉に諸侯の邸を作った。越人の勇之が「越の俗では、火災があると建て直す家は必ず大きくして、その大きさで打ち勝ち服させます」と言った。
  • そこで建章宮を作った。設計は千門万戸。東には鳳闕があって高さ二十余丈、西には唐中の数十里の虎の檻、北には大きな池を造り、漸臺は高さ二十余丈で太液池と名づけ、池中に蓬萊・方丈・瀛洲・壺梁を置いて海中の神山と亀魚の類にかたどった。南には玉堂・璧門・大鳥の類があり、神明臺・井幹樓を立て、高さは五十丈、輦道が互いに続いていた。

漢武帝太初三年(前102年)

  • 春正月、上は東へ海上を巡り、神仙の類を調べたがみな効験がなかった。祠官に東泰山を礼祀させた。
  • 夏四月、帰って泰山で封を修め、石閭で禪した。

漢武帝天漢三年(前98年)

  • 春三月、上は泰山に行幸して封を修め、明堂を祀り、ついでに会計報告を受け、帰りに常山を祀って黒い玉を埋めた。
  • 方士で神人を待ち祀り海に入って蓬萊を求めた者は、ついに効験がなかった。公孫卿はなお大人の足跡を口実にした。天子はますます方士の怪しく迂遠な話に飽きて倦んだが、それでも繋ぎ止めて絶たず、本物に出会えることを願った。これ以後、方士で神祠を語る者はますます多くなったが、その効果は推して知るべしである。

漢武帝征和四年(前89年)

  • 春正月、上は東萊に行幸して大海に臨み、海に浮かんで神山を見ようとした。群臣が諫めたが上は聴かなかった。ところが大風で暗くなり海水が沸き立ったので、上は十余日留まったが樓船に乗れず、そのまま帰った。
  • 三月、上は鉅定で耕し、帰りに泰山に行幸して封を修めた。庚寅、明堂で祀り、癸巳、石閭で禪した。群臣に会って上は言った。「朕は即位以来、狂い悖ったことをして天下を愁え苦しませた。悔いても追いつかない。今後、百姓を傷つけ天下を浪費させる事はすべてやめる」と。
  • 田千秋が「方士で神仙を語る者は甚だ多いのに顕著な功がありません。みな罷免して追い払うことを請います」と言った。上は「大鴻臚の言う通りだ」と言い、神人を待つ諸方士をすべて罷めた。
  • これ以後、上は群臣に対するたびに自ら嘆いた。「以前は愚かに惑わされ方士に欺かれた。天下にどうして仙人がいようか。すべて妖しく妄りな話だ。食を節し薬を服せば、いくらか病を減らせるという程度のことだ」と。
  • 夏六月、帰って甘泉に行幸した。

漢武帝後元二年(前87年)

  • 春正月、上は甘泉宮で諸侯王の朝を受けた。二月、盩厔の五柞宮に行幸した。丁卯、帝は五柞宮で崩じた。

史論(臣光曰・武帝)

  • 孝武は奢りを窮め欲を極め、刑を繁くし税を重くし、内は宮室を贅沢にし外は四夷に事を構え、神怪を信じ惑い、巡遊に節度がなく、百姓を疲弊させて盗賊を起こさせた。秦の始皇と異なるところはほとんどない。
  • それでも秦はそれで滅び漢はそれで興ったのはなぜか。孝武は先王の道を尊び、統べ守るべきところを知り、忠直の言を受け入れ、人に欺かれ蔽われることを憎み、賢を好んで倦まず、誅と賞は厳明で、晩年に過ちを改め、後事を託す人を得た。
  • これこそ、秦を滅ぼしたのと同じ失がありながら、秦を滅ぼしたのと同じ禍を免れた理由であろう。