東周列國志六国を兼併し天下を統一し、始皇と号し郡県を建てる(第百零八回 兼六國混一輿圖 號始皇建立郡縣)
楚の平定
- 王翦は六十万の大軍で楚を攻める。項燕は増援を得て天中山で対峙するが、王翦は長期にわたり出撃を控え、士卒を厚遇して英気を養い、投石・超距の遊戯で兵の力量を見極めつつ守りを固める。項燕は油断して戦備を怠る。
- 王翦は満を持して精鋭二万を先鋒に総攻撃し、楚軍を大破。項燕・景騏は敗走し、屈定は戦死。王翦は西陵・寿春を攻略し、景騏は自刎、楚王負芻は捕らえられて庶人に落とされる。
- 項燕は残兵を集めて楚王の弟・昌平君を新たな楚王として蘭陵に立て抵抗を続けるが、王翦の水陸両面からの攻撃を受け、昌平君は流れ矢で死に、項燕も自刎して蘭陵は陥落する。王翦はさらに南下し、無錫の地名の由来となる古碑の逸話(「有錫兵、天下爭。無錫寧、天下清」)を残しつつ、姑蘇・浙江・越の地まで平定する。楚は滅亡した。
燕・代・魏の滅亡
- 王翦の子王賁が燕の遼東を攻め、燕王喜を捕らえ庶人とする。続いて代を攻め、代王嘉は自殺し趙の残存勢力も滅ぶ。
- 秦王政は王賁への手書きで、続けて斉を討つよう促す。
斉の滅亡と天下統一
- 斉王建は相国后勝の言を信じて秦に媚び戦備を怠っていたため、王賁の軍が電撃的に臨淄に迫ると抗戦できず降伏する。斉王建は共城に流され、貧窮のうちに悔恨の涙を流しながら没した(「松柏の歌」として哀悼された)。
- こうして六国はすべて秦に併呑され、天下は統一される。
始皇帝の即位と諸制度
- 秦王政二十六年、王は「皇帝」の号を採用し「始皇帝」と自称、父荘襄王を太上皇と追尊する。諡法を廃し、代を数えて呼ぶ制とする。天子の自称を「朕」、臣下の呼称を「陛下」と定め、和氏の璧で伝国璽を作る。
- 五行の終始説により秦は水徳とし、黒を尚び、十月を正月とするなど諸制度を改める。「正」の音を「政」の御諱を避けて「征」に改めさせる。
- 尉繚は始皇の増長を見て「秦は天下を得たが元気は衰えた」と密かに嘆き、弟子の王敖とともに姿を消す。始皇は分封を望む声を退け、李斯の議により郡県制を採用し、天下を三十六郡に分ける。
- 天下の武器を集めて金人十二体を鋳造し、富豪二十万戸を咸陽に移住させ、離宮やのちの阿房宮を築く。功臣を封賞する一方、焚書坑儒や巡幸の濫費など圧政が始まり、二世皇帝の代には陳勝・呉広の乱を招くこととなる。
評語
- 楚の史臣の賛は、楚の始祖鬻熊から負芻に至る歴代の興亡を辿り、内紛と奸臣登用による衰退を述べる。
- 燕の史臣の賛は、召公以来の燕の歴史を辿り、噲・喜の代の失策で滅亡に至ったことを惜しむ。
- 趙の史臣の賛は、造父以来の趙氏の系譜を辿り、廉頗・李牧を用いなかったことが趙遷の虜囚を招いたと述べる。
- 斉の史臣の賛は、田氏の由来から王建の代の亡国までを辿り、后勝の讒言による誤国を哀しむ。
- 終わりに掲げられた《列国歌》は、東遷以降の春秋戦国の諸国興亡の大筋を概観する。
- 髯仙が『列国志』を読んで詠んだ詩は、周の八百年の命脈が半ば人事・半ば天運によるものであり、興亡の理はつまるところ朝廷の用人(賢者を用いるか佞臣を用いるか)にあると総括する。