東周列國志第七十五回 孫武が陣を演じ美姫を斬り、蔡昭侯が人質を納れ呉師を乞う (孫武子演陣斬美姬 蔡昭侯納質乞吳師)

要離、慶忌の情けを拒み自ら命を絶つ

  • 慶忌の遺言で助けられかけた要離だが、自らを「不仁・不義・不智」の三つの咎を負う身として恥じ、川に身を投げようとする。舟人に助けられても、自らの佩剣で足を断ち喉を突いて絶命する。 (史臣の賛や、慶忌ほどの勇者が匹夫の一撃に斃れた顛末を詠んだ詩が挟まれる。)

呉王、要離・慶忌を厚く葬る

  • 闔閭は要離の遺骸を上卿の礼で閶門の下に葬り「わが門を守らせる」と述べ、専諸と並べて廟に祀る。慶忌も公子の礼で王僚の墓の側に葬られる。
  • 宴席で伍子胥・伯嚭が楚討伐の出兵を求めるが、闔閭は将の人選に迷い、返答を翌日に持ち越す。

孫武の登用と兵法十三篇

  • 伍子胥は羅浮山に隠棲する斉出身の兵法家・孫武を推薦。闔閭は厚礼を尽くして招き、『兵法』十三篇(始計・作戦・謀攻など)を献上させ、その内容に感服する。

孫武、後宮の女官を訓練し寵姫を斬る

  • 闔閭が「婦人にも軍令が行えるか」と試すと、孫武は宮女三百人を二隊に分け、闔閭の寵姫二人を隊長に任じて演習を始める。
  • 号令に従わず笑い興じる宮女たちに対し、孫武は「約束が徹底しないのは将の罪、徹底したのに従わぬのは士の罪」として、制止する闔閭の使者を退け、寵姫二人を斬る。
  • その後は号令に寸分違わず従うようになり、孫武は「兵はもはや水火にも従う」と復命する。

寵姫の死を乗り越え、孫武を上将軍に任命

  • 闔閭は寵姫の死を悼み一時は孫武の登用を渋るが、伍子胥の「美色は得やすいが良将は得難い」との諫言で翻意し、孫武を上将軍・軍師に任じて楚討伐を委ねる。

徐・鍾吾の討伐、公子掩餘・燭庸の誅殺

  • 孫武の献策により、まず呉に恨みを持つ王僚の弟・公子掩餘(徐に亡命中)と燭庸(鍾吾に亡命中)を除く。両者は楚に逃れて舒城に匿われるが、孫武はこれを滅ぼし両公子を討つ。楚への侵攻はいったん兵を引き、疲弊策(三分の兵で交互に楚境を攪乱する策)を用いる。

呉王の愛女勝玉の死と殉葬の惨事

  • 王女勝玉は宴で食べ残しの魚を賜ったことに怒り自殺。闔閭は嘆いて厚く葬り、その造営に伴い太湖(女墳湖)ができたと伝える。葬列の見物人を隧道に誘い込み、生き埋めにして殉死させるという非道を行い、万人が死んだとされる。史臣はこれを闔閭の無道と厳しく評す。

楚昭王、名剣「湛盧」を得る

  • 楚昭王は枕元に現れた名剣「湛盧」を得る。相剣の名手・風胡子は、これがもと呉に渡っていた名剣で、無道の君主から離れて有徳の国へ移る霊剣であるとし、呉での弑逆と殉葬の悪行ゆえに楚へ渡ったのだと説く。

楚討伐の再開と唐・蔡の抑留

  • 剣を失った闔閭は激怒し、楚への出兵を強め、越にも援軍を求めるが越王允常は応じない。楚を攻めるも越討伐は不利と孫武が諫めた通り苦戦する。
  • 楚に朝貢した唐侯・蔡侯はそれぞれ愛用の名馬・裘佩を令尹囊瓦に望まれるが拒み、囊瓦の讒言で三年間抑留される。従者らの計らいでついに宝物を差し出し、ようやく帰国が許される。

蔡侯の挙兵と諸侯連合の瓦解

  • 屈辱を受けた蔡侯は晋に援軍を求め、周王も加わり十七か国連合が召陵に集結するが、晋の荀寅が賄賂を欲して蔡侯に無心し、拒まれると口実をつけて撤兵、連合は解散する。

蔡・唐、呉に援軍を求める

  • 失望した蔡侯は帰途、楚討伐に応じなかった沈国を滅ぼすが、楚は激怒し蔡を包囲。蔡は唐と共に呉に助けを求め、公子を人質に差し出す。伍子胥は「これぞ入郢の好機」と進言し、闔閭は出兵を決める。孫武・伍子胥・伯嚭を将とし、公子夫概を先鋒として六万の兵を率いて陸路楚に迫る。囊瓦は蔡の囲みを解いて漢水まで退く。

漢水を挟んでの対陣

  • 蔡侯・唐侯を伴い呉軍は漢水北岸に布陣。孫武は水陸両用を避け、舟を淮水に留めて陸路を進む戦術を用いる。楚は左司馬沈尹戍と令尹囊瓦が漢水を挟んで対峙し、沈尹戍は呉軍の退路を断つ策を献じて別動隊を率いて出発する。