東周列國志第六十一回 晋悼公が楚を破り蕭魚で会盟し、孫林父が歌を機に献公を逐う (晉悼公駕楚會蕭魚 孫林父因歌逐獻公)
偪陽陥落
- 荀偃・士匄が撤退を進言すると、智罃は激怒して二人を叱責し「七日以内に落とせねば軍令により斬首する」と厳命する。二将は死力を尽くして攻め、五日目に妘斑を討ち取って偪陽を陥した。
- 悼公は魯の三将の武勇を賞し、偪陽の地を宋の向戍に与えようとするが向戍は辞退、結局宋公に帰した。偪陽子は楚に与した罪で庶人に落とされた。
鄭をめぐる「三駕」の攻防
- 鄭で内乱が起き上卿の公子騑・公子発・公孫輒が殺されるが、公孫夏・公孫僑(子産)らが賊を討って鎮定。智罃はこの混乱に乗じる進言を「不義」として退け、鄭の講和を受け入れる(三駕の一)。
- 翌年も鄭が服さぬため晉は再び包囲し講和させる(三駕の二)。楚は秦の助力を得て鄭救援に向かうが、鄭の公孫舍之は策を用いて楚軍を宋討伐に誘導し、晉の怒りを買って晉軍を招き寄せる。
- 晉は諸国連合で三度目の鄭遠征を行う(三駕の三)。楚は疲弊して救援できず、鄭は晉と講和。悼公は「至誠をもって鄭に接する」として虎牢の守備兵まで撤収させ、鄭の献上品を功臣の魏絳・智罃に分け与える。両将は「君の徳と諸侯の労のおかげ」と固辞するが、悼公は受けさせた。これにより鄭は晉に心服し、以後離反しなかった。
呉王の兄弟継承と晉の人事
- 呉王壽夢は末子の季札の賢を見込み、兄弟継承(諸樊→餘祭→夷昧→季札の順)を遺命して没する。諸樊は父の遺志により王位に就く。
- 智罃・士魴・魏相が相次いで没し、悼公は士匄・荀偃・趙武・韓起らを昇進させ、新軍は空位のまま下軍に付属させて「人材がないのに官職を濫りに置かない」との姿勢を示した。
秦との対立と范鞅の亡命
- 楚共王が没し康王が立つ。呉が楚を攻めて敗れ、晉は秦への報復(かつて鄭救援の際に敗れた恨み)として諸侯連合軍で秦を攻める。
- 秦が涇水上流に毒を流し晉軍に死者が出るが、鄭・衛の軍が渡河を強行し諸軍も続く。下軍元帥欒黶は荀偃の指揮に反発して独断で撤退、副将魏絳もこれに従う。荀偃は「命令が不明確だった非は自分にある」として全軍を撤退させた。
- ただし欒黶の弟・欒鍼は范鞅とともに秦軍に突入し奮戦するも戦死。范鞅一人生還したのを見た欒黶は激怒し「弟を殺したのはお前だ」と范鞅を責め、舅の范匄にも迫って范鞅を追放させる。范鞅は秦に亡命し、景公に重用されて晉の人物評を語り「欒氏はやがて滅びる」と予言する。後に秦の口添えで范鞅は晉に帰国を許された。
- この年、欒黶が没し子の欒盈が下軍副将となる。
衛の献公追放
- 衛の献公は素行が悪く、上卿の孫林父・寧殖を蔑ろにして怒りを買う。師曹が献公の意を汲んで諷刺の詩を歌ったことをきっかけに孫林父は反意を固め、戚邑に拠って挙兵。
- 献公は宮兵を率いて斉へ脱出を図るが、追撃を受け危機に陥る。射の名手・公孫丁が獻公を守り、弟子の庾公差・尹公佗との師弟の情もからむ攻防の末、辛くも斉への逃亡を続ける。