東周列國志第六十回 智武子が軍を分け敵を挑発し、偪陽城で三将が力を競う (智武子分軍肆敵  偪陽城三將鬪力)

彭城の攻防と魚石討伐

  • 楚共王は鄭とともに宋を攻めて彭城を奪い、出奔していた宋の魚石ら五大夫に守らせる。
  • 宋の老佐が彭城を包囲するが、駆けつけた楚の令尹嬰齊の軍に敗死。嬰齊はさらに宋領へ攻め込み、宋は晉に救援を求める。韓厥は「文公の覇業も宋救援から始まった」と悼公に進言し、悼公は自ら出陣する。
  • 翌年、悼公は宋・魯など八国の兵で彭城を包囲。宋の向戍の呼びかけに彭城の民が呼応して開城し、韓厥・欒黶・荀偃・向戍・仲孫蔑らが魚石ら五大夫を捕らえて斬首、その一族は河東に移された。

悼公の善政と鄭への圧迫

  • 周の簡王が崩じ霊王(生まれつき髭があり「髭王」と呼ばれた)が即位。まもなく鄭の成公も没し僖公が立つ。
  • 晉は虎牢に城塞を築いて鄭を圧迫し服属させる。中軍尉の祁奚が引退にあたり、私怨のある解狐や我が子の午を後任に推挙し、「君に問われたのは適否であって私情ではない」と答えたことが諸大夫の称賛を得た。

呉楚の攻防(鳩茲の戦い)

  • 楚から晉に降っていた巫臣の子・狐庸の仲介で呉が楚を攻める動きを見せる。楚の令尹嬰齊は先制して呉を攻め鳩茲を陥すが、深追いした驍将・鄧廖の別働隊が呉の世子諸樊・公子夷昧・餘祭の伏兵に大敗して鄧廖は戦死。嬰齊本隊も敗れて撤退し、憂憤のうちに病没した。

魏絳の和戎策

  • 楚では壬夫が令尹となるが強欲で属国に賄賂を求め、陳を晉側に追いやったため共王に誅殺され、弟の公子貞(子囊)が後任となって陳を攻め再び服属させる。
  • 山戎(無終国)が晉への通好を求めた際、諸将は討伐を主張するが、司馬魏絳は「戎狄は禽獣、諸侯は兄弟。禽獣を得て兄弟を失うのは得策でない」として和睦を説き、土地との交易・辺境の安定・国力の南方専念など五つの利点を挙げる。悼公はこれを容れて魏絳を和戎の使者に立て、山戎諸国との盟約を結ばせる。贈られた土産を一切受け取らなかった魏絳の廉潔さは諸戎に深く敬服された。

鄭の内紛と「三駕」の策

  • 楚の公子貞が鄭を攻めると、鄭の公子騑(子駟)は「晉楚いずれにも与さず強い方に従う」策を献じるが、僖公はこれを退けて晉に援を求めようとした矢先、公子騑に暗殺されてしまい、弟の嘉(簡公)が立つ。
  • 晉の荀罃は「鄭を得るには先に楚を疲弊させねばならない」として、四軍を三分し交代で出兵して楚を消耗させる「以逸待労」の策(いわゆる三駕の策)を献策し、悼公はこれを用いることとする。

楊干の軍法違反と魏絳の忠義

  • 悼公の異母弟・公子楊干が軍令を無視して隊列を乱したため、司馬魏絳はその御者を斬って軍紀を正した。楊干は悼公に泣訴し、悼公は激怒して魏絳を殺そうとするが、魏絳は自ら剣を執って謝罪に赴こうとし、士魴・張老の取りなしで悼公のもとに上書が届けられる。
  • 上書を読んだ悼公は非を悟り、裸足で駆けつけて魏絳の手を取り「軍律を犯したのは寡人の教えが至らぬせいで、卿に罪はない」と赦す。楊干は韓無忌のもとで三月間礼儀を学ばされることとなった。

偪陽城の攻防

  • 宋からの急報を受け、晉は楚の南下路にあたる偪陽を攻めることとし、荀偃・士匄は「攻め落とせねば軍令に服す」と決死の覚悟で攻城にあたる。
  • 魯の将・叔梁紇(孔子の父)は落とされた懸門を素手で支えて味方を退かせ、秦堇父は城壁からの布を使った挑発に幾度も応じて武勇を示し、狄虒彌は車輪を盾代わりに単身奮戦するなど、魯の三将の勇猛ぶりが際立った。
  • しかし二十四日に及ぶ包囲のさなか長雨で水嵩が増し、荀偃・士匄は撤退を智罃に相談しようとするところで本回は終わる。