東周列國志第五十九回 晋が胥童を寵し国が大いに乱れ、屠岸賈が誅され趙氏が復興する (寵胥童晉國大亂 誅岸賈趙氏復興)
公子側の泥酔と自裁
- 楚軍元帥の公子側は大酒飲みで、共王は出陣のたびに禁酒させていた。鄢陵の戦いで共王が矢を受けて悔しがる中、公子側の小姓・穀陽は「椒湯」と偽って酒を勧め、公子側を泥酔させてしまう。
- 翌朝晉軍が出撃するとの報に共王が何度も公子側を召すが、酔い潰れて起きられない。不仲の令尹嬰齊はこの機に乗じて撤退を進言、共王は夜のうちに撤兵を決め、養繇基が泥酔した公子側を車に縛りつけて連れ帰らせる。
- 醒めた公子側は事の次第を知って号泣し、穀陽はすでに逃亡していた。共王は「敗戦の責は自分にある」と伝えて自裁を止めようとするが、令尹嬰齊は別使を送り「先代の子玉の例に照らせば、司馬たる者おめおめ楚軍に戻れるか」と暗に迫り、公子側はこれを受けて自ら首を吊った。
晉の内紛――三郤の誅殺
- 晉に凱旋した厲公は驕り高ぶり、士燮は晉の内乱を予見して病を得て死去、子の范匄が跡を継ぐ。
- 寵臣の胥童は権勢を誇る郤氏一族(郤錡・郤犨・郤至)の排除を厲公に進言し、楚から捕虜としていた公子熊茷を利用して「郤至が鄢陵の戦いで密かに楚と通じ、襄公の孫の孫周を擁立しようとしている」との偽証を厲公に信じ込ませる。
- 折しも郤至が寺人孟張を射殺する事件が起き、厲公の怒りに火が付く。胥童・夷羊五・長魚矯らが謀り、郤犨・郤錡を暗殺し、逃れようとした郤至も討ち取って三つの首級を朝門に晒す。
- 中軍元帥の欒書・上軍副将の荀偃も謀反の疑いで捕らえられかけるが、長魚矯の進言にもかかわらず厲公は両名を赦免する。長魚矯は「君がこの二人を赦せば、二人は君を赦さぬだろう」と予言し、西戎へ出奔した。
欒書・荀偃の政変と悼公の擁立
- 厲公は郤氏一族を粛清後、胥童・夷羊五・清沸魋を新たに卿に取り立てるが、欒書・荀偃はこれを恥じて出仕を控える。厲公が寵臣・匠麗氏の邸で三日も遊びふけたのを機に、荀偃は欒書に「社稷のためにやむを得ぬ手を打つ」よう説き、両者は決起を決意する。
- 伏兵によって胥童を斬殺し厲公を捕らえて幽閉、続けて士匄・韓厥を招こうとするが両名とも病と称して応じない。欒書は覚悟を決め、程滑に命じて厲公に毒酒を飲ませ弑逆した。
- 群臣は周に亡命していた襄公の曾孫・孫周を新君に迎えることに決す。孫周(悼公)は迎えの荀罃に対し「名ばかりの君主にはならぬ、従うなら従え、さもなくば他を立てよ」と毅然と告げ、群臣は畏れ入って従う。悼公は即位すると直ちに夷羊五・清沸魋らを処刑し、厲公殺害の実行犯・程滑も磔にする。欒書は恐れをなして致仕し韓厥を推挙、まもなく病死した。
趙氏の復興
- 韓厥は悼公に、屠岸賈の讒言によって滅ぼされた趙氏(趙盾の子孫)の遺孤・趙武が、忠臣の公孫杵臼・程嬰の犠牲によって生き延び、盂山に匿われていることを密かに上奏する。
- 悼公は病と称して韓厥に趙武を迎えさせ、百官の前で「功労簿に不明な一件がある」として趙武を披露し、屠岸賈の悪事を暴いて誅殺させ、その首を趙朔の墓に供えさせた。
- 趙武は司寇に任じられ旧領を回復。程嬰は「趙氏の恨みは晴らした、あとは地下で杵臼に報告するのみ」と述べて自刎し、趙武は二人を「二義塚」に合葬して三年の喪に服した。
悼公の新政
- 悼公は趙武を新軍元帥に、韓厥・荀罃・欒黶・魏絳らを要職に配し、租税を軽くし労役を減らし、困窮者を救って百姓を大いに悦ばせた。宋・魯など諸国は相次いで晉に朝貢するが、鄭の成公だけは楚王に目を射られた恩義から晉に服さなかった。
- 楚の共王は厲公弑逆の報に喜ぶが、悼公の善政により晉の覇業が復興しつつあると知って一転憂慮する。公子壬夫の献策により、楚に亡命していた宋の魚石ら五大夫を嚮導として宋を攻めることになる。
評語
- 髯仙の詩は、公子側が寵愛する小姓の酒に溺れて身を滅ぼした顛末を戒めとして詠んだもの。
- 三郤誅殺の場面に添えられた詩は、無道な君主と不良の臣が寵幸をほしいままにし、讒言によって朝堂に戦場さながらの惨事を招いたことを嘆いたもの。
- 潜淵の詠史詩は、屠岸賈がかつて趙氏を滅ぼし、十五年後に自らも趙氏によって滅ぼされた因果応報を詠んだもの。
- 二義塚に添えられた詩は、十五年もの潜伏を経て趙氏の冤を晴らした程嬰・公孫杵臼の忠義を「双義」と称え讃えたもの。