東周列國志第五十八回 魏相が秦伯を説き医者を迎え、養由基が魏錡に射芸を報いる (說秦伯魏相迎醫 報魏錡養叔獻藝)
巫者の託宣と景公の重病
悪夢に苦しむ景公を巫者が診て「趙氏の子孫の怨霊」と告げたが、屠岸賈はこれを趙氏の食客による讒言と退けさせた。巫者は景公の余命が新麦を口にする前に尽きると予言し、屠岸賈は「その通りにならなければ処刑する」と嘲った。景公の病はますます重くなり、晉の医師では手に負えなかった。
秦の名医招聘
魏錡の子魏相は秦の名医高緩を招くべきと進言し、自ら秦へ赴いて桓公を説得。秦晉間の過去の遺恨は秦側の背信によるものだと理を尽くして論じ、桓公を感服させて高緩を晉へ送らせた。
病膏肓に入る
高緩到着前、景公は夢の中で二人の子供の姿をした病魔が「肓の上、膏の下」に隠れれば名医も手が出せないと語り合う夢を見た。高緩は診察の末、まさにその通りで治療不能と告げ、故事「病入膏肓」の由来となった。
桑門の巫者の処刑と景公の死
景公は夢見のよい兆しに気をよくし、新麦の粥を勧められたが、口にする直前に腹痛を起こし厠で急死した。屠岸賈は予言が外れたと巫者を先に処刑させていたため、結果的に無実の巫者を殺したことになった。世子州蒲が即位し厲公となった。
晉楚一時講和
宋の華元は晉楚の和平を仲介しようと図り、欒書の子欒鍼を伴い楚の公子嬰齊と交渉。欒鍼の才器に感心した嬰齊は和議に応じ、晉楚は西門で盟約を結んだ。
公子側の反発と鄭の離反
楚の公子側(子反)はこの和議に不満を持ち、晉が呉と結んで楚を牽制する動きを警戒。共王を説いて鄭への出兵を実現させ、鄭は再び楚に帰属した。
晉厲公の親政と鄢陵への出兵
晉厲公は激怒して鄭討伐を決定。三郤(郤錡・郤犨・郤至)が権勢を振るい、直言した伯宗は讒言により誅殺され、その子伯州犁は楚に亡命した。厲公は側近を重用し遊興にふけったが、群臣の勧めで鄭討伐の軍を起こし、楚も鄭救援のため出兵、両軍は鄢陵で対峙した。
鄢陵の戦い前哨
楚軍が急襲的に布陣したのに対し、晉は士燮の子・士匄の献策で井戸を埋め竈を平らげて陣を張り応戦の構えを整えた。楚共王は太宰伯州犁に晉陣の動静を解説させ、晉に降った苗賁皇も楚軍の弱点(両広の兵の練度低下、将帥の不和)を厲公に献策した。
養由基と潘党の技比べ
楚軍中では、弓の名手養由基と潘党が腕を競い合った。養由基は百歩離れた柳の葉を狙い通りに射抜く妙技(百歩穿楊)を見せ、潘党の射た矢さえも自らの矢で弾き飛ばして見せた。共王はこれを聞き、驕りを戒めて以後養由基に矢を使わせなかった。
鄢陵の初戦
両軍激突し、晉の欒鍼は泥濘にはまった厲公の車を助け出し、楚の若い公子熊茷を欒書が生け捕りにした。楚左軍は動かず、下軍は互角で決着つかず、翌日の再戦を約した。
魏錡の戦死と楚共王の負傷
翌日、晉の魏錡は夢占いを口実に楚王を狙う許しを得て出撃。囚われの熊茷を囮に迫った楚共王に矢を放ち左目を射抜いた。共王は負傷しつつも脱出し、怒りのままに養由基を呼んで復讐の矢を託した。養由基は魏錡を射殺し、その屍は晉軍に回収された。
欒鍼の礼と晉楚両軍の対峙継続
欒鍼はかつて公子嬰齊と交わした「整暇」の言葉を思い出し、使者を送って敬意を示した。嬰齊もこれに応じたが、楚軍は共王負傷後も撤退せず、晉には魯・衛の援軍も接近しており、楚共王は公子側(子反)を召して今後の対応を協議しようとした。