東周列國志第五十五回 華元が寝床で子反を脅し、老人が草を結び杜回を防ぐ (華元登牀劫子反 老人結草亢杜回)
楚の対宋開戦準備
楚の公子側は、鄭を巡る晉との対立を打開するため宋を討つことを提案。公子嬰齊は、斉への聘問使を口実に宋を無許可で通過させ、無礼があれば開戦の名分にできると献策した。莊王は申無畏(改名して申舟)を使者に立てたが、申無畏はかつて宋君の従者を処刑した経緯から自らの死を予感し、子の申犀に後事を託して出発した。
申舟の処刑と楚の即時出兵
案の定、宋の華元は無許可通過を理由に申舟を捕らえ、処刑して財物を境外に棄てた。報を受けた楚荘王は激怒し、自ら宋討伐の軍を起こして急行、わずか数か月で宋境に迫った。
睢陽包囲と晉の使者解揚
楚軍は睢陽城を包囲。宋の華元は籠城を指揮し、晉に急を告げた。晉景公は伯宗の進言により、実兵は送らず「大軍来援」と偽って宋を鼓舞するため使者解揚を派遣。解揚は途中で楚軍に捕らえられ、楚に降伏を促す偽りの伝言をするよう強要されたが、楼車の上で逆に晉の援軍来襲を宋に告げ、忠義を貫いて処刑を覚悟した。莊王はその節義に感じ、解揚を釈放した。
城内の窮乏と華元の夜襲交渉
包囲は九か月に及び、睢陽城内は食糧が尽きて子を交換して食べるほどの惨状となったが、宋人は降伏しなかった。楚軍も食糧が七日分しかなく、莊王は撤兵を検討し始めた。華元は夜に城を抜け出し、楚の公子側(子反)の寝所に忍び込んで刃を突きつけ、両国の窮状を明かして和議を求めた。子反もまた実情を明かし、互いに誓約して和睦することとなった。
宋楚和議の成立
莊王は当初宋の窮状につけこもうとしたが、子反が実情を包み隠さず伝えた誠実さに免じて撤兵を決断。楚軍は三十里退き、華元は宋公と楚の間の盟約を取りまとめ、自ら人質として楚に留まった。莊王は申舟を厚く葬り、子の申犀を大夫に取り立てた。
華元と晉楚和平構想
楚に留め置かれた華元は公子嬰齊と親交を結び、晉楚二大国の争いを終わらせ天下の民を戦禍から救う構想を語り合ったが、時期尚早として実現には至らなかった。華元は六年後、宋文公の死去に伴い帰国した。
潞国討伐
晉景公は、潞国の実権を握る酆舒が晉の姫伯姬を殺害し君主にも乱暴を働いたとの密書を受け、荀林父・魏顆に潞討伐を命じた。酆舒は敗れて衛に逃げたが衛に捕らえられ晉に送られて処刑され、潞は滅ぼされて晉領となった。
魏顆と杜回・結草の恩
秦は潞の残党と結んで晉と争おうとし、力士の杜回を派遣した。杜回の武勇に晉軍は苦戦したが、魏顆は夢のお告げに従い青草坡に伏兵を置き、老人が草を結んで杜回の足を絡めた助けもあって杜回を生け捕りにし斬った。夜、魏顆の夢に老人が現れ、自分は魏顆の父の側室祖姫の亡父であり、魏顆が父の遺命を曲げて祖姫を殉死させず嫁がせた恩に報いたと告げた(結草の故事)。晉景公はこの功に対し魏顆に令狐の地を与え、鐘を鋳てその功を記録した。
郤雍の捕盗と羊舌職の予言
晉国内の飢饉で盗賊が横行する中、人相見に長けた郤雍が多くの盗賊を摘発したが、大夫羊舌職は「衆知を恃みすぎれば恨みを買い、身を滅ぼす」と警告した。