唐史演義第九十六回 河東を討ち王師敗績す/山南に走り閹党機を失う (討河東王師敗績  走山南閹黨失機)

僖宗の崩御と昭宗の即位

僖宗は病篤く、楊復恭の主導で皇弟壽王李杰(即位後は敏と改名)が皇太弟に立てられた。僖宗が崩じると壽王は即位して昭宗となり、宰相孔緯・韋昭度らが留任、張濬も新たに宰相となった。

西川の内紛(陳敬瑄と王建)

西川節度使陳敬瑄は田令孜を庇護し驕横を極めていた。利州刺史王建は東川の顧彦朗と結んで敬瑄を攻めたが決着せず、朝廷は韋昭度を西川節度使に任じ、王建には邛蜀黎雅の永平軍節度使を与えて敬瑄討伐にあたらせた。

秦宗権の滅亡と楊行密・孫儒の抗争

朱全忠は秦宗権を捕らえて朝廷に送り、これを機に大赦・改元がなされた。しかし宗権の残党孫儒は広陵を襲い秦彦・畢師鐸らを殺した。楊行密は廬州から宣州へ転じ、田頵の活躍で宣州を得たが、常州をめぐって孫儒と激しく争い、江淮一帯は荒廃した。

張濬の河東討伐と李存孝の武勇

朱全忠・李匡威らの上表を受け、昭宗は張濬を河東討伐の統帥に任じた。楊復恭は反対したが、張濬・孔緯の主張により出兵が決まる。しかし李克用の養子李存孝の奮戦により、副将孫揆は捕らえられて処刑され、汴軍・討伐軍は各地で敗北。張濬自身も晋州で敗れて逃げ帰った。

李克用の弁明と赦免

李克用は二度にわたり上表して自らの功績と冤罪を訴えた。昭宗は張濬・孔緯を罷免・左遷し、李克用に官爵を戻して事態を収拾した。朱全忠も雲州・魏博方面で勢力を広げ、羅弘信を服属させた。

王建による西川平定

韋昭度は逗留するばかりで戦功が上がらず、参謀周庠の勧めで王建は昭度を都へ帰し、単独で成都を攻略。陳敬瑄・田令孜は降伏し、王建は西川節度使となった。

楊復恭の専権と失脚

楊復恭は多くの養子を諸方鎮に配し、宦官の子弟を監軍に据えて権勢を振るった。昭宗の外戚王瓌の殺害に関与した疑いから追及され、天威都将李順節の密告もあって復恭は失脚、興元の楊守亮のもとへ逃れた。李順節自身もその後、中尉らに誅殺された。

李茂貞らの興元討伐

李茂貞・王行瑜・韓建ら五節度使は楊守亮による楊復恭の匿護を口実に興元討伐を求め、朝廷の和解の詔にも従わず自ら進撃。李茂貞は招討使に任じられて興元を落とし、楊復恭・楊守亮は閬州へ逃走した。李匡威と弟李匡籌の醜聞をめぐる内訌で幽州も混乱し、劉仁恭が台頭。淮南では楊行密が孫儒を撃破して淮南節度使となり、朱全忠は徐州の時溥を滅ぼすなど各地の抗争が続く中、李茂貞は昭宗に不遜な上表を送りつけた。

評語

李克用は功罪相半ばする人物で討伐に値しないのに討たれかけ、楊復恭は罪ありながら討たれずに済んだ。これは昭宗の不明を示すものである。張濬・孔緯の献策に押されて出兵を決めた昭宗は、一度の敗戦で調停に転じるほかなく、そのため朝廷の威信はますます失墜した。楊復恭配下の義児たちも所詮は変節漢に過ぎなかったが、それでも討伐の好機を逃したのは昭宗自身の優柔不断による。主のいない国は乱れるほかなく、唐末はまさにその状態にあったと総括される。