唐史演義第九十七回 三鎮闕を犯し輦轂震驚す/一戦功を成し邠寧戡定す (三鎮犯闕輦轂震驚 一戰成功邠寧戡定)

李茂貞の不遜と杜譲能の諫死

李茂貞は驕り、昭宗を非難する上表を送った。昭宗は激怒して討伐を命じ、宰相杜譲能に軍事を委ねた。譲能は無謀を諫めたが昭宗は聞かず、自らの意志で開戦を決意し、譲能は死を覚悟して従った。

討伐軍の敗北と杜譲能の死

覃王李嗣周を招討使とする討伐軍は李茂貞・王行瑜の連合軍に大敗し、京師近くまで攻め込まれた。崔昭緯の内通もあって朝廷の劣勢は決定的となり、李茂貞は罪を杜譲能一人に帰すよう要求。昭宗はやむなく譲能を左遷ののち賜死させ、弟の弘徽も自尽させられた。李茂貞・王行瑜は鳳翔・山南西道節度使などの官爵を得て退いた。

三帥の入朝と専横

李茂貞は入朝して兵威を誇示し、鄭綮の宰相就任と辞任、李谿の失脚などが相次いだ。楊行密・馬殷・王建らも各地で勢力を拡大。李克用の養子李存孝は讒言により幽州攻めの功を疑われ、車裂きの刑に処された。

王珂の後継争いと三帥の犯闕

護国節度使王重盈の跡目をめぐり、李克用の女婿である王珂と、王珙・王瑤兄弟が争った。朝廷が珂の留後就任を認めると、王珙は李茂貞・王行瑜・韓建の三帥を煽動。三帥は軍を率いて入朝し、韋昭度・李谿らを殺害するなど朝廷を脅かした。

李克用の勤王と王行瑜の滅亡

李克用は三帥の犯闕に怒り、勤王の兵を挙げて絳州・河中・同州を制圧した。宮中では宦官・軍人が結託して昭宗を鳳翔へ連れ去ろうと画策し混乱、昭宗は一時難を避けて石門鎮まで避難した。李克用は華州の韓建を攻めつつ昭宗を迎え、李茂貞は恐れて謝罪、王行瑜討伐に専念することとなった。李克用軍は梨園で王行瑜軍を撃破し、行瑜は逃亡先で部下に殺された。

昭宗の還京と論功

昭宗は李克用を晋王に封じ、還京を果たしたが宮闕は焼失していた。李克用は鳳翔攻略を進言したが、昭宗は李茂貞・韓建の恭順を理由にこれを制止した。

董昌の僭称と滅亡

威勝節度使董昌は「大越羅平国」を僭称して皇帝を名乗った。銭鏐は再三諫めたが聞き入れられず、ついに朝命を得て討伐に向かい、越州を陥として董昌を捕殺した。銭鏐は鎮海・鎮東両軍節度使となり、江南に確固たる地盤を築いた。

評語

李茂貞・王行瑜・韓建の三逆臣は討伐すべき対象であったが、当時の朝廷に良将・勇士はいなかった。将略のない覃王嗣周や書生に過ぎない杜譲能に軍事を委ねたのは見込み違いであり、三帥の犯闕により譲能は非業の死を遂げ、韋昭度・李谿も殺され、廃立の危機まで招いたのは昭宗自身の失策による。幸い李克用の義挙により王行瑜は滅んだが、その勢いのまま李茂貞・韓建も討たなかったのは昭宗の判断の甘さであり、以後も強藩に侮られる結果となった。董昌の乱平定は銭鏐の功であり、昭宗の関与するところではない。