唐史演義第九十五回 襄王熅、河中に竄死す/楊行密、淮甸を盗拠す (襄王熅竄死河中  楊行密盜據淮甸)

朱玫による襄王熅の擁立

朱玫と襄王李熅は鳳翔に戻り、蕭遘ら百官とともに行在に上奏し、田令孜の誅殺を求めた。朱玫は蕭遘に対し、僖宗が功臣を宦官に委ねて藩鎮を混乱させたと非難し、李氏の別の子孫を立てるよう迫った。蕭遘は皇帝に大過はないとして拒み、廃立には加担しないと突っぱねたが、朱玫は威嚇して百官を屈服させ、襄王熅を監国に立てた。冊立の文は鄭昌図が代筆し、朱玫は自ら侍中を加え、諸藩鎮に官爵を乱発した。淮南の高駢・呂用之らはこれを喜んで奉表したが、鳳翔節度使李昌符は不満を抱き、逆に行在へ朱玫討伐を上申した。

田令孜の失脚と諸鎮の挙兵

田令孜は人心を失ったことを悟り、楊復恭を左神策中尉に推挙して自らは西川監軍として陳敬瑄のもとへ逃れた。楊復恭は令孜の党を排除する一方、宰相らと還都を協議した。折しも朱玫配下の王行瑜が鳳翔を占拠し貢賦の道を塞いだため、行在は窮乏した。杜譲能の献策により、僖宗は王重栄・李克用に朱玫討伐を促す書を送り、両者はこれに応じた。

朱玫の誅殺と熅の死

王行瑜は緒戦で李茂貞に敗れたが、朱玫討伐に恩賞がかかっていると知ると寝返り、長安に戻って朱玫を斬殺し、その党百余人を殺した。鄭昌図・裴澈は襄王熅を奉じて河中へ逃れたが、王重栄に誅殺された。朝廷は熅を庶人に降して首級のみ改葬する礼を取り、李茂貞・王行瑜をそれぞれ武定・静難節度使に任じ、田令孜は官爵を奪われ流罪となった(実際には兄陳敬瑄のもとに逃れた)。

藩鎮の割拠と相争い

僖宗は還蹕の途上、鳳翔に長く留め置かれた。この間、盧龍・江西・淮西・浙東・天平・鎮海・利州などで留後の自立や下剋上が相次ぎ、朝廷は追認するほかなかった。

高駢と呂用之の専横

淮南節度使高駢は腹心の呂用之に惑わされ、偽の刺客騒動や道術・仙術の演出によって政務を顧みず、用之に実権を握られていった。用之は張守一・諸葛殷らと結び、私党を要職に置いて財貨・婦女を掠奪した。畢師鐸の愛妾に横恋慕して辱めたことから、師鐸との対立が決定的となった。

畢師鐸の反乱と広陵の陥落

師鐸は鄭漢章・張神劍らと結び、呂用之討伐の兵を挙げて広陵に迫った。高駢は事態を把握しきれず、用之の言に惑わされて対策を誤り、城は陥落。師鐸は高駢を幽閉し、呂用之の一党を粛清したが、その後も混乱は収まらず、宣州の秦彦を広陵に迎え入れることになる。

秦彦・畢師鐸の暴政と楊行密の反攻

秦彦は自ら節度使を称して広陵に入城したが、包囲してきた楊行密の軍に苦しめられ、城内は飢餓と殺戮に陥った。妖尼王奉仙の讒言により高駢とその一族は殺害された。城内の張審威が呂用之の残党を導き入れたことで内応が起こり、秦彦・畢師鐸は逃走。楊行密は入城して高駢を改葬し、遺民を救済して淮南留後を自称した。秦彦・畢師鐸は孫儒のもとへ逃げ込んだ。

孫儒の台頭と楊行密の粛清

秦宗権配下だった孫儒は河陽方面で転戦した後、秦彦・畢師鐸・秦宗衡らと結んで広陵を窺ったが、宗権が朱全忠に敗れると孫儒は宗衡を謀殺し、その首を全忠に献じた。孫儒は高郵を陥落させ残虐を極めたため、楊行密は降兵や呂用之・張守一ら旧敵を次々と粛清し、地盤を固めた。

僖宗の崩御へ

朝廷は淮南の混乱を受けて朱全忠に淮南節度使を兼ねさせ、河陽・河中などでも将佐の下剋上が続く中、僖宗はついに還京後に病に倒れ、回復の見込みが立たなくなった。

評語

史家の評によれば、襄王熅は凡庸な人物で、朱玫に傀儡として利用されたに過ぎず、玫の敗死とともに禍を受けたのは愚か者が人に利用された典型である。鄭昌図・裴澈らが偽命に甘んじて死んだのは自業自得だが、蕭遘は朱玫に抗しきれなかったことを惜しまれる。高駢は将門の出で当初は有為だったが、淮南に移って以降は方士に惑わされ、包囲の中で無策のまま身を滅ぼした。楊行密は高駢救援を名分に挙兵し義に適うようであったが、広陵陥落後に濫りに人を殺したことは背信・不仁であり、識者は行密を義士ではなく盗臣とみなす、と結ばれる。