唐史演義第九十一回 曾元裕、王仙芝を撃斬す/李克用、叛して段文楚を戮す (曾元裕擊斬王仙芝 李克用叛戮段文楚)
幼帝僖宗の擁立と権閹の専横
- 懿宗には八人の男子がいたが、嫡庶を問わぬ慣例にもかかわらず、神策軍中尉の劉行深・韓文約が幼い普王儼(十二歳)を擁立、遺詔を偽って皇太子とし、懿宗崩御後に即位させて僖宗とした。
- 韋保衡は間もなく弾劾され賀州刺史、さらに澄邁令に左遷の上、賜死。路岩も同様に長流の末自尽させられた。
劉瞻の復帰と非業の死
- 乾符改元後、関東の水旱害に対し盧携が減税・賑済を上奏したが実行されなかった。趙隠に代わり劉瞻が召還され再び宰相となり、清廉な政治を行ったが、旧怨を持つ同僚劉鄴に招かれた酒席の後に急死し、毒殺を疑われた。
- 崔彦昭が後任となり劉鄴の疑惑を弾劾、劉鄴は淮南節度使へ出された。
田令孜の専横
- 僖宗は幼く遊興にふけり、乳兄弟同然の宦官田令孜(阿父と呼ばれた)を重用、国庫を私物化し商人からの搾取や恣意的な人事を行うなど、唐室の実権は田令孜に握られていった。
王仙芝・黄巣の蜂起
- 濮州の私塩商王仙芝と冤句の黄巣が呼応して乱を起こし、山東一帯を席巻した。朝廷は宋威を招討使に任じたが、仙芝を取り逃がしたのに戦功を偽って諸軍を解散させ、乱は再燃した。
- 王鐸の斡旋で仙芝の投降交渉が進み蘄州刺史裴渥が仲介したが、仙芝一人だけに官職が与えられたため黄巣が激怒し仙芝を殴打、両者は決裂し賊軍は分裂したまま各地を荒らし続けた。
曾元裕による討伐と仙芝の敗死
- 乾符四年以降、宋州・鄂州などで攻防が続き、鄭畋は宋威の欺瞞と無能を繰り返し弾劾した。招討副都監楊複光が仙芝配下の投降を仲介したが、宋威はこれを横取りし偽りの戦功として処刑してしまった。
- 荊南・申州での敗戦を経て曾元裕が招討使となり、黄梅で仙芝軍を大破、仙芝は乱刀のもとに討たれた。残党は尚讓に率いられ黄巣のもとへ合流、黄巣は沖天大将軍を自称し勢力を拡大、南方へ転戦した。
高駢の登用と南詔和議
- 高駢は西川節度使として南詔を退け、のち鎮海節度使として黄巣に対する押さえとされた。
- 南詔との和議は辛讜(嶺南西道節度使)の建言で進められたが、朝廷内では屈辱的として反対論もあり、宰相盧携と鄭畋の対立から二人とも罷免、豆盧瑑・崔沅が代わって入相した。
大同軍の変と李克用の挙兵
- 大同軍では防禦使段文楚の圧政に対し、沙陀の李盡忠・康君立らが李克用(李国昌の子)を擁立して挙兵、段文楚を惨殺し雲州を占拠した。
- 朝廷は李国昌に討伐を命じたが、国昌は逆に子と結んで反乱に加わり、寧武・岢嵐軍を攻めた。
- 幽州の李可挙・吐谷渾の赫連鐸らが討伐に向かい、李鈞率いる官軍は大雪の中で沙陀の騎兵に急襲され、李鈞は戦死するなど官軍は苦戦した。
評語
唐がまさに滅びゆく徴は、この回に集約されている。宦官田令孜一人が招いた害は、宰相の無策や群盗の跳梁よりも大きい。年少の僖宗を正しく補佐する者がなく、令孜に游興と搾取を許したために天下は怨嗟に満ち、王仙芝・黄巣が蜂起した。朝廷は討伐か懐柔か方針が定まらず、鄭畋のような賢臣も佞幸に阻まれた。宋威は老いて功を貪り、朝廷を欺いても罰せられず、賊勢を長らく助長した。曾元裕の代になってようやく仙芝を討てたが、なお黄巣の禍根は絶たれなかった。加えて李国昌父子が代北で叛いたことで、唐の綱紀はここに地に落ちたと言える。