唐史演義第八十七回 河隴を復し辺民覲に入る/鄆夔を立て内豎権を争う (復河隴邊民入覲  立鄆夔內豎爭權)

太皇太后郭氏の不遇

  • 宣宗の生母鄭氏はかつて憲宗の側室として、正室であった太皇太后郭氏に冷遇された過去があり、宣宗は即位後も郭氏に冷淡な態度をとる。
  • 郭氏は失意のうちに突然亡くなり、服毒との噂が立つ。太常官王皞が憲宗廟への合祔を主張して宰相白敏中と対立し左遷されるが、後の懿宗代に名誉回復する。

吐蕃の内乱と河隴回復

  • 吐蕃では達磨賛普の死後、内紛(論恐熱と尚婢婢の抗争)が続き弱体化。唐はこの好機に乗じ、秦・原・安楽三州や石門など七関を含む河隴の地を回収する。
  • 沙州の張義潮が瓜州など十州の地図を献じて帰順し、帰義軍節度使に任じられる。

宣宗の治世と美政

  • 張仲武・王元逵ら諸鎮節度使の代替わりに伴う内紛は概ね平穏に収束。
  • 宣宗の倹約・孝行・皇族への厳格な統制(万寿公主・永福公主をめぐる逸話)が語られ、「小太宗」と称される所以とされる。

宣宗崩御と後継争い

  • 晩年、方士李元伯の薬により病を得て崩御(在位13年、50歳)。
  • 枢密使王帰長らが夔王滋の擁立を図るが、右軍中尉王宗実がこれを見破り、長子鄆王温(懿宗)を即位させる。首謀者3名は処刑される。

懿宗即位と南詔・裘甫の乱の予兆

  • 懿宗が即位し令狐綯を罷免、白敏中を再任。南詔の代替わりに際する唐使への無礼をきっかけに南詔が「大礼」を僭称して離反、播州を侵す。
  • 浙東で裘甫の反乱が勃発し、次回へ続く。

評語

  • 宣宗の河隴回復は一時の好機に乗じたものにすぎず、実質的な支配確立には至っていないと評す。立太子を先延ばしにした結果、崩御に際して宦官が擁立の主導権を握る事態を招いたことを批判している。