唐史演義第八十二回 強藩を嫉み杜牧罪言を作る/逆閹を除かんと李訓詭計を施す (嫉強藩杜牧作罪言 除逆閹李訓施詭計)

維州帰属をめぐる李徳裕と牛僧孺の対立

西川節度使李徳裕は、吐蕃から離反した維州の将・悉怛謀を迎え入れ、維州を要害として確保すべきだと上奏した。ところが牛僧孺は「一維州のために吐蕃との和約を破れば咸陽まで攻め込まれかねない」と反対し、気弱な文宗は牛僧孺の意見に従って維州と悉怛謀を吐蕃に返還させた。吐蕃は悉怛謀を惨殺し、徳裕は嘆息した。西川監軍王践言も朝廷の失策を惜しみ、文宗もようやく牛僧孺の判断を悔いた。牛僧孺は淮南節度使に出され、徳裕が入朝して同平章事となった。

牛李の党争と杜牧の「罪言」

徳裕の入朝で李宗閔は不安を覚え、両派の暗闘が続いた。李宗閔はまもなく山南西道節度使に左遷された。盧龍節度使楊志誠が驕慢を極め僕射兼官を要求するなど藩鎮の跋扈が続く中、殿中侍御史杜牧は「罪言」と題する論策を著し、山東(河北)藩鎮の制圧には「自治」を上策、「魏博を取ること」を中策、無計画な戦を最下策とすべきと説いた。

晩唐の文人群像

杜牧は李徳裕に才を認められ官途を進んだが、遊蕩を好み揚州で放埒な生活を送り、後に不遇のまま没した。同時代の詩才として李賀(韓愈らに神童と称された)、白居易(杭州・蘇州刺史を歴任し白堤を築き、香山九老の交遊で知られた)、劉禹錫らの生涯が略述される。

楊志誠の没落と成徳の安定

驕慢な楊志誠は帝王の儀礼を私用するに至り軍中の怒りを買って追放され、部将史元忠が留後となった。成徳節度使王庭湊は死去し、子の王元逵が恭順の意を示したため、文宗は絳王の娘・寿安公主を降嫁させて厚遇した。

王守澄・鄭注をめぐる陰謀

王守澄と結んだ鄭注が弾劾を受けると、左軍中尉韋元素らは配下の李弘楚に鄭注暗殺を謀らせたが、鄭注の巧みな弁舌に籠絡され失敗、弘楚は憤死した。王守澄は鄭注をかばって侍御史に推挙し、やがて文宗の風疾(言語障害)を治療して寵愛を得るに至った。

李訓(李仲言)の台頭と徳裕の失脚

流罪から赦免された李仲言は、鄭注の紹介で王守澄・文宗に取り入り、弁舌で信任を得た。李徳裕は文宗に「仲言の心術は改まらない」と諫めたが、宰相王涯は徳裕の意を汲まず言を左右にし、文宗は仲言を四門助教に任じた。仲言と鄭注は共に徳裕を憎み、李宗閔を再び宰相に据え、徳裕を興元、さらに浙西へと追いやった。李仲言は名を訓と改め、翰林侍講学士に取り立てられた。宰相賈餗は亡友沈伝師の夢告に不吉を感じながらも辞職せず、後に破滅する伏線となった。

王守澄誅殺と権力集中

京師に「鄭注が小児の心肝で丹薬を作っている」との流言が広まり、鄭注はこれを仇敵の楊虞卿に着せようとして誣告、虞卿は投獄された。李宗閔・楊虞卿もやがて左遷された。李訓は御史李固言を宰相に推し、鄭注も翰林侍読学士となり、二人は宦官排除・河湟回復・河北平定を文宗に説いて寵任を得た。かつて憲宗を弑した疑いのある陳弘志を誘殺し、さらに王守澄を左右神策軍観容使として実権を奪ったうえで毒酒を賜って自尽させ、表向きは病死として発表した。梁守謙・楊承和ら元和期の宦官一派もほぼ一掃された。文宗は李訓を同平章事に抜擢。鄭注も宰相を望んだが、李訓は疎ましく思い、鄭注を鳳翔節度使として外に出した。李訓はさらに舒元輿を宰相に、王涯に榷茶使を兼任させ、裴度・令狐楚・鄭覃らを名誉職で懐柔し、昭義節度使劉従諫とも結んで宦官一掃と権力独占を狙った。

小子は詩を作って歎じた――天道は謙をよろこび盈を悪む、人を傾ける者はやがて自ら傾く。半年の宰相の驕慢は、専権を欲するがゆえに事は成らないだろう、と。

評語

杜牧は「自治」を上策と説いたが、自身は酒色に溺れて身を修められず、国家の自治を語る資格があったかは疑わしい。李訓・鄭注は流人・方士の身から急速に権勢を握り、積年の宦官の巨魁を除いた功はあるが、異己を排斥し尽くす暴虐ぶりは、識者に早くもその末路を予感させるものであった。杜牧が志を得られなかったことは、むしろ幸いだったとも言えよう。