唐史演義第七十七回 叛逆を平げ驕りに因り禍を致す/盤遊を好み諫を拒み非を飾る (平叛逆因驕致禍  好盤游拒諫飾非)

劉悟と師道の妻妾

劉悟は魏氏らを憐れんで誅さず、妻李氏に慰めさせた。劉悟はもと平盧節度使劉正臣の孫で、李師古からは「必ず貴くなるが我が家を滅ぼすかもしれない」と評されていた人物。魏氏や侍女の蒲氏・袁氏らとの間に情を通じ、朝廷の「師道を殺した者には師道の官爵を与える」との約束を頼みに、鄆州の政務をそのまま自分のものとして采配し始めた。

田弘正の警戒と劉悟の左遷

田弘正は師道の首級の真偽を確認させたのち、憲宗に淄青十二州を三道に分割することを進言、これにより河南北三十余州は唐廷の統制下に入った。憲宗は劉悟の専横を警戒し、田弘正に内偵させたうえで義成節度使へ転任させ、田弘正の軍で鄆城の引き渡しを迫った。劉悟は動揺しつつも従わざるを得ず、田弘正が入城処理にあたった。師道の家族は劉悟の取り成しもあり比較的軽い処分となった。

淄青平定後の人事

田弘正は検校司徒・同平章事に加え旧鎮へ復帰、淄青の旧領は薛平・王遂・馬総らに分割統治させたが、王遂は苛烈な統治で兵に殺害され、後任の曹華が乱を鎮めた。裴度は中官の専横を憲宗に諫言し皇甫鎛らと対立、河東節度使に転出させられる。

憲宗の奢侈と諫言

憲宗は両河平定に驕り、皇甫鎛らの追従で尊号を受け、諸方から過剰な貢納が集まった。李渤は民の困窮を訴えて憲宗に疎まれる前に自ら辞職した。台州刺史柳泌は不老の薬を求める任務を果たせず逃亡するが、皇甫鎛らの庇護で罪を免れ、憲宗に丹薬を進めて服用させた。裴璘の諫言も聞き入れられなかった。崔群は皇甫鎛に排斥され、令狐楚は狄兼謨の推薦文を利用して武儒衡を暗に中傷した。

憲宗の死

宦官の派閥抗争(吐突承璀 対 王守澄・陳弘志ら)が激化する中、憲宗は丹薬の副作用で心身が荒れ、後継をめぐる暗闘も生じた。元和十五年正月、憲宗が急死(丹薬中毒とされる)すると、王守澄・陳弘志らが寝室を制圧し、太子恒(穆宗)の即位を強行した。吐突承璀と澧王惲は密かに殺害された。

穆宗の即位と粛清

穆宗は即位後、皇甫鎛を崖州へ流罪とし柳泌らを処刑したが、真の弑逆者である宦官たちはかえって恩賞を受けた。生母郭氏を皇太后に立て、外戚も栄達した。穆宗は遊興を好み、即位早々に雑戯や角觝を観覧、諫言も表面上は受け入れる姿勢を見せつつ改めなかった。柳公権の機知に富む諫言(「筆は心にあり、心正しければ筆自ずから正し」)にも一時感じ入るのみで実行は伴わなかった。元稹が崔潭峻の推挙で知制誥に取り立てられるが、武儒衡に宦官との結託を当てこすられる場面もあった。

憲宗崩御と穆宗の遊楽

六月、憲宗は景陵に葬られた(在位十四年、四十二歳)。史書は「暴崩」と記すのみで弑逆とは明言しないが、実態は宦官による弑逆であった。穆宗は喪中にもかかわらず遊興を重ね、重陽の宴も諫言を退けて挙行、諫議大夫らの諫言にはその場限りの返答をするだけで改めなかった。仲冬に華清宮への行幸を強行し、諫官らの再三の諫止も及ばなかった(詩:新帝が政務そっちのけで遊興にふける様を嘆く趣旨)。

続きの外事は次回に語られる。

評語

「外が安定すれば必ず内に憂いが生じる」という古人の言葉どおり、外征に成功した君主はしばしば驕慢に陥り、佞臣が集まって禍乱を招く。憲宗も方士を信じ宦官に頼り貢納を喜んだ末に非業の死を遂げた。史書は「暴崩」とのみ記すが、実質は弑逆であり、本作もそれを暗に示す。穆宗は宦官に擁立された身でありながら父の仇を討たず、遊興にふけり、乱臣賊子にすら褒賞を与えた。父君に対する不忠不孝は明らかであり、直接書かずとも読み手には自ずと伝わるものである。