唐史演義第五十五回 城と倶に亡び双忠義に死す/賊に従い節を堕とし六等刑を定む (與城俱亡雙忠死義 從賊墮節六等定刑)
睢陽の陥落と張鎬の処断
河南節度使張鎬は睢陽救援に向かったが、譙郡太守閭邱曉らが命令に従わず出兵しなかったため間に合わず、張巡・許遠は殉節し睢陽は陥落した。鎬は到着後、閭邱曉を軍中で叱責し杖殺した。
張巡・許遠の睢陽防衛戦
張巡は南陽出身の県令で、安禄山の乱に際し挙兵。雍丘で令狐潮の大軍を寡兵で撃退し、草人形で矢を集める計や決死隊の奇襲など知略を尽くして賊を破った。その後、睢陽太守許遠と合流し、義兄弟の交わりを結んで共に守りを固める。尹子奇の猛攻を受けるも、南霽雲が矢で子奇の左目を射抜くなど連戦連勝したが、河南節度使嗣虢王巨が睢陽の蓄えた兵糧を勝手に持ち去ったため、城内は次第に窮乏していく。
南霽雲の乞師と忠義
食糧が尽きた睢陽から、南霽雲が包囲を突破して近隣に援軍を求めるが、譙郡の許叔冀や彭城の尚衡は応じず、臨淮の賀蘭進明も出兵を渋る。霽雲は宴席で自らの指を噛み切って忠義を示すが、進明は動かなかった。霽雲は寧陵から決死の突囲で睢陽に戻り、援軍不在を張巡に告げる。
睢陽の落城と雙忠の最期
城内は糧尽き、馬・雀鼠・鎧の皮まで食い尽くす惨状となる。張巡の妾霍氏は自ら命を絶って将士に供され、許遠も奴僕を差し出して飢えを凌がせた。最終的に城は陥落し、張巡・南霽雲・雷萬春・姚誾ら三十六人は屈せず処刑され、許遠も洛陽経由で偃師に送られ殺された。二人は「雙忠」と称えられ廟に祀られた。
肅宗の西京帰還と論功行賞
肅宗は西京に戻り、賊に降った旧官吏を処罰する一方、節を守った甄済・蘇源明らを登用。回紇太子葉護は再来援を約して帰国し、郭子儀は代国公に封じられる。張鎬らが河南・河東を平定し、尹子奇も陳留で討たれた。
上皇の帰京と父子の対面
玄宗(上皇)は咸陽から長安に戻り、肅宗と感動的に対面。上皇は伝国璽を肅宗に授け、大赦が行われた。郭子儀・李光弼らの功臣に恩賞が与えられ、張巡・許遠ら殉節の臣にも追贈がなされた。
張均・張垍の処遇と玄宗の閨閥秘話
賊に降った張説の子・張均と張垍の処遇が議論となる。張巡の遺児が許遠を弾劾する動きもあったが、尚書省の弁明で両者の忠烈が認められた。崔器・李峴らが従賊の官吏を六等に分けて処罰する基準を定め、張均は死刑、張垍は上皇の温情で流刑にとどまった。肅宗が張垍を助命しようとした背景には、かつて張説が肅宗の母(楊良媛)の堕胎薬を故意に安胎薬にすり替えて肅宗の誕生を守った恩義があった。肅宗の生母は後に元献皇后として追封される。
賊将の投降と次回予告
賞罰が定まった後、史思明・高秀岩らが投降を申し出てきたが、その真偽は次回に持ち越される。
評語
張巡・許遠は唐室随一の忠臣として詳しく叙述するに値し、南霽雲・雷萬春らも忠義の士として名を残した。張均・張垍は逆賊に与し死に値する罪を犯しており、玄宗が減刑を許さなかったのは正しい判断である。一方、肅宗が張説への私恩ゆえに均・垍の助命を図ったのは公を私に代えるもので、褒められない。信賞必罰こそ功業を為す基であり、為政者の戒めとすべきである。