唐史演義第五十二回 唐粛宗、霊武に尊を称す/雷海青、洛陽に節に殉ず (唐肅宗稱尊靈武 雷海青殉節洛陽)
楊貴妃の最期
高力士に自尽を告げられた楊貴妃は玄宗に別れを述べ、仏堂で梨の木に絹布をかけて自ら縊死した。享年三十八。玄宗は亡骸を紫の褥に包んで馬嵬坡に葬った。楊国忠の妻や虢国夫人母子も逃亡先で捕らえられ処刑された。
蜀への道と太子の分離
玄宗一行が馬嵬を発とうとすると、将士は蜀への行軍を拒み、また道々の民衆も皇太子に留まって賊を討つよう懇願した。建寧王李倓や李輔国らの進言で、太子は玄宗と別れて朔方方面へ向かうことを決意。玄宗も「人心のあるところ天意あり」と述べて太子に兵二千を分け与えた。
太子、霊武で即位
太子は彭原・平涼を経て朔方の霊武へ入り、裴冕・杜鴻漸らの勧進を受けて即位。肅宗と称し、玄宗を上皇に奉じ、至德元年と改元した。
蜀の玄宗と李泌の登用
一方、蜀に入った玄宗は房琯を宰相に加え、討賊の詔を発して太子(肅宗)を天下兵馬元帥に任じた。永王李璘は江陵で兵を集め独自の動きを見せ始める。肅宗は旧知の李泌を招き、宰相を固辞する李泌を客礼で厚遇し、腹心として重用した。
河北の攻防と長安陥落後の惨劇
郭子儀・李光弼らが潼関失陥後もなお各地で抗戦する一方、長安は賊将孫孝哲に占領され、皇族・百官の家族が捕らえられた。安禄山は楊貴妃らがすでに死んだと知って激怒し、慶宗(自らの子で誅殺された)の弔いと称し、捕らえた皇族・妃主らを惨殺させた。
洛陽の宴と雷海青の殉節
玄宗父子が難を逃れ得たのは、安禄山が洛陽で酒色に耽り西進をためらったためであった。安禄山は凝碧池で百官・楽人を集め大宴を催すが、楽人の中の一人(雷海青)が涙を流して禄山を面罵し、琵琶を投げつけて激しく糾弾した。禄山は激怒してその場で彼を惨殺させた。
評語
肅宗が父の正式な命を待たずに即位したことは、後世の儒者から「父を退けた」と厳しく批判される所以である。玄宗自身、馬嵬で譲位を仄めかしてはいたが正式な詔ではなく、蜀との往来を待てば十分間に合ったはずで、肅宗の即位はやや性急に過ぎたと言える。一方、雷海青は一介の楽人でありながら国難に殉じた忠義は際立っており、正史の忠義伝に漏れたことを惜しみ、本作で顕彰する。