唐史演義第五十一回 潼関を失い哥舒翰師を喪う/馬嵬に駐まり楊貴妃命を隕とす (失潼關哥舒翰喪師 駐馬嵬楊貴妃隕命)
封常清・高仙芝の処刑
貴妃の哀願で玄宗の親征は取りやめになった。監軍の宦官辺令誠は潼関から戻り、封常清が敵勢を誇張して軍心を揺るがし、高仙芝が陝の地を捨てて退いたうえ兵糧を横領したと讒言した。玄宗は激怒し、令誠に勅を持たせて両将を潼関で斬らせた。実際には令誠への私怨による讒言が多分に混じっており、二人は無実を訴えながらも処刑され、将兵は口には出せぬまま憤りを抱いた。
哥舒翰の潼関防衛と内紛
病身の哥舒翰が副元帥として二十万の兵を率い潼関に入るが、実務を部下に委ね、統率が乱れて軍の士気は緩んでいた。一方、安禄山は東京で「大燕皇帝」を僭称。顔真卿・顔杲卿兄弟が河北諸郡で義兵を挙げ賊将高邈らを捕らえるなど一時抵抗が広がったが、常山は史思明に攻め落とされ、顔杲卿は捕らえられて壮絶に罵倒しつつ処刑された。
郭子儀・李光弼の反撃
朔方節度使郭子儀は李光弼を推薦して河東節度使とし、常山を奪還。史思明の反攻を九門・嘉山で撃破し、河北の失地を次々回復した。一方、安禄山配下の内部でも動揺が広がったが、部将田乾真の説得で持ち直し、崔乾祐らに潼関攻めを続けさせた。
楊国忠の讒言と哥舒翰の出撃強要
哥舒翰は持久策を主張したが、彼と不仲だった楊国忠は玄宗に「翰が出撃を渋っている」と讒言し続け、玄宗もついに出兵を促した。郭子儀・李光弼も慎重策を上奏したが容れられず、哥舒翰はやむなく出撃。霊宝西原で崔乾祐の伏兵と火計に遭い、潼関軍は壊滅。哥舒翰自身も部下の裏切りで捕らえられ安禄山に投降したが、後に処刑された。
玄宗の西幸決定
潼関陥落の報に朝廷は動揺し、楊国忠は「幸蜀」を進言。夜、韓国・虢国夫人を通じて貴妃にも説得させ、玄宗はついに蜀への避難を決意した。翌朝、玄宗は密かに貴妃・皇族・楊国忠・韋見素・陳玄禮・高力士らを連れて長安を脱出した。
都落ちの道中
道中、玄宗は国庫や橋を焼こうとする国忠を制し、民のためにと焼却をやめさせた。咸陽望賢宮では食料の手配もできず、農民の粗食を民から買い上げて皇族が飢えをしのぐ有様となった。老人郭従謹が禄山の禍根と朝廷の失政を諫言し、玄宗は自らの不明を悔いた。
馬嵬の変
馬嵬駅に至り、王思禮の進言を受けた陳玄礼配下の禁軍が、楊国忠とその子、韓国夫人を殺害。さらに軍は「国忠が誅されても貴妃が側にいては安心できぬ」と迫り、高力士の取りなしにより玄宗はついに貴妃に自尽を命じた。
評語
哥舒翰は潼関を守り持久すべしとの見識自体は正しかったが、楊国忠の讒言により出撃を強いられ大敗を招いた。潼関失陥後、国忠は都を棄てて蜀へ逃げることのみを図り、自らの私怨と一族の安泰を優先した結果、馬嵬で誅殺される因ともなった。楊貴妃の驕奢もまた乱の一因であり、著者はこれらを歴史の戒めとして詳しく記したとする。