唐史演義勤政楼、童子箴を陳ぶ/范陽鎮、逆胡乱を構う(第五 十回 勤政樓童子陳箴 范陽鎮逆胡構亂)
楊国忠の凶夢
楊貴妃の寵愛はいよいよ深まり、韓国・虢国・秦国の三夫人も並んで恩賜を受けた。楊貴妃は玄宗から贈られた隋代伝来の螺鈿屏風(美人像入り)を兄の楊国忠に譲った。ある日国忠が屏風の前でまどろむと、絵の中の美女たちが次々に降りて名乗り、最後に一人が国忠を「じきに命が尽きる者」と嘲る夢を見て、震え上がって屏風を封印させた。
華清宮の歓楽と合歓柑
楊国忠は司空に昇進し、一族の子弟は次々と皇族と縁を結び、楊氏一門は空前の栄華を極めた。ある年の秋、蓬萊宮の柑橘に実が二つ合わさったものができ、玄宗はこれを「禎祥」だとして自ら割り、半分を貴妃に与えた。勤政楼では大宴が催され、百戯が披露された。
神童劉晏と楽人たちの妙技
宴では軽業や音楽が披露され、十歳の神童劉晏が即興の詩を詠んで玄宗・貴妃に称賛された。玄宗は「正字」という役職にかけて機知に富んだ問答をした劉晏を可愛がり、褒美を与えた。笛の名手李謩や、李亀年・張野狐・雷海青ら楽人たちも腕を競い、貴妃も磬を打って興じた。
白鸚鵡「雪衣女」の死
安禄山から献上された白鸚鵡は貴妃に可愛がられ「雪衣女」と呼ばれ、貴妃が教えた経文を諳んじるほど賢かった。ある日、悪夢を見たと訴えたのち、実際に鷹に襲われて死んでしまい、貴妃は深く悲しんだ。以後、貴妃が涙で頬を赤らめる様を真似て、宮女たちは「涙粧」という化粧を流行らせた。
安禄山、反乱を決意
天宝十四載、安禄山は名馬三千匹の献上を口実に多数の蕃将を都へ送り込もうとしたが、河南尹の密告で玄宗が警戒し、勅使を送って延期させた。安禄山は勅使に横柄な態度をとり、以後は入朝を拒んだ。楊国忠がかねて安禄山の腹心を粛清し追い詰めていたこともあり、安禄山はついに「楊国忠討伐」を名目に十五万の兵を発して南下を始めた。
反乱の急報と宮中の反応
玄宗は華清宮で禄山の来訪に備えていたところへ反乱の急報が届く。楊国忠は河北諸郡が次々と降ったことを述べて反乱を主張したが、玄宗はなお半信半疑で、貴妃も「禄山が謀反するはずがない」と取りなした(貴妃は密かに禄山と誼を通じていた)。翌日、太原からの正式な報と、輔璆琳から押収した内応の密書により玄宗もようやく反乱を確信し、討伐を命じた。楊国忠は自信満々に「十日で片付く」と豪語した。
各地の陥落と封常清の敗走
安西節度使封常清は東京で急募した六万の兵で防ごうとしたが訓練不足で総崩れとなり、次々に敗走。河南尹達奚珣は降伏し、留守の李憕・御史中丞盧奕らは捕らえられ処刑された。封常清は高仙芝と合流し潼関に退いて守りを固めた。安禄山配下の将は東へも兵を進めたが、呉王祗らの抵抗で山東方面はいったん平静を保った。
太子監国をめぐる楊氏の画策
玄宗は自ら親征し太子に監国させると発表したが、太子の監国を恐れた楊国忠は韓国・虢国夫人を通じて楊貴妃に泣訴させ、親征を思いとどまらせた。
評語
前半は玄宗の享楽と楊氏の驕奢を描き、それが禍乱の萌芽となったことを示す。神童劉晏の「朋(=党派)の字が正されていない」との諷諫を玄宗は褒めながらも顧みず、楊氏の結党を放置した。楊国忠と安禄山はともに小人でありながら互いに反目し、国忠が禄山を追い詰めたことが挙兵を早めた。両京の危機に際し玄宗はいったん親征を決意する気概を見せたが、国忠と貴妃の画策で沙汰止みとなり、一婦人の言に左右される様は、唐室の危うさを象徴している。