唐史演義美人を贈り張説厚報を得る/強虜を破り王晙奇功を立つ(043 第四十二回 贈美人張說得厚報 破強虜王晙立奇功)
太平党の粛清と論功
- 玄宗は太平公主の子らの多くを賜死し、その財産・慧範の私財を没収した。李晋(連座)や薛稷らも処罰され、盧藏用は流刑に処された。
- 陸象先は諫言を評価されたが後に弾劾を受け益州長史に左遷。張説・劉幽求を呼び戻し、高力士を右監門将軍に進めた。これが後の宦官台頭の一因となったと記す。
姚崇の登用と十事の献策
- 驪山での大閲兵で郭元振が咎を受けたが劉幽求・張説の弁護で死を免れた。薛訥・解琬の軍紀は乱れず、玄宗の称賛を得た。
- 玄宗は同州に左遷されていた姚元之(姚崇)を狩猟の場に召し、治道を語らせて感服し、宰相に任じようとした。姚崇は先に十の条件(仁恕を先とする・辺功を求めない・法を近臣にも及ぼす・宦官を政に関わらせない・貢献を絶つ・外戚を要職に就けない・臣下を礼遇する・直諫を許す・仏道の造営を絶つ・外戚の政治介入を禁ずる)を提示し、玄宗が全て容れると答えたのでようやく拝命した。
- 姚崇は紫微令(元の中書令)となり、朝政を一新した。
張説の失脚と美人の贈答
- 姚崇は張説が岐王範と親しくすることを利用し、玄宗に「岐王が張説に惑わされれば後患となる」と巧みに示唆して張説を追い落とそうとした。
- 折しも張説の愛妾・寧懐棠(醒花)が食客の賈全虚と密通して駆け落ちする一件が起き、捕らえられた全虚は張説を弁舌で説き伏せ、張説は醒花を全虚に譲った。恩義に感じた全虚は、内廷で得た情報から姚崇の弾劾の動きを張説に伝え、張説は賄賂を託して事を収めさせ、処罰は相州長史への左遷にとどまった。
その後の人事と諸王の交誼
- 劉幽求・鐘紹京は讒言を受けたが姚崇の弁護で軽い処分となり、王琚も左遷。韋安石・韋嗣立ら阿附の臣も黜けられた。重茂(旧少帝)は開元二年に没し殤帝と諡された。
- 玄宗は姚崇を重用して僧尼を淘汰し宮人を放ち、宋王ら兄弟と興慶宮で親しく交わり、「花萼相輝」「勤政務本」の楼額を掲げて兄弟の情を示した。玄宗自ら頌を作り、兄弟に薬を分かつ書簡を送るなど友愛を強調した。
北辺・西辺の攻防
- 営州陥落後、幽州都督孫佺が奚契丹討伐に失敗して全滅、突厥默啜可汗に俘虜が渡され殺された。默啜は婚姻を求めたが唐は応じず、北庭都護郭虔瓘が默啜の子同俄を討ち取るなど戦果を挙げた。
- 薛訥は契丹討伐で伏兵に遭い大敗し、崔宣道らが処刑され自身も官爵を奪われたが、後に吐蕃討伐で挽回。王晙は寡兵で虜営を夜襲する奇計を用い、坌達延の吐蕃軍を大破し、薛訥と挟撃してさらに大勝、洮水の戦いで多数の首級と家畜を得た。
- 吐蕃の金城公主降嫁の経緯や河西九曲地の割譲が後の吐蕃侵攻の温床となったことも述べられる。玄宗は幽州節度経略大使を設置し、これが「節度使」の名の始まりとなった。
評語
姚崇・宋璟は房玄齢・杜如晦に次ぐ賢相と称されるが、姚崇は才識に優れる一方で度量に欠け、張説を陥れようとした点を指摘する。ただし張説が賈全虚に美人を譲った恩義がめぐって己を救ったのは因果応報というべきで、張説にとっても唐にとっても幸いであったとする。また玄宗の兄弟への友愛を「花萼相輝」の故事とともに称える一方、吐蕃の不信と王晙の功績を対比し、外敵より身内を仇のように扱う風潮への戒めとする。