唐史演義星変に応じ睿宗位を禅る/逆謀を泄らし公主身を殺さる(042 第四十一回 應星變睿宗禪位  泄逆謀公主殺身)

蒲州安置への恨みと太子の弁明

  • 太平公主は蒲州安置の勅を受けて憤慨し、太子隆基を呼びつけ、恩を仇で返したと詰った。太子は姚崇・宋璟の奏請によるものと弁明し、両者を弾劾する上表を出したが、睿宗は姚元之・宋璟を左遷したものの太平公主の蒲州行きは変えなかった。
  • 太平公主は不服のまま夫の武攸暨と共に蒲州へ赴いた。

睿宗の禅譲の意思と太平公主の復帰

  • 睿宗は群臣を前に譲位の意を語ったが、太平公主の私党である和逢堯が諫めたため、睿宗はいったん留保。まもなく太子に政務を委ね、さらに太平公主を京師に呼び戻した。

太平公主の党派形成

  • 夫の武攸暨没後、太平公主は年を経てもなお情欲盛んで、崔湜を密かに寵愛し、竇懐貞(旧名従一)も引き入れて私党とした。両名とも太平の推薦で要職に就いた。
  • 奸僧慧範や岑羲・蕭至忠・薛稷らも公主の爪牙として復権し、公主の勢威は大いに盛んになった。竇懐貞は玉真・金仙二観の造営で睿宗の信を得て侍中に至った。
  • 崔湜も太平の口添えで中書侍郎に登用され、陸象先も推挙された。蕭至忠は太平に阿附する自身を妹婿の蒋欽緒に諫められたが改めなかった。

彗星と禅位の決断

  • 彗星出現を口実に、太平公主は術士を使って睿宗に「帝座に変あり、太子に位を譲るべし」と説かせ、睿宗を刺激して東宮への疑念を生ませようとした。ところが睿宗はこれを真に受けて本当に譲位を決意してしまい、公主は慌てて阻止を図ったが効なく、太子も再三固辞したが許されなかった。
  • 睿宗は太上皇となり、太子隆基が即位(玄宗)、先天と改元。三品以上の除授や重要政事は上皇に奏聞するとした。王氏を皇后に立てた。

玄宗と王琚

  • 玄宗は王琚を重用した。王琚は太平公主の専横と朝廷の危うさを説き、玄宗に「大孝とは宗廟社稷を安んずることにある」と迫り、張説・劉幽求・郭元振らとの連携を勧めた。
  • 劉幽求は張暐を通じて玄宗に太平一党討伐を進言したが、事が漏れて竇懐貞・崔湜側に伝わり、太平公主が睿宗に訴えたため、劉幽求・張暐は罪を得て流罪となった(幽求は桂州都督王晙に匿われ難を逃れた)。

太平公主の専横と暗殺の企て

  • 開元元年、元宵の灯市が盛大に行われる中、太平公主邸の奢侈は皇室を凌ぐほどであった。厳挺之・楊相如の諫めで灯市は止められたが浪費は甚大であった。
  • 太平公主は宮人の元氏を使い、玄宗が服用する赤箭粉に毒を仕込ませようとした。王琚・崔日用がそれぞれ玄宗に急いで太平一党を除くよう進言し、崔日用は「まず北軍を固め、後に逆党を収める」策を献じた。

太平公主誅滅

  • 太平公主は崔湜の献策により、常元楷・李慈の羽林兵で武徳殿に迫り上皇を退位させ、竇懐貞・蕭至忠らの南牙兵で応援するという計画を七月四日に定めた。陸象先は独り反対し、太平の実子・薛崇簡も涙ながらに諫めたが、公主に杖で打たれた。
  • 魏知古がこの陰謀を探知して玄宗に急報。玄宗は七月三日、王毛仲に兵を率いさせて常元楷・李慈を先に斬り、続いて蕭至忠・岑羲・賈膺福ら文臣も処刑、竇懐貞は自ら溝に投じて縊死し戮屍とされた。
  • 上皇睿宗は事情を知り嘆息して宮に戻り、以後の軍国政刑を全て皇帝に委ねると誥を下した。太平公主は南山寺に潜んでいたが捕らえられ、自尽を命じられ、僧慧範らも誅殺された。

評語

女子や小人に功名を立てさせてはならぬとの主旨を、太平公主の顛末を通じて再論する。天子の妹として才も功もあったがゆえに驕り、廃立を陰謀した末に身を滅ぼした。蕭至忠・竇懐貞ら取り巻きの見識は太平にも及ばず、富貴を得てまもなく命を落とした。俚諺を借りて「あまりに割に合わぬことをしたものだ」と皮肉る。