唐史演義默啜可汗、婚を悔い入寇す/狄梁公、職を尽くし天に帰す(0036 第三十五回 默啜汗悔婚入寇 狄梁公盡職歸天)
廬陵王の帰還と武承嗣の失意
- 武氏(則天)は二張(張易之・張昌宗)の勧めで廬陵王李哲を東都に呼び戻し、宮中にひそかに置いた。
- 狄仁杰が廬陵王の所在を尋ねると、武氏は幄の陰から本人を出して見せ、仁杰はようやく安堵して拝礼した。
- 廬陵王は正式に迎え入れられ、内外は喜んだ。次の帝位継承を狙っていた武承嗣はこの結果に失望し、病を得た。
武延秀の突厥への婚姻と默啜の翻意
- 武承嗣の次子延秀は、武氏の命で突厥可汗默啜の娘との婚姻のため突厥へ赴くことになり、閻知微・楊齊莊が金帛を携えて随行した。
- 鳳閣舍人張柬之は「中国の親王が夷狄の女を娶った前例はない」と諫めたが聞き入れられず、逆に地方官に左遷された。
- 默啜は延秀が武氏の一族であることを知ると激怒し、「わが娘は李氏に嫁がせるべきもの、なぜ武氏の子か。李氏の血筋がまだ二人生き残っているなら、それを助けて立てる」と婚約を拒否した。閻知微を脅して南面可汗の位を約束し懐柔する一方、延秀を拘束して帰さず、武氏の五つの罪状を並べた抗議の書を突きつけ、河北への南下・唐室復興を掲げて挙兵する構えを見せた。
突厥の侵攻と趙州の悲劇
- 武氏は激怒し、武重規・沙吒忠義・張仁亶らを大総管に任じ三十万の兵を突厥討伐に派遣、閻敬容・李多祚を後援に充てた。
- 默啜は自ら十万騎を率いて南下し、媯・檀等州を包囲、定州を陥として刺史孫彦高ら数千人を殺害、さらに趙州へ迫った。
- 趙州刺史高叡とその妻秦氏は吏民・家奴を集めて防戦したが、長史唐波若の内通で城は陥落。夫婦は毒を仰いで自害を図り、默啜の懐柔(降れば官位を与える)を拒み、最期まで節を守って殺された。のちに朝廷は諡「節」を賜り、高叡を冬官尚書に追贈した。
廬陵王の皇太子復位と狄仁杰の北征
- 相州にも侵攻が及ぶ中、武氏は默啜の首に懸賞をかけ、沙吒忠義・李多祚を相州救援に向かわせた。
- 同時に廬陵王を皇太子に復し、名を顕と改めさせて武姓を賜い、河北道元帥に任命。弟の豫王旦は相王に改封された。
- 太子が募兵を呼びかけると応募者が急増したが、武氏は太子の親征を許さず、狄仁杰を副元帥として代行させた。
- 仁杰が趙州に着いた頃には、默啜はすでに趙・定二州で捕らえた男女八九万人を生き埋めにし、財宝を奪って北へ引き上げた後で、追撃も及ばなかった。
河北の戦後処理と閻知微の末路
- 仁杰は河北道安撫大使として、突厥に連行された民を故郷へ帰し、食糧を施し、駅路を復旧するなど民生を立て直した。
- 突厥から送り返された閻知微は、武氏の命で天津橋にて処刑され、三族も滅ぼされた。
- 各道の兵は召還され、仁杰も内史に復した。
吐蕃の内紛と投降
- 吐蕃では長らく権勢を振るった大論欽陵が、贊普器弩悉弄によって粛清され、欽陵は兵を挙げて抗ったが敗れて自殺した。
- 欽陵の弟贊婆と子弓仁は唐に投降。武氏はこれを喜び、贊婆を輔国大将軍・帰徳郡王、弓仁を左羽林大将軍・安国公に任じ、河源谷の守備を委ねた。贊婆は程なく病没し、安西大都護を追贈された。
- 続いて隴右方面では、魏元忠・唐休璟らが吐蕃の麴莽布支を洪源谷で撃破し、大勝した。
契丹降将の処遇
- 契丹の降将李楷固・駱務整は当初、これまでの戦で多くの将士を傷つけたとして極刑が議論されたが、狄仁杰の「彼らを厚遇すればわが方のために働くはず」という進言により赦免された。
- 二人はその後、契丹の残党討伐で功を挙げ、朝廷に凱旋。武氏は久視と改元し、二人を大将軍に、李楷固を燕国公・武姓賜与とした。宴席で武氏が功を仁杰に帰すと、仁杰は謙遜してこれを固辞した。
狄仁杰と婁師徳
- 仁杰の宰相登用は実は婁師徳の推薦によるものだったが、仁杰自身はそれを知らず、師徳を軽んじる発言をしていた。武氏がその事実を明かすと、仁杰は恥じ入り、以後師徳の徳を深く評価するようになった。
- 師徳はほどなく病没(享年七十)。温厚で人と争わず、「唾面自乾」(顔に唾を吐かれても自然に乾くまで待つ)の逸話で知られる人物として描かれる。人相見の袁客師が若き日の師徳を「貴人」と見抜いた逸話も添えられる。
控鶴監と二張兄弟、上官婉児
- 老いてなお淫楽にふける武氏は、張易之・張昌宗兄弟を寵愛するだけでは飽き足らず、控鶴監という役所を新設して多くの美少年を集め、才人・学士を体裁づけに配した。正諫大夫員半千は「このような官は不要」と諫めたが聞かれず、左遷された。
- 太子・相王・太平公主・武攸暨・張易之・張昌宗らは盟約を交わし、互いに睦まじく戯れ合う関係となった。
- 上官婉児(誅殺された上官儀の孫娘)は文才に優れ、武氏の詔勅の起草を一手に担う側近となったが、張昌宗と密通していたことが発覚し、武氏の怒りを買って額を傷つけられる一幕もあった。
- 控鶴監を諫めた王及善は名目上優遇されつつ実質は疎んじられ、武懿宗を批判した吉頊も武氏の逆鱗に触れて左遷された。左遷の際、吉頊は「宗室と外戚の身分の均衡がいずれ衝突を生む」と最後の諫言を残した。
- 武氏は控鶴監を奉宸府と改称し、さらに美少年を募った。右補闕朱敬則がこれを諫める上奏を行うと、武氏は表向き称賛して彩緞を賜ったが、宮中の享楽は変わらず続いた。武三思が張昌宗を仙人王子晋の生まれ変わりに擬えて羽衣を着せ木鶴に乗せる茶番も演じられ、張氏一族は権勢をほしいままにした。
狄仁杰の人材推挙と死去
- 政務の多くは狄仁杰に委ねられ、仁杰は復唐を志しつつ婉曲に武氏を諫め続けた。
- 仁杰は張柬之を宰相の器と見込んで推挙し、洛州司馬から秋官侍郎へと引き立てさせた。他にも姚元崇・桓彦範・敬暉ら後に名臣となる人材を数多く推薦した。
- 自らの長子光嗣を推挙した際には私心を疑われたが、「賢を薦めるのは国のため」と応じた。姨母を訪ねた際には、表弟の任官を勧めても姨母から「女主に仕えさせたくない」と固辞される場面もあった。
- 久視元年九月、狄仁杰は七十一歳で死去。武氏は「朝廷から人材が失われた」と嘆き、文昌右相を追贈、諡は文恵。のちに中宗の代に司空、睿宗の代に梁国公を追贈された。
評語
- 武氏の威は朝廷内では通用しても異民族には通じず、契丹を平定したかと思えば突厥がまた猛威を振るった。默啜が「わが娘は李氏に嫁がせるもの」と婚姻を拒んだ言は、かえって筋が通っており、夷狄にすら大義名分があるのに唐室がそれに及ばないのは恥というべきだと論じる。
- 当時の寵臣・佞臣はいずれも武氏の私物であったが、婁師徳と狄仁杰の二人だけは功名を全うし高い評価を得た。ただし師徳は円滑さに長けるのみで大局観には欠け、真に見るべきは狄仁杰ただ一人であるとし、正史が仁杰の死を記す際「周」の字を付さず終始唐臣として扱った点を引き、本書もまた仁杰を貶める言葉を用いないと述べる。