唐史演義廃立せられ廬陵王徙に坐す/良策に違い徐敬業敗亡す(第三 十回 被廢立庐陵王坐徙 違良策徐敬業敗亡)

中宗の即位と武太后の摂政

  • 高宗の第七子・中宗(哲)が即位するが、政事はすべて武太后が裁決する体制になった。
  • 武太后は諸王を太尉・司徒などに任じて懐柔する一方、劉仁軌・裴炎らを要職に据え、嗣聖と改元した。
  • 中宗は皇后韋氏の父・韋玄貞を重用しようとし、諫めた裴炎に対して「天下を与えても構わない」と激昂する。この一件が裴炎を武太后側へ追いやる契機となった。

袁天綱の人相占い(挿話)

  • かつて相術師の袁天綱が武士彠の家族を占い、幼い武氏を見て「男子なら大貴、女子ならば量り知れない」「女帝の相」と評したという逸話が紹介される。武氏自身も後年これを実現させようとした。

中宗の廃位と豫王の擁立

  • 武太后は裴炎らと謀り、兵を率いて宮中に入り、中宗を廬陵王に廃した。
  • 群臣に諮ったところ裴炎が豫王(旦)擁立を進言し、満場一致で決定。豫王が即位(改元・文明)するが、政事の実権はなお武太后が握り、豫王は別殿に留め置かれる傀儡に過ぎなかった。

廃太子賢の死と武氏一族の台頭

  • 劉仁軌は西京留守を辞退しようとしたが赴任し、まもなく病没。
  • 廃太子賢は巴州で「黄台瓜辞」を詠み恨みを匂わせたため、武太后は将軍を送って自殺を強要した。
  • 甥の武承嗣を要職に就け、先祖を追尊し七廟を立てようとするが、裴炎が呂氏の外戚専横の故事を挙げて諫止。武太后はこれを聞き入れず、以後裴炎を疎んじるようになる。
  • 祥瑞を装う諂いが横行し、改元して「光宅」とし、東都を神都と改称、官制も大幅に変更した。武氏一族が次々に昇進する一方、李勣の孫・徐敬業ら旧臣は左遷された。

徐敬業の挙兵と檄文

  • 左遷された徐敬業・唐之奇・杜求仁・駱賓王らが揚州で結束し、廬陵王擁立を名目に挙兵。匡復府などの幕府を立て、十余万の兵を集めた。
  • 駱賓王起草の檄文が広く伝わり、武太后の悪行を糾弾する内容だったが、武太后は動じず「文才を埋もれさせたのは宰相の落ち度」と評した程度で、討伐の兵を出す判断は揺るがなかった。

裴炎の失脚と処刑

  • 裴炎は甥が敬業に加担していたこともあり、武太后に政権返上を勧めたところ逆に疑われ、謀反の疑いで下獄・処刑された。
  • 弁護した劉景先・胡元范らも連座して左遷・配流。裴炎の甥・伷先は武太后を諫めて杖罰の上流罪となった。

徐敬業の敗死

  • 敬業は魏思温の進言(洛陽へ直進すべし)を退け、薛璋の献策(まず常・潤二州を固める)を採用したため好機を失う。
  • 討伐軍の李孝逸は当初劣勢だったが、監軍・魏元忠の火攻めの策により敬業軍を撃破。敬業は敗走の末、部下に裏切られて殺され、一党は捕らえられて処刑された。駱賓王のみ行方不明となった。
  • 武太后は徐氏一族を誅殺したが、敬業に協力しなかった叔父・李思文だけは赦され重用された。

評語

  • 中宗の暴言は本気ではなかったのに、裴炎はそれを口実に廃立を主導し、結局自らも武氏一族に滅ぼされた。武太后にのみ忠実で中宗に忠実でなかった報いである。
  • 徐敬業も魏思温の正攻の策を用いていれば唐室の忠臣として名を残せたはずが、私心から根拠地作りを優先し敗死した。裴炎・徐敬業はともに私心によって身を滅ぼしたと評される。