唐史演義第二十五回 辣手を下し王皇后を害死す/大軍を遣り沙鉢羅を擒え帰る (下辣手害死王皇后 遣大軍擒歸沙缽羅)

許敬宗・李義府の台頭と易后工作

  • 許敬宗(隋の忠臣許善心の子)は武昭儀に取り入り、王皇后廃立を公然と主張した。
  • 李義府は長孫無忌に弾劾されそうになったが、許敬宗の甥・王德儉の入れ知恵で高宗に易后を上奏し、褒賞されて中書侍郎に抜擢された。
  • 両者の画策により褚遂良は潭州都督に左遷され、韓瑗は上疏して抗弁したが聞き入れられなかった。
  • 永徽六年十月、王皇后は庶人に落とされ武昭儀が皇后となる。蕭淑妃も同時に廃されて冷宮に幽閉された。

武氏冊立と専横の始まり

  • 李勣・于志寧が奉冊使となり、盛大な儀式で武氏が皇后となった。
  • 武氏は許敬宗・李義府の官位引き上げを高宗に求め、内外の政務にも参与し始めた。

王皇后・蕭淑妃の惨殺

  • 高宗が冷宮を訪ね旧情を見せると、武氏はこれを知って激怒し、矯詔で二人を杖打ちのうえ手足を切断させ、酒甕に投げ込んで殺した。
  • 蕭淑妃は死に際に武氏を呪い、死後は屍を晒された。武氏は王后の姓を「蟒」、蕭淑妃の姓を「梟」と改めさせた。
  • 王皇后の母・柳氏は嶺外へ流罪、父仁祐も官爵を剥奪された。

太子忠の廃立と褚遂良らの左遷

  • 許敬宗の進言で太子忠は廃され、武氏の子・弘が立太子となった。武氏の父士彟は追贈され周国公とされた。
  • 褚遂良は桂州、さらに愛州へ左遷。韓瑗・来済も貶謫された。いずれも許敬宗・李義府の讒言による。
  • 武氏は長孫無忌以下の排斥も狙うが、高宗の母舅である無忌にはまだ手が出せなかった。

李義府の洛州事件

  • 李義府は洛州の美人淳于氏の冤罪釈放に絡み、証人となりうる大理丞畢正義を自殺に追い込んで口封じした。高宗も真相を知りつつ武氏の妨害で追及できなかった。
  • 侍御史王義方が弾劾したが逆に左遷され、義府はかえって中書令に昇進した。

西域出征(挿話)

  • 程知節が蔥山道行軍大総管として西突厥討伐に向かうが、副総管王文度の妨害と虚偽の密勅で軍を停滞させ、降兵を殺戮・略奪する失態を犯した。蘇定方だけは略奪に加わらなかった。
  • 王文度は罪に問われるも賄賂で減罪、程知節も連座して免官となった。
  • 蘇定方が新たに伊麗道行軍総管に任じられ、南北両道から西突厥の賀魯(沙缽羅可汗)を挟撃した。
  • 定方は雪中を進撃して賀魯本隊を急襲し、賀魯は敗走した。
  • 賀魯は石国に逃げ込むも捕らえられ、蕭嗣業により連行され唐に献上された。
  • 唐は西突厥の地に濛池・昆陵の二都護府を置き、阿史那彌射・歩真をそれぞれ可汗に任命した。
  • 賀魯は昭陵に献俘されたのち赦されるが、まもなく病没した。

亀茲国の内紛

  • 亀茲王布失畢の妻と密通した那利が権力を握り内紛が起きる。唐は雷文成・楊冑らを派遣して鎮圧し、羯獵顛らを誅殺、布失畢の子・素稽を王に立てた。
  • 安西都護府を亀茲に移し、四鎮・西域諸国を統轄させた。

評語

  • 王皇后・蕭淑妃の相剋には自業自得の面もあるが、武氏がその手足を断ち甕に投げ込んだ残虐さは禽獣にも劣ると評される。許敬宗・李義府の輩はなおさら論ずるに値しないとする。
  • 高宗は色に溺れ功臣を退けながらも蘇定方・楊冑ら良将を用いて西域の乱を平定できたのは、天が唐廷の手を借りて事を成さしめたようなものであり、外患を治めても内訌を治められない高宗の限界を示す、との論評が付される。