唐史演義強胡内乱し列部紛争す/逆跡上聞し儲君廃せらる(0020 第一十九回 強胡內亂列部紛爭 逆跡上聞儲君被廢)
西突厥の内紛
- 真珠可汗は約束破りを悔いて唐と修好を続けた。太宗は新興公主を長孫曦に嫁がせた。
- 西突厥は阿波可汗以来、泥利・泥撅処羅(曷薩那)・射匱・統葉護と可汗が次々に交代し、内紛が続いた。統葉護の死後は莫賀咄、泥孰(咄陸可汗)、その子同俄設(沙鉢羅咥利失可汗)、乙毗咄陸可汗、乙毗沙鉢羅葉護可汗と権力争いが連鎖し、国は東西に分裂した。
- 乙毗咄陸可汗は略奪や専横で部下の離反を招き、最終的に部長らが唐に嗣君の裁定を求め、太宗は莫賀咄の遺子を乙毗射匱可汗に立てさせて西突厥はようやく統一された。乙毗射匱は入貢し和親を求めたが、太宗は龜茲など五部の割譲を条件としたため交渉は停滞した。
太子承乾の堕落
- 皇太子承乾は成長するにつれ遊猟にふけり学問を怠り、于志寧・張玄素らの諫言を疎んじた。刺客を放って于志寧を襲わせたが、刺客は志寧の質素な生活ぶりに感じ入り手を下さなかった。
- 魏王泰が『括地志』を編纂して太宗の寵を得ると、太子は嫉妬を深めた。太宗が太子への物資供給を無制限にしたため、太子の奢侈はさらに悪化した。
- 張玄素は太子の浪費を諫める上疏を行ったが、直後に何者か(東宮の差し金と目される)に襲撃され負傷した。
魏徴の死
- 老病の魏徴は太子太師に任じられ固辞したが、太宗の懇請で受諾。病篤くなると太宗は自ら見舞い、娘の衡山公主を魏徴の子に嫁がせる約束をした。魏徴の死に際して太宗は深く悲しみ、「銅の鏡・古の鏡・人の鏡」の喩えで魏徴を失った嘆きを述べた。
- 魏徴の妻は夫の遺志(倹約)に従い、賜られた華美な葬具を辞退し質素に葬った。
- 太宗は凌煙閣に功臣二十四人の像を描かせ、魏徴もその一人に列せられた(長孫無忌・李孝恭・杜如晦・魏徴・房玄齢・高士廉・尉遅敬徳・李靖・蕭瑀・段志玄・劉弘基・屈突通・殷開山・柴紹・長孫順徳・張亮・侯君集・張公謹・程知節・虞世南・劉政会・唐儉・李世勣・秦叔宝)。
侯君集・太子承乾の謀反計画
- 高昌の一件で処罰を免れたものの不満を抱く侯君集は、張亮を誘って謀反を打診したが、張亮はこれを太宗に密告。太宗はしばらく静観する構えを取った。
- 太子承乾は侯君集を引き込み、魏王泰への対抗策を相談。太子は寵愛した侍女俳児を太宗に処刑されたことを恨み、荒淫な生活に耽り、突厥の風俗を真似た遊戯や仮想の葬儀ごっこに興じるなど常軌を逸した行動を見せた。
- 太宗の弟漢王元昌とも意気投合し、模擬戦ごっこや太子即位後の空想を語り合った。太子は魏王泰暗殺を企てたが失敗。東宮の寵童・方士が処刑されたことを機に、元昌・侯君集・李安儼・趙節・杜荷らと血判を交わし、太宗の病と称して弑逆を謀る計画を立てた。
齊王祐の乱と承乾の廃位
- 折しも斉王祐が長史権萬紀を殺害して謀反を起こし、李世勣が討伐に向かった。太子はこの動きに動揺し、逆に自らの陰謀が露見したかと恐れたが、実際には無関係と分かり一時安堵した。
- 斉王祐は捕縛され自尽を命じられた。この一件を機に承乾の謀反計画も発覚し、太子承乾は廃されて庶人とされ幽閉された。
- (詩:親子・兄弟が相争う悲劇を嘆く内容)
評語
- 綱常が乱れれば内乱を招くのは必然であり、西突厥の絶えざる内紛はその典型である。中華の礼義の国である唐でさえ、太宗自身が玄武門で骨肉を手にかけ、弟の妃を後宮に入れるなど倫理を乱した過去があり、その報いとして承乾の不孝・元昌の不悌・斉王祐の悪行・趙節や杜荷らの謀反という骨肉相食む禍が生じた。
- 幸い天が唐を助け早期に鎮圧されたが、父子兄弟の間に残った遺恨は大きく、太宗もその責を免れない。夷狄の国ですら綱常なくして治まらないのだから、まして中華においてはなおさらであり、この回は過去の事跡をもって後世を戒める意図がある。