唐史演義高昌を滅ぼし俘を観徳殿に献ず/真珠可汗を逐い薛延陀を撃破す(0019 第一十八回 滅高昌獻俘觀德殿 逐真珠擊敗薛延陀)

高昌討伐の経緯

  • 高昌王麴文泰は西域諸国と唐の交流を仲介する立場にありながら、焉耆の磧路開通要求に反発して焉耆を攻撃。さらに伊吾国への攻撃や薛延陀への圧迫など唐に背く行動を重ねた。
  • 太宗の召還命令にも応じず、使者李道裕にも傲慢な態度を取ったため、太宗は薛延陀の協力を得て侯君集・薛万均らに高昌討伐を命じた。

高昌の滅亡

  • 文泰は唐が遠征しても兵站が続かないと高をくくっていたが、唐軍十万が予想外に早く到達したと知って発病し急死した。子の智盛が後を継いだ。
  • 侯君集は「喪に乗じた奇襲は正々堂々でない」として正面から攻め、田城を落として都城を包囲。巨大な巣車で城内を制圧し、智盛は降伏した。二十二城・八千余戸を得て、唐は東西八百里・南北五百里の地を編入した。
  • 魏徴は高昌を直轄州県化することに反対し、現地勢力を存続させる方が長期的に有益と説いたが、太宗は聞かず西州・安西都護府を設置した。侯君集は献俘の礼を観徳殿で行い、智盛兄弟は将軍位に取り立てられた。

侯君集らの不正疑惑

  • 侯君集が高昌で私財・婦女を横領した疑いで告発されたが、岑文本の弁護(功のある将を過度に罰すれば士気を損なう)により不問となった。薛万均の姦通疑惑も魏徴の諫言で追及が中止された。
  • 廉直で知られた阿史那社爾は恩賞を辞退気味に受け、太宗に称賛された。

吐蕃との和親

  • 吐蕃の棄宗弄贊(ソンツェンガンポ)が入貢し和親を求めたが、太宗は吐谷渾王諾曷缽の讒言と誤解して拒否。怒った弄贊は吐谷渾・松州を攻めたが、侯君集らの派遣した唐軍に撃退された。
  • 弄贊は謝罪して改めて和親を求め、太宗はこれを許し、宗女文成公主を嫁がせた。江夏王李道宗が公主を送り、弄贊は唐の衣服・儀礼を慕って国内の風俗改革(赭色化粧の禁止等)も行った。

東突厥・薛延陀をめぐる動き

  • 突利可汗の跡を継いだ賀邏鶻に対し、突利の弟結社率が謀反を企てたが失敗し誅殺された。朝臣の意見を受け、太宗は阿史那思摩を可汗に立てて旧突厥部族を故地へ帰した。
  • 薛延陀の真珠可汗は表向き従いつつ、大度設に命じて思摩を攻撃。唐は李世勣ら諸将を派遣して防衛にあたった。

諾真水の戦いと契苾何力の忠節

  • 李世勣は薛延陀の大度設軍を諾真水で撃破。唐軍は馬を射られる苦戦の末、下馬しての白兵戦と薛万徹の敵馬強奪策で敵を潰走させ、大勝した。
  • この間、契苾何力は薛延陀に捕らえられ降伏を迫られたが、自ら左耳を切り落として拒絶する忠節を示した。真珠可汗の妻の取りなしで一命を取り留め、後に唐との交渉で救出された。

薛延陀との和親破談

  • 真珠可汗は謝罪し、新興公主との婚姻を願い出た。契苾何力は「真珠自らが公主を迎えに来れば良し、来なければ婚約を破棄すべき」と進言。
  • 真珠は聘礼の家畜調達に難儀し、期日に遅れたため、太宗はこれを口実に婚約を破棄した。
  • (詩:唐が和親の約束を違えたことを批判しつつ、結果として過ちを繰り返さなかったことを詠む内容)

評語

  • 塞外諸国が強がるのは中国側の統治に隙があるためで、正々堂々とした軍勢で臨めば服従させられることを、高昌・薛延陀の敗北が示している。
  • 一方で太宗が吐蕃には宗女を嫁がせながら薛延陀とは一度約束した婚姻を反故にしたのは、夷狄への対応に厚薄の差があり、一視同仁の道義に反する。吐蕃と薛延陀の記述を並べたのは、太宗の対外政策の不公平を暗に示す作者の意図である。