唐史演義第一十二回 文幹を誅し首を長安に伝う/頡利を退け突厥と和を修む (誅文幹傳首長安 卻頡利修和突厥)
輔公祏の最期と論功
- 逃走した輔公祏は句容・常州を経て武康まで追い詰められ捕らえられ、丹陽で処刑された(挙兵からわずか半年)。高祖は李靖の功を「韓信・白起・衛青・霍去病にも勝る」と称え、李孝恭・李靖を要職に任じた。
- 張善安は公祏との内通が発覚し処刑。杜伏威は公祏の偽書によって謀反を疑われ、死後に除名・家財没収の憂き目にあった。闞稜も孝恭に憎まれ、公祏との共謀を誣告されて殺された(後に世民の代でようやく名誉回復)。
高祖の内治整備
- 唐は武徳7年までにほぼ全国を統一(梁師都のみ朔方に残存)。高祖は官制(三公・六省・九寺など)、学制(国子学・太学など六学と州県郷学)、刑法(十悪・五刑・八議、隋律に基づく十二律)、租庸調の制度を整えた。
楊文幹の乱
- 東宮の楊文幹は建成と親しく、建成・元吉は世民排除を密議していた。建成は文幹を慶州総管に推挙し密かに兵を募らせていたが、密使が発覚を恐れて高祖に密告。
- 高祖は建成を糾問し、一時は「乱を平定すれば世民を太子に立てる」と約したが、世民が平定して戻ると前言を翻し、建成を赦して元の地位に戻した。世民の側近(王珪・韋挺・杜淹)は讒言の罪で流罪となった。
突厥の情勢と遷都論
- 東突厥の処羅可汗が没し、弟の頡利可汗が即位(隋の義成公主を可敦として娶る)。頡利は隋への旧恩を理由に唐へたびたび侵攻した。
- 頡利の侵攻に手を焼いた高祖は長安を捨てて遷都する案に傾くが、世民は「数万の兵を貸してもらえれば頡利を捕らえてみせる」と強く諫めて撤回させた。これにより建成らはますます世民を讒言するようになった。
- 狩りの際、建成が与えた暴れ馬に世民が三度落馬しても平然としていたことに建成は動揺し、さらに妃嬪を通じて「世民は天命を自称している」と讒言、高祖は世民を叱責したが、折しも突厥大挙侵入の報が入り事なきを得た。
世民、単騎で頡利・突利を離間
- 突厥が豳州に大軍で迫った際、世民は元吉を伴い出陣。元吉が怯むなか、世民は自ら百騎を率いて頡利の前に進み挑発し、さらに頡利と不和のあった甥の突利可汗に旧盟を持ち出して揺さぶりをかけた。
- 折からの大雨で突厥の弓が使えなくなったと見た世民は兵を進め、突利の説得もあって頡利は和議に応じ、便橋で盟約を結んで撤兵した。
再び決裂、そして毒酒事件
- 和議後もほどなく突厥は再侵攻。高祖が国書を勅書に改めて詰問すると頡利は激怒し使者を拘束、諸州に侵攻した。世民・李靖らが迎撃態勢を取ると頡利は再び和を乞い、捕らえていた温彦博を返して撤兵した。
- 世民の威名がいよいよ高まるのを恐れた建成・元吉は、夜の酒宴に世民を招いて毒を盛った。世民は帰邸後に大量の吐血をして重体となる。
- 高祖は見舞いに訪れ、「本来は世民を太子にと思っていたが既に建成が太子となった今は変えがたい。ただ兄弟の不和が続くなら、洛陽に出て東方を統べさせよう」と告げるが、世民が支度を整えて待つうちに、詔は結局出されなかった。
- (詩:私心を抱くと疑いに囚われるという教訓を詠む)
評語
- 建成・元吉は世民に遠く及ばぬ器量でありながら、この賢い兄弟を助けとせず陥れようとした。楊文幹の乱を煽り、突厥戦では元吉が怯む一方で世民は従容と敵を退けた。それでもなお毒殺を謀るとは、骨肉の情の失われようは唐室の大きな不幸である。
- ただし根本の原因は高祖にある。立太子を誤り、太子を替えようとしてまた翻し、世民を洛陽に出そうとしてまた悔いた。この優柔不断が後の玄武門の惨劇を招いたのであり、後世の父子兄弟への戒めとすべきである。