唐史演義第十回 江東を下し梁の蕭銑国を亡ぼす/洺南に戦い劉黒闥師を喪う (下江東梁蕭銑亡國 戰洺南劉黑闥喪師)

王世充・世惲、私刑で殺される

  • 王世充は蜀への移送を命じられ出立しようとしたところ、定州刺史の独孤修徳が父の仇討ちのため偽の勅命で兄弟を襲い、王世充と兄の世惲を斬殺した。
  • 修徳は事後に自首したが、高祖は父子の忠孝を汲んで減罪し免官のみとした。
  • 世充の子・玄応と兄・世偉は護送中に逃亡を図って発覚し、処刑され一族は滅んだ。

竇建徳残党の蜂起と劉黑闥の擁立

  • 河朔平定後も竇建徳の旧部下は各地で不穏な動きを続け、朝廷が彼らを召京しようとしたことから、范願・董康買・高雅賢らが謀反を決意する。
  • 一同はまず劉雅を主に担ごうとするが固辞され、口論の末に殺害してしまう。
  • 続いて漳南に隠棲していた劉黒闥(旧竇建徳配下)を担ぎ出し、挙兵。漳南県城を襲い、まもなく数千の兵を集めて周辺の刺史らを破り、竇建徳の位牌を祀って「復讐」を掲げ大将軍を自称、山東一帯へ勢力を広げた。
  • 饒陽の崔元遜、兗州の徐円朗ら各地の勢力も呼応し、山東は動揺した。

蕭銑討伐(李孝恭・李靖)

  • 唐は淮安王李神通らを山東方面に、李孝恭・李靖を南方の蕭銑討伐に差し向けた。蕭銑は梁の後裔を称し皇帝を自称、南方に勢力を張っていたが、内部の功臣同士の粛清(董景珍・張繡の相討ちなど)で衰えていた。
  • 武徳4年、李孝恭・李靖は増水した長江を利して奇襲。李靖の進言で敵艦をあえて川に捨て、援軍を欺いて江陵を包囲。蕭銑は文官・岑文本の勧めで自ら開城降伏し、「罪は自分一人にある、民を巻き添えにするな」と述べた。
  • 李靖の献策で略奪・報復を禁じたため南方諸州は次々と帰順し、蕭銑は長安へ送られ処刑された(建国から5年で滅亡)。李孝恭は荊州総管、李靖は永康県公に叙せられた。

江南の平定(杜伏威・李子通・沈法興ら)

  • 杜伏威配下の王雄誕らが、蕭銑滅亡後の勢いに乗じて江南の群雄を次々と制圧した。
  • 李子通(自称皇帝、明政と改元)は沈法興を破って勢力を広げるも、王雄誕の心理戦(夜間に松明で山谷を照らし威嚇)に敗れ投降。のち謀反を企てて捕らえられ処刑された。
  • 沈法興(自称梁王)は李子通に敗れて逃走中、迎えの将を殺そうとして逆に包囲され入水自殺。
  • 新安の汪華、崑山の聞人遂安もそれぞれ王雄誕に降伏し、江南一帯は杜伏威の勢力下に入った。

劉黒闥の猖獗と洺水の戦い

  • 北平郡王に封じられていた高開道が劉黒闥の勢いを見て再び反旗を翻し燕王を自称、突厥と結んだ。
  • 劉黒闥は瀛州・定州・冀州を次々陥落させ、唐の李玄通は自刃、旧竇建徳領はほぼ半年で奪還された。突厥とも結び、漢東王を自称して洺州に都した。
  • 唐は秦王李世民・斉王李元吉を再び派遣。世民は太鼓の音で城内を動揺させる計を用い、羅士信を洺水城の守備に送り込んだ。羅士信は八昼夜守り抜いたが大雪の中で敵に包囲され、投降を拒み「城が生きれば共に生き、城が滅べば共に死ぬ」と言い残して討ち死にした。
  • 世民は劉黒闥の糧道を断ち、あらかじめ洺水の上流を堰き止めさせておいて決戦。激戦の末に水を放って敵軍を押し流し、劉黒闥は残兵わずか200騎で突厥へ逃亡した。
  • (詩:洺水の決戦で秦王が大功を挙げたことを詠む)
  • 世民は続いて徐円朗討伐に向かうこととなった。

評語

  • 蕭銑討伐の功は実質李靖にあり、李孝恭はそれに乗じたにすぎない。劉黒闥討伐の功も専ら世民にあり、斉王元吉には見るべき功がない。
  • 李子通・沈法興・高開道らの挿話は時系列に沿って自然に織り込まれており、著者の構成の巧みさがうかがえる。