唐史演義第四回 艶聞を記す、李郎、侠客に遇う/禅譲により唐の基業開く (記豔聞李郎遇俠 禪帝位唐祚開基)

李靖の登用

世民は「韓擒虎が李靖を将才と見込んでいた」との遺言を根拠に父を説得し、李靖を赦して幕府に迎える。李靖は京兆の人、字は薬師、韓擒虎の甥にあたる。

紅払・虬髯客の艶聞(風塵三俠)

かつて李靖が楊素の邸を訪ねた際、楊素の侍妓・張氏(紅払)が彼の器量に惚れ込み、夜半に訪ねて夫婦となる逸話が語られる。二人が太原へ逃れる途中、虬髯客と名乗る豪傑と出会い、義兄妹の契りを結ぶ。虬髯客は李世民の相貌を一目見て「真の天子の相」と見抜き、道士の友人も対局を投げて「もはや及ばぬ」と去る。虬髯客は自らの財産一式を李靖夫婦に譲り、天下の覇を争うことを断念して東南へ去った。後年、海外で異国の王を討って独立国を興したとの噂を聞き、李靖夫婦はこれを虬髯客の成功と悟り、東南に向けて祝杯を挙げた。世に「風塵三俠」と称される話である。

屈突通の降伏と義寧帝擁立

李靖はその後仕官し、李淵挙兵に呼応して自ら囚人を装い長安に赴くが、世民に救われて幕下に留まる。李淵は代王侑を皇帝に立てて義寧と改元し、自らは大丞相・唐王となって実権を握る。世民は薛挙の子薛仁杲を扶風で撃退し、劉文静らは河東の屈突通を降す。屈突通配下の堯君素だけは頑として降伏を拒み続けた。

煬帝弑逆と唐の禅譲

義寧二年、江都で宇文化及が煬帝を弑逆し、秦王浩を傀儡に立てて実権を握る事件が起こる(麦孟才・司馬徳勘らの反化及の企ては露見して失敗)。この機に乗じ、李密・沈法興・蕭銑ら各地の群雄も次々に自立する。李淵は代王侑に迫って禅譲を受け、義寧二年五月、唐王朝を開いて高祖と称し、武徳と改元した。世民を秦王、元吉を斉王、建成を皇太子に封じ、裴寂・劉文静・蕭瑀・屈突通ら功臣に官職を与える。廃位された代王侑は酅国公に落とされ、隋の煬帝には諡が贈られた。東都では段達・王世充らが越王侗を擁立して唐に対抗するなど、なお各地の争乱は続いた。(詩:数年にわたる争乱の末、天下は結局唐に帰したが、勝てば王、敗れば賊と呼ばれるのは天道の常であるという趣旨)

評語

紅払・虬髯客の逸話は張説の『虬髯客伝』に基づくもので、正史に載らないものの、成立時期の近さから実在の人物を素材にしたものと考えられるとし、本書では姓は記すが名は伏せて原典の体裁を尊重したと述べる。また煬帝弑逆に関わった麦孟才と司馬徳勘の書き分け(前者は「謀誅」、後者は「謀殺」)、李淵の受禅を「脅」、代王の降格を「降」と表記するなど、正史の筆法に倣った厳密な用字がなされていると評される。