唐史演義第三回 霍邑を攻め陣中で宋老生を斬る/長安に入り代王侑を擁立す (攻霍邑陣斬宋老生 入長安擁立代王侑)

李密との駆け引き

賈胡堡で長雨に足止めされる中、李淵の元に李密の檄文(煬帝の十罪を列挙し義兵を呼びかける内容)が届く。李密は自らを盟主に推す傲慢な返書を寄こすが、世民の勧めで李淵は謙って持ち上げる返書を送り、李密を驕らせて河洛に釘付けにし、自らは西進に専念する策を取る。

撤退論と世民の諫止

劉武周が突厥と結んで晋陽を突く恐れが伝わり、李淵は撤退を決めるが、世民は「兵は進むのみ、退けば瓦解する」と涙ながらに諫め、李淵を翻意させる。世民は自ら追撃して先発した軍を呼び戻す。

霍邑攻略

天候が回復すると軍を進め、挑発に応じて出撃した宋老生を建成・世民が挟撃する。世民は自ら奮戦して敵を混乱させ、宋老生を追い詰めて劉弘基が斬る。城は陥落し、李淵は寛大な降伏条件で民心を得た。

河東・関中への進撃

臨汾・絳郡(陳叔達が抵抗の末に帰順)を経て龍門に至り、劉文静が突厥の援兵を伴って合流する。河東戸曹の任瓖の進言で関中攻略の道筋を得て、馮翊太守蕭造らが降伏。河東の屈突通を攻めるか長安へ直行するかで裴寂と世民が議論し、李淵は両論を容れて軍を二手に分け、河東を包囲しつつ自らは西進する。

平陽公主の娘子軍

柴紹の妻(李淵の娘、後の平陽公主)は太原挙兵の報を受けて鄠県に潜行し、李淵の従弟李神通や群盗と連合して七万の兵を集め、長安近郊を席巻する。世民軍と合流した際、武装したその姿は「巾幗の英雄」と讃えられ、その軍勢は「娘子軍」と呼ばれた。世民は隰城尉の房玄齢を得て謀主とする。

長安攻略と代王擁立

李淵軍と世民軍が長安城下で合流し、総勢二十余万に達する。李淵は代王侑(煬帝の孫)の擁立と隋の宗室不可侵を掲げて攻城し、軍頭雷永吉が先登して開城、陰世師・骨儀ら守将を捕らえる。年少の代王は侍読の姚思廉に守られて難を逃れ、李淵は臣礼を尽くして代王に対面したのち、長楽宮に入って苛法を除く十二条の約法を布告し、抵抗した陰世師らを処刑した。

李靖との出会い

獄中にいた馬邑郡丞李靖は、かつて李淵の挙兵を密告しようとした経緯を語り、李淵の怒りを買って処刑されかけるが、そこへ一人の人物が現れて止める。(詩:後に名将として名を残す人物を、まさにこのとき救う者が現れた、という趣旨で次回に続く)

評語

霍邑の勝利で軍の士気が定まり、長安攻略が隋唐興亡の大きな分岐点になったと評される。世民の進言による長駆策がなければ河東で足止めされ成否は定かでなかったとし、また娘子軍の挿話は平陽公主の武名を示す稀有な逸話として特筆される。李淵が勇敢な妻(竇氏)、非凡な息子(世民)、智勇兼備の娘を得たことが帝業成就の要因だったと結ばれる。