唐李問對攻守は一法か

  • 太宗が言った。「攻守の二事は、その実は一法であろうか。『孫子』は言う、『善く攻める者は、敵はその守るところを知らず、善く守る者は、敵はその攻めるところを知らず』と。すなわち、敵が来て我を攻めなければ、我もまたこれを攻める、我がもし自ら守れば、敵もまた守る、とは言っていない。攻守は両つながら斉しい、その術はどうであるか。」
  • 靖が言った。「前代、このように相い攻め相い守った者は多いです。皆言います、『守れば不足であり、攻めれば有余である』と。すなわち不足を弱と為し、有余を強と為すと謂う、これは攻守の法を悟らないものです。臣が『孫子』を案ずるに、『勝てないのは守るからであり、勝てるのは攻めるからである』と言っています。敵がまだ勝てないと謂えば、我はしばらく自ら守り、敵が勝てるのを待てば、これを攻めるだけであり、強弱を以て辞とするのではありません。後人はその義を暁らず、当に攻めるべき時に守り、当に守るべき時に攻めます。二役が既に異なる、故にその法を一にすることができません。」
  • 太宗が言った。「まことに、有余・不足が、後人にその強弱を惑わせている。まったく知らないことよ、守るの法は、要は敵に不足を示すことにあり、攻めるの法は、要は敵に有余を示すことにあるということを。敵に不足を示せば、敵は必ず来て攻める、これは敵がその攻めるところを知らないというものだ。敵に有余を示せば、敵は必ず自ら守る、これは敵がその守るところを知らないというものだ。攻守が一たび決すれば、敵と我とは二事に分かれる。もし我が事が得られれば、敵の事は敗れ、敵の事が得られれば、我の事は敗れる。得失成敗は、彼我の事に分かれる。攻守とは、一であるだけだ。一を得る者は、百戦百勝する。故に言う、『彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず』と。その一を知るということであろうか。」
  • 靖は再拝して言った。「深いことよ、聖人の法であります。攻めるは守るの機であり、守るは攻めるの策であり、同じく勝つことに帰するだけです。もし攻めて守るを知らず、守って攻めるを知らなければ、二事にするだけでなく、その官をも二つにしてしまいます。口では孫子・呉子を誦えても、心では攻守を両つながら妙にすることを思わなければ、誰がそのことを知ることができましょうか。」