帝王略論卷二 世祖武皇帝
生涯
- 武帝は名を徹(原文表記「傲」)といい、景帝の太子である。即位すると建元と改元し、百家を排して学校を興し、公孫弘・兒寛ら賢良を登用した。
- 衛青・霍去病を将として北の匈奴を討ち、河南・朔方の地を開き、南は百越を平定し、東は朝鮮を滅ぼしてこれを郡県とした。
- 泰山で封禅の儀を行い梁父山で禅を行って万歳を称え、神光がしきりに現れ、麒麟・朱鷹を得た。
- しかし連年の征討に加え宮観を盛んに造営したため、天下は疲弊し国用が不足した。
- そこで八月の酎酒による宗廟の祭祀に際し、諸侯に金を出させて祭祀を助けさせ「酎金」と称した。金の質が悪い、あるいは目方に足りない場合は爵位を一つ奪った。丞相の趙周はさらに水銀を秤に仕込んで金の色を変えさせ、これにより多くの諸侯が酎金の罪で国を失った。
- また百姓が酒を造ることと塩・鉄を売ることを禁じ、官のみがこれを扱えるようにした。諸侯が朝見する際には白鹿の皮に珪を包ませ「皮幣」と名付けた。禁苑にのみ白鹿がいたため、その皮を諸侯に売り、一枚四十金の値がついた。
- 民には緡銭を出させ、六畜・舟車にもすべて租税を課した。
- 晩年は神仙を好み、術士に公主を娶らせ、また巫蠱の言を信じて太子・公主・丞相までが皆連座して誅殺され、皇后も自殺した。この巫蠱の獄で死んだ百姓・大臣は数万に及んだ。
- 汗血の名馬を欲して万里かなたの大宛を討ち、蒟醬の味を賞味したいがために西南夷を開いた。民の命を顧みず自らの欲望のままにふるまうこと、このようであった。
- 後元二年に崩じた。即位五十四年、年七十一。子の昭帝が立った。
史論
公子は「漢の武帝は雄才大略であるが、前代の誰に比すべきか」と問うた。先生は次のように答えた。漢の武帝は六代の遺業を承け、国内は殷賑を極め、しかも高い資質を備えていたため、英雄を統べ豪傑を御することができた。内には礼楽を興し、外には辺境を開き、北は匈奴を威圧し、南は百越を平定した。学校を開き文辞を盛んにし、制度・憲章の整備は光り輝くばかりであり、始皇に比べれば優れている。しかし驕奢・暴虐の点では両者に大差なく、いずれも功は余りあるが徳は足りない。