帝王略論卷二 孝昭皇帝

生涯

  • 昭帝は名を弗といい、武帝の末子である。即位したのは十四歳のとき、始元元年と改元した。大将軍霍光と左将軍上官桀が政を執った。
  • 上官桀は霍光の寵を妬み、これを誅そうとして帝の兄・燕王旦の上書に偽装し、「霍光は上林苑で天子の儀仗を行い、また私に校尉を動かしている」と訴えさせた。
  • 上官桀が燕王の上表を奏上したとき、霍光は□□(底本欠字)してこれを開き、恐れて参内しなかった。帝はこれを呼び「大将軍に罪はない。朕はこの上書が偽りであると知っている」と告げた。
  • 霍光が「陛下はどうしてそれをお知りになったのですか」と問うと、帝は「大将軍が上林苑に出たのはつい最近のことであり、校尉を動かしたとしてもまだ十日と経っていない。燕王がどうしてそれを知り得ようか。しかも将軍が事を起こそうとするなら校尉一人を頼る必要もない。朕は将軍が謀反しようとしていないことを、一人の校尉の話からではなく知っている」と答えた。
  • これにより霍光は忠を尽くすことができた。上官桀の偽計は露見し、誅殺された。
  • 泰山の大石が自ら上林苑に立ち、枯れた柳が生き返って鳳凰が集まった。これにより鳳元年と改元した。
  • 即位十三年で崩じた。年二十二。武帝の孫・昌邑王賀が立った。

史論

公子は「漢の昭帝と周の成王はともに幼くして名声があったが、どちらが優れているか」と問うた。先生は「二人の徳については前代にすでに論がある」と答えた。公子が「その論を聞きたい」と求めると、先生は次のように述べた。論者によれば、周の成王は武王の子、文王の孫、周公の兄の子であり、代々聖人の資質を受け継いでいたのだから、その聡明さは驚くに値しない。しかし昭帝は父も武王ではなく、祖父も文王ではなく、叔父も周公ではないのに、卓越して人並み外れた早熟の智恵を示した。しかも成王は流言によって周公を疑ったのに対し、昭帝は霍光の無実を見抜いた。この優劣の差は大きい。