帝王略論卷二 世宗景皇帝

生涯

  • 景帝は名を啓といい、文帝の太子である。文帝と同様に無為の政治に努めた。
  • 文帝の初め、肉刑を廃止して笞打ちに代えたが、それでも笞打ちで死ぬ者が多かった。景帝は法令を定めて笞の数を減らし、これによって死者は少なくなった。
  • しかし晁錯の策を用いて諸侯の領地を削ったため、また吳の太子と博打で盤をめぐって争い吳の太子を殺したことから、呉王はこれを深く恨み、ついに七国とともに反乱を起こした。
  • 帝は晁錯を斬って七国に謝罪した。丞相の周亜夫は七国の乱を平定する大功を立てたが、帝は内心これを忌み嫌い、有司に命じて周亜夫を謀反として誣告させた。周亜夫は獄に下されて自ら死んだ。
  • 帝は即位十年、年四十八で崩じた。子の武帝が立った。

史論

公子は「班固は『周の成王・康王、漢の文帝・景帝』と並べ称したが、この言葉は妥当か」と問うた。先生は次のように答えた。周の成王・康王は文王・武王の遺業を承け、周公を宰相として篤実な民を教化し、積み重ねた仁徳が疾風に草がなびくように行き渡った、これに並ぶものはない。漢の高祖が基業を開いた当初は日々の政務にも暇がなく、秦の暴虐の弊害がなお残っていた。文帝はこうした中で仁恕の徳を体し、無為の政治を守り、秦・項羽の酷烈を洗い流し古の淳朴な風に立ち返らせ、ほとんど刑罰を用いない治世に近づけた、これは容易なことではない。もし新垣平の説に溺れず鄧通の夢を取り上げなければ、ほとんど王道に近づいていたであろう。しかし景帝を周の康王になぞらえるには、なお恥じるところがある。