生涯
- 文帝は諱を恒といい、薄姫の子である。性は寛仁で倹素であった。
- かつて露台を建てようとしたところ、石工が見積もると百金かかるという。帝は「百金は中程度の民十家の財産に当たる。わたしは先帝の宮室を守るだけでも常にそれを恥じているのに、どうして台などを作れようか」と言ってやめた。
- 千里を走る馬を献じる者があったとき、帝は「わたしは平時に行くにも一日五十里、軍を率いて行くにも三十里である。一人で千里の馬に乗ってどこへ行こうというのか」と言って受けなかった。
- 寵愛した慎夫人には裾を地に引きずらない衣を着させ、自らも粗末な弋綈の衣を着た。
- 上書された文書を集めて自ら裁決の資料とし、肉刑を廃止し、罪を家族に及ぼす連座の法や、誹謗・妖言の罪を治める法令もすべて除いて用いなかった。
- 張武が賄賂を受けた事があったが、帝は張武に賞を加えて与えることでその心を恥じ入らせた。
- 専ら徳をもって民を教化することに努め、天下の獄事は年に四百件ほどとなり、ほとんど刑罰を用いない政治に近づいた。
- かつて帝は天に昇る夢を見て、一人の黄色い頭巾の男が押し上げてくれた。目覚めてこの者を捜し出すと鄧通であった。そこで鄧通に蜀の銅山を賞として与え、自ら銭を鋳ることを許した。
- 趙の人・新垣平は人を遣って闕の下に玉杯を持たせ、帝に「闕下に宝器があります。取れば手に入るでしょう」と告げた。その後この企みが露見し、新垣平は三族を滅ぼされた。
- 即位二十年、年四十六で崩じた。子の景帝が立った。