帝王略論卷一 太康

略歴

  • 太康帝は狩猟を好み、洛水の外で狩りをして百日経っても戻らなかった。
  • 弟五人が母を奉じて太康の帰りを待ちながら、恨みを込めて歌を作った。その歌は「内に色に溺れ、外に狩りに溺れ、酒を甘んじ音楽に耽り、高い宮殿・彫刻の壁を築けば、そのうちの一つだけでも国は滅びぬはずがない」という内容であった。
  • そこで有窮国の君主・羿が、民が耐えられぬことに乗じて太康を黄河のほとりで阻んだ。太康は羿に阻まれて位を失い崩じた。
  • 太康の子・帝相も羿に滅ぼされ、羿もまたその臣・寒浞に滅ぼされた。相には遺腹の子があり、少康といった。

史論(公子との問答)

  • 公子は、天子に諫争する臣が七人いれば無道でも天下を失わないというのに、太康には五人の弟がいて忠義を尽くし主君を輔けようとした。上は堯舜の跡を追い下は国を安んじ主君を尊べたはずなのに、なぜ危亡を防げなかったのかと尋ねた。
  • 先生は、どの時代にも賢者はいるが、それを用いるか否かが問題であるとし、屈原は智者でありながら楚から追放され、伍子胥(子胥)は忠臣でありながら呉で屍を流された例を挙げた。もし二人の主君がこの二人の賢者を用いていれば、楚・呉はそれぞれ列国の覇者となっていたはずで、憤りのあまり嘆くこともなかっただろうとする。
  • 君主が五子の歌を鑑戒とすることができれば、危乱を求めても得られないほど戒めは行き届いている、と結ぶ。