帝王略論卷一 夏禹

略歴

  • 伯禹夏后氏は姓を姒、名を文命といい、高陽の孫、父は鯀。
  • 父の鯀は九年治水にあたったが成果が上がらず、堯によって羽山に流された。舜はそこで禹を挙げて治水にあたらせた。
  • 禹は尺璧の宝より寸暇を重んじ、風雨に身をさらして奔走し、冠が曲がっても直さず、履が脱げても拾わなかった。その人物・言葉はいずれも信頼できるものであった。
  • 声は音律に、身体は度量の基準になるほど整い、髪を洗う間に三度手を止め、食事の間に三度立ち上がって政務にあたった。
  • 陸では車、水では舟、泥では毳龍(そり状の道具)、山では轎(かご)に乗って各地を巡った。
  • 治水は十三年に及び、その間に三度自宅の門前を通り過ぎても、子の泣き声を聞きながら中に入らなかった。
  • 龍門を切り開き、伊闕を開き、九つの河川を通した。その結果、存続した国は七百に及び、黄河から瑞図(河図)が現れた。
  • 禹は百歳で崩じ、子の啓が立ち、その死後に子の太康が立った。

史論(公子との問答)

  • 公子は、夏禹の徳がなぜ堯・舜に及ばないのかと尋ねた。
  • 先生は、三皇五帝の代は治めていながら治めているように見せない玄妙な功であり、堯の代には老人が路上で「日の出とともに働き、日没とともに休み、井戸を掘って飲み水を得、田を耕して食べる。帝の力など私に何の関わりがあろうか」と歌ったという故事を引き、至聖の徳は跡形を残さないため「至人は己を無くし、神人は功を無くし、聖人は名を無くす」のであり、百姓は日々その恩恵を受けながら気づかないのだと答えた。
  • 三代になると徳が薄れ功業が目立つようになり、夏后(禹)の代は九州を敷き、四種の乗り物を使い分けて万国を建て九州を定め、木を伐り川を通すなど、その勤勉さは極まっていたとする。
  • 『左伝』に「禹の功がなければ我らは魚になっていただろう」とあるように、帝王の功績として禹に勝るものはないと結ぶ。