臺灣外紀周金斌、金厦で大いに戦う/陳永華、東寧に建国す(卷十三 周金斌金廈大戰 陳永華東寧建國)
鄭泰への疑心
- 康熙二年正月、経は金門・厦門を経て安平を離れ厦門へ帰還。伯父の鄭泰だけは病と称して出迎えず、経は洪旭と対応を協議する。楊来嘉が鄭泰と頻繁に往来していることも疑念を深める材料となる。
鄭泰の誅殺
- 三月、海澄の内応の噂に経が兵を動かそうとすると、鄭泰は自分を狙う動きと疑い家財を船に積んで港外へ避難する。全斌の献策により、経は「臺灣に眷属を移すため厦門・金門は伯父に総制を任せる」との名目で「金廈総制印」を鋳造し、鄭泰を油断させる。
- 六月、鄭泰は弟の鄭鳴駿の勧めで厦門に赴き経と対面。表向き歓待されるが、宴席で経が突然合図し伏兵に捕らえられ、黄昭との内通の書状を突きつけられて縊死させられる。周全斌はただちに金門の鄭泰の家財を接収する。
- 鄭鳴駿は兄の死を知り、蔡鳴雷の勧めで一族・部下四百余名、船三百余隻、兵一万余を率いて清の泉州に投降する。清朝は鳴駿を遵義侯に封じる。
オランダの復讐戦と厦門・金門の陥落
- 九月、臺灣を追われた元長官揆一王が福州に至り耿継茂・李率泰に助力を求め、清・オランダ連合艦隊が編成される。
- 十月、金門烏沙港で両軍が激突。周全斌は奮戦し楊富の船を奪い、誤って馬得功の船(実は鄭鳴駿の船と入れ替わっていた)を攻撃して得功を敗死させる。
- 一方、高崎の守将陳昇が清側に内応し、黄廷の陣は崩れて厦門は陥落。金門も相次いで陥落する。経は銅山へ退く。
- オランダ兵は厦門上陸後、仏像などを破壊するが達磨像だけは無事だったという逸話が記される。
招降攻勢と諸将の離反
- 清側は勝ちに乗じて銅山攻撃を進言する声もあったが、李率泰は「窮寇を追うな」として招撫を優先。
- 洪旭は清側の懐柔(同安侯の約束)を拒絶する一方、経は依然として「朝鮮の例」を主張して薙髪を拒む。
- 康熙三年正月、林順が施琅の勧誘に応じ投降。二月、南澳の杜煇も清に投降し、経の勢力は急速に縮小する。
臺灣への撤退
- 洪旭の進言により経は銅山を捨てて臺灣へ撤退することを決断。寧靖王・魯王世子ら明の宗室、鄉紳の大半も同行するが、徐孚遠のみ帰郷を選ぶ。馮澄世は従僕の裏切りにより海に投げ込まれて死亡する。
- 三月、盧若騰は澎湖で病没し、「自許先生」と墓に刻まれる。哀悼の詩が付される。
- 澎湖に着いた経は洪旭の進言で要地を守備兵とともに固める。
- 周全斌・黄廷は殿を務める役目を負うが、内心の不満から相次いで清に投降し、それぞれ承恩伯・慕恩伯に封じられる。
遷界令の徹底とその惨状
- 李率泰は沿海住民をさらに内地へ移し、深い界溝と界牆を築いて厳重に封鎖する。境界守備兵の横暴で多くの民が犠牲になり、離散・餓死する惨状が詩とともに描かれる。
オランダの末路
- 六月、揆一王は清側に助力を求めるが、「合師の可否は朝廷次第」とかわされる。水師提督施琅は澎湖・臺灣攻略を上奏し許可を得る。
- 揆一王一行は普陀山で観音像を毀損したのち出港しようとするが、暴風と「鉄蓮花」に襲われて全船が沈没し、全滅する。
東寧の建国と内政の充実
- 七月、経は屯田を進め、承天府に宗室・郷紳の住居を整備する。八月、東都を東寧と改称し、天興・万年の二県を州に昇格させる。
- 康熙四年、施琅の澎湖攻撃は台風により失敗し、清軍は撤退。臺灣側も守備兵を一時引き揚げる。
- 黄安が病没し、経は厚く葬る。陳永華が勇衛に任じられ、開墾・製糖・製塩などの殖産興業を進め、臺灣は豊作と民生の安定を実現する。
- 陳永華は成湯・文王の故事を引いて学校・聖廟の建設を進言し、経はこれを許可。承天府に孔子廟が建てられる。
学制の整備
- 康熙五年、聖廟が完成し明倫堂も併設。各社に学校を設け、科挙に準じた州試・府試・院試の制度を整える。陳永華が学院、葉亨が国子監助教となり、臺灣の学問が興る。
沿岸防備と交易の発展
- 施琅の再攻撃の噂に備え、洪旭は文武両道の充実を説き、船舶の修造・軍事訓練の強化を進言。経はこれを容れ、農閑期の武芸訓練や造船を命じる。日本・呂宋・暹羅・交趾など各地との交易も拡大する。
- 呂宋国王の使者バレ僧がキリスト教布教を求めるが、陳永華の反対もあり、経は形式的な礼を尽くすのみで布教は許さない。
洪旭の死と江勝の起用
- 洪旭が病没し、経は深く悲しんでその子や親族を要職に任じる。
- 貿易の便を図るため、陳永華の進言で厦門に江勝を鎮守として配置。江勝は当初現地勢力に敗れるが、広東の海賊出身の邱煇(あだ名「臭紅肉」)と結んで厦門を奪還し、市を開いて交易を回復させる。臺灣の物価は安定し、貿易はさらに盛んになる。
- 十二月、澎湖守備兵を臺灣に引き揚げ、開墾に充てる。
評語
- 遷界令による惨状を詠んだ詩が数首挿入され、「鳥雀は田を啄み農事は減り、屋根は荒れ果てて鬼さえ家を失って哭く。当時この策を立てた者を思えば、書生の涙も歌にならぬ」という趣旨で、為政者への痛烈な批判が込められている。
- 遷界を実行した泉州の張雲章という人物が、わずか三か月で両目を失明したという逸話が付される。