臺灣外紀緬甸に入り桂王が辱めを受く/祖訓を閲し成功が帰天す(卷十二 入緬甸桂王受辱 閱祖訓成功歸天)
父の死を悼む成功
- 康熙元年正月、鄭成功は父芝龍が処刑されたとの凶報を受け、痛哭して清への恨みを新たにする。祖墳が暴かれたことを知ると清朝への復讐を誓う。
- 沿海住民の強制移住について「わずかな髪を惜しんで郷里の民を巻き添えにしてよいものか」と嘆き、臺灣を開拓して民力を養い、機を見て西征する方針を語る。
- 成功は臺灣での軍律を厳格に運用し、馬信の「建国当初は寛大な政治をすべき」との諫言に対し、「立国の初めこそ法は厳格であるべきで、後の世の統治を容易にする」と子産・孔明の故事を引いて反論する。
南澳・陳豹の投降
- 三月、洪旭らが偽情報により南澳の陳豹が清に内通していると誤信し、周全斌に討伐を命じる。陳豹は疑いを晴らせぬまま清の平南王尚可喜のもとへ投降し、慕化伯に封じられる。
- 全斌は空城となった南澳を接収し、経に報告する。この頃、経と乳母陳氏の間に男子が生まれる。成功はこれを知らず、諸将に恩賞を与える。
桂王、緬甸へ
- 四月、雲南から逃れてきた僧形の兵部司務林英が、永暦帝の緬甸入りの経緯を成功に報告する。李定国は緬甸行きに反対したが、沐天波・馬吉祥・李国泰らの主張により帝は緬甸へ入り、後に呉三桂の追撃を受けて緬人にも軽んじられる屈辱を受けたという。
- 成功は永暦帝の安否を憂うが、確証がないため喪に服さず、なお永暦の年号を奉じ続けることとする。
鄭経糾弾事件
- 経が乳母陳氏と通じ子をもうけたことを知った兵部尚書唐顯悦が、賀啓の中で暗にこれを非難する文言を記す。成功は激怒し、都事黄毓を厦門へ遣わし、妻董氏・世子経・生まれた孫・陳氏の処刑を厳命する。
- 鄭泰・洪旭らは驚愕し協議のうえ、陳氏と嬰児のみを斬って命に応じ、董夫人と経の助命を嘆願する。しかし成功はこれを許さず、自らの佩剣を託して再度処断を命じる。
- 経は使者の黄毓を拘禁し、洪旭ら諸将は「世子は子であり父に逆らえないが、臣として君命を拒むこともできない。ただ兄の泰だけは弟に逆らえる立場」として、鄭泰を通じて成功への抵抗の意を固める。
- 周全斌が成功の密命を受けているとの疑いから捕らえられる。成功は諸将の抗命を知り激怒するが、派遣した使者は既に事態が動いていたため引き返す。
鄭成功の死
- 五月朔日、成功は病に倒れながらも澎湖方面を望楼から見張り続ける。八日、太祖の祖訓を読み、酒を重ねるうちに「先帝に合わせる顔がない」と嘆じ、自ら顔をかきむしって息絶える。享年三十九。
- 弟の鄭襲、黄安、馬信らが弔問に駆けつけ、喪が発せられる。
内乱の萌芽
- 十三日、馬信が悲しみのあまり病死。臺灣は動揺し、諸将は鄭襲を「護理」(代理統治者)として立てる。
- 鄭襲の側近である蔡雲・李応清・曹従龍・張驥の四人は、鄭襲を正式な後継者に据えようと画策し、黄安・黄昭・蕭拱宸らを説得して回る。黄安は経への忠誠を崩さないが、黄昭・蕭拱宸は同調し、成功の遺言を偽造して鄭襲を「東都主」に擁立、経に対して兵を分けて防備を固める。
- 黄安のみ密かに経へ急報を送り、早期の渡海を促す。
鄭経の嗣位と討伐準備
- 十四日、経は訃報を受け、洪旭の進言により先に嗣位してから喪を発することとし、「世藩」を称する。
- 周全斌を五軍都督とし、陳永華を諮議参軍、馮錫范を侍衛として渡海の準備を進める。
清朝の招撫工作
- 七月、成功死去の報が清側に伝わり、靖南王耿継茂・総督李率泰は招撫の使者を送るが、経らは「朝鮮の例(薙髪せず臣を称し貢を納める)」を主張して応じない。
- 八月以降、耿継茂・李率泰は反間の計を用い、鄭泰・洪旭・黄廷らの間に疑心を生じさせる策を進める一方、朝廷への上疏で投降交渉の進展を誇張して報告する。
臺灣平定戦
- 経は先に喪に服すことを優先し、陳永華の進言で使者を派遣して各将の動静を確認してから進軍することとする。
- 黄昭・蕭拱宸は成功の偽造遺言を根拠に経の渡海を拒む姿勢を示すが、周全斌の策により濃霧に乗じて奇襲上陸に成功。黄昭は乱戦の中で戦死し、諸軍は動揺して投降する。
- 蕭拱宸も捕らえられ、蔡雲・張驥・李応清・曹従龍らとともに処刑される。鄭襲は経と抱き合って和解し、罪は問われない。
- 黄昭の陣中から鄭泰が鄭襲側に通じていた書簡が発見されるが、経はこれを秘匿する。
楊来嘉の帰還
- 十二月、招撫のため北京へ赴いていた楊来嘉が「薙髪・上陸でなければ和議は成立しない」との清朝の意向を伝えて厦門に戻り、招撫交渉は不調に終わる。
評語
- 成功の厳格な統治方針について、「海外に偏り安んじる小国であればこそ、法を確立してこそ憂いがない」との評が付される。