臺灣外紀何斌、策を献じ台湾を取る/黄梧、密疏し五省を遷す(卷十一 何斌獻策取臺灣 黃梧密疏遷五省)
達素の来襲と鄭成功の防備
- 順治十七年正月、清の将軍達素が福州に至ったとの報が入る。鄭成功は諸将と協議し、清軍の本格的出兵は五月頃になると予測、粤東の水軍は大した脅威ではないと分析する。
- 二月、成功は工官馮澄世に戦艦の整備を命じ、諸鎮を厦門に集結させる。
- 三月、達素が泉州に至り、総督李率泰・提督馬得功・海澄公黄梧らと合流し、船を建造して両島(金門・厦門)攻撃の準備を進める。
毒殺未遂事件
- 李率泰配下の張応熊が、成功の厨房にいる弟の張徳を通じて成功を毒殺しようと孔雀胆を送るが、張徳は実行できず苦悩し、弟子の王四を通じて父の耀に打ち明ける。耀は忠義を重んじ、成功に自首させる。
- 成功は密告した耀・王四を厚賞し、張徳を処刑する。兄の張応熊は逃げ延び、李率泰に報告するが、泰はことの不首尾を天命として応熊を厚遇する。
五月の大海戦
- 四月、成功は各鎮を厦門周辺の要地に配置し防御態勢を固める。清軍の内応を図る右虎衛陳鵬が高崎の防備を放棄する策を密約する。
- 五月八日、清軍水師が出撃。鄭軍の周瑞・陳煇の船が損害を受けるが、成功は潮の変化を読んで火砲による総攻撃を命じ、黄梧率いる清水師を撃破する。清軍は多数の死者を出し壊滅、生存者も追い詰められて投降するが後に溺死させられる。
- 高崎方面では、陳鵬の内応により清軍の達素・施琅が上陸を試みるが、陳鵬配下の陳蟒が事情を知らず発砲したため清軍側に多数の死者が出て、結果的に鄭軍の勝利となる。
陳鵬の誅殺
- 成功は陳鵬の内通を察知しつつ、動揺を避けるため洪旭を祝賀の使者として送り、油断させたところを捕縛して連れ去らせる。
- 陳鵬は教場で処刑され、陳蟒・何義・陳璋がそれぞれ昇進する。
臺灣攻略の議論
- 六月以降、粤東方面の清軍は南澳の防備を見て撤退する。成功は金門・厦門の孤島だけでは清の全国軍力に対抗しがたいと悟り、諸将と新たな根拠地を求めて協議する。
- 成功が臺灣を候補に挙げるが、呉豪は紅毛(オランダ)の堅固な砲台と沈めた夾板船による水路封鎖を理由に反対し、成功もいったん断念する。
- 十一月、日本へ派遣した張光啓が帰り、幕府は出兵は拒むが武具の援助のみ承諾したと報告する。
何斌の投降と地図献上
- 順治十八年正月、臺灣通事の何斌がオランダ長官(揆一王)の公金を使い込んだ罪を隠すため、元宵節の宴に乗じて密かに脱出し、厦門の成功のもとへ逃れる。
- 何斌は臺灣の豊かさと戦略的価値を説き、砲台を避ける水路を記した地図を献上する。成功はこれに強く心を動かされ、何斌を厚遇して機密として匿う。
出征の決定
- 成功は諸将を集めて臺灣攻略を諮る。呉豪は依然として砲台と水路の険しさを理由に反対するが、馬信は「まず偵察隊を送り、情勢を見て進退を決めればよい」と柔軟な策を提案。陳永華もこれを支持し、楊朝棟も賛同したため、成功は出征を決定し、世子鄭経に留守を託す。
- 出征前夜、成功は占いを行い、吉兆と解釈して出師を決意する。
澎湖から鹿耳門へ
- 二月、成功は諸将に守備を分担させ、世子経ほか若手三名に厦門の統括を任せた上で自ら大軍を率いて出陣。
- 三月、艦隊は澎湖に至り、全船無事に到着。成功は諸島を巡視し、澎湖を臺灣攻略の要とみなして守備兵を配置する。
- 何斌の案内で水路を探りながら鹿耳門へ進入。海水面が異常に増水しており、成功はこれを天佑と喜び、赤嵌城へ向けて進軍する。
赤嵌城・熱蘭遮城の攻略
- 赤嵌城の守将貓難実可はオランダ本城(安平)へ援軍を求めるが間に合わず、成功軍に包囲され降伏。成功は赤嵌城を接収する。
- オランダ長官揆一王は水陸から反撃を試みるが、成功配下の黄安・楊祥らの伏兵と奇襲により大敗する。
- 成功は赤嵌を承天府と改称し楊朝棟を府尹に任じ、天興・万年の二県を新設する。
- 五月以降、援軍が到着し、オランダ側は籠城を続けるが徐々に追い詰められる。
銅山の叛乱と張進の自刃
- 経の密令により東山の蔡禄・郭義の二鎮を臺灣へ移そうとするが、二人は黄梧に通じているとの噂を恐れて叛意を固め、関帝廟のくじを口実に決起。忠匡伯張進の衙門を襲い、城を奪う。
- 張進は一時投降を装うが、密かに火薬を仕掛けて自爆を図り、蔡禄・郭義を道連れにしようとするが計画が漏れ、単独で爆死する。
- 経は黄廷らを派遣して討伐にあたらせるが、蔡禄・郭義は八尺門から清軍へ投降し逃走する。
鄭経と乳母陳氏の密通
- 世子経は正室と不仲で、四弟の乳母陳氏と密通し子をもうける。経の生母董氏の目を欺きながら関係を続ける。
遷界令をめぐる議論
- 順治帝崩御、康熙帝即位。海澄公黄梧は沿海住民を内地へ強制移住させ、船舶を焼却し、鄭氏一族の祖墳を破壊するなどの「滅賊五策」を上奏する。
- 湖広道御史李之芳はこれに反対する長文の上疏を提出し、遷界が民を苦しめるだけで賊を滅ぼす効果は薄いと八つの理由を挙げて訴えるが、上奏は留め置かれる。
土番の反乱鎮圧と対荷蘭戦の決着
- 七月、大肚社の土番が管理者の圧政に反発して蜂起。楊祖が討伐に赴くが戦死、代わって黄安・陳瑞が鎮圧に成功する。
- 八月以降、オランダ軍は水陸から反攻を試みるが敗退を重ねる。清朝は鄭氏の祖墳を暴くなど圧力を強めるが、現地官吏の躊躇で実行は中断する。
- 十月、鄭芝龍が北京で処刑される。成功はこれを知り悲嘆し、清への敵意を新たにする。
- 十一月、鄭軍は火船を用いてオランダの夾板船を焼き払い大打撃を与える。追い詰められた揆一王は降伏を申し出て、財産の持ち出しを条件に開城する。
東都の建設
- 十二月、揆一王を帰国させ、成功は臺灣を東都と改め、政庁を安平城に置く。
- 兵士の給与不正を働いた府尹楊朝棟・知県祝敬らを処刑し、規律を正す。
- 成功は土番の集落を巡視し、その素朴な暮らしぶりに感心する。
- 諸将を集め「寓兵於農」(兵を農に寓す)の方針を説き、屯田制度を定めて土地を分与し、平時は耕作、有事は軍役に就かせる体制を確立する。
評語
- 何斌の投降と地図献上を評して「天が公を遣わして成功を助けた」とする趣旨の評が挿入される。
- 鹿耳門突入・赤嵌攻略の場面では「これまで将たる者は険阻を恃みに油断するものだが、今日ようやくその難しさを知った」との評、また風・潮の助けを「すべて天の配剤」とする評が付される。
- 張進の自刃の場面では「門を開いて盗を招き入れたに等しく、共に事をなす仲が仇となった。もはや除く術なく、従容として死を選んだ」との評が付される。
- 屯田策の議論には「創業は農を本とし、軍を安んじるには食を先とすべし」「征誅には兵が必要だが、安んじ耕すには兵を要さない、屯田の計こそ千古の名策」との評が付される。