臺灣外紀成功、江南で敗を重ねる/甘輝、崇明で節に死す(卷十 成功敗積於江南 甘煇死節於崇明)
北伐準備と鴻逵の死
- 順治十四年正月、成功は舟師を率いて北上。温州の金鄉衛などを攻略しつつ、三月には定国公鄭鴻逵が金門で病没した。
江南進撃をめぐる論争
- 四月、参軍らの間で戦略論争が起こる。吏官潘庚鍾は「漳・泉の争奪を続けても展望がない、瓜州から長江に入り江南を取れば天下の志士が呼応する」と主張。甘煇は「江浙は広大で兵力が足りず、留守の両島(金門・厦門)が危うい」と慎重論を唱えたが、馮澄世・陳永華も潘庚鍾に同調し、成功も同じ考えであったため、江南進撃の方針が固まった。
- 併せて広西の永曆帝に使者を送り、孫可望・李定国の軍と洞庭方面から呼応させる連携策を図る。
何斌の鹿耳門探査(台湾攻略の伏線)
- この頃、台湾のオランダ通事何斌がオランダ側の公金を使い込んだ発覚を恐れ、部下郭平に命じて鹿耳門から赤嵌城に至る水路を密かに探らせ、深い航路があることを確認して密かに記録した。
浙江・福建沿岸の攻略
- 七月以降、成功は北上して黄巖・台州・天台・太平などを次々に攻略。海門衛は堅守されるが説得により開城させた。
- 一方、永春での乱に乗じて清の李率泰が閩安を奪回し、羅星塔で孤立した陳斌らは投降するが、清側は約束を破って千余人を虐殺した。成功は台州攻略を中断して南下した。
延平王冊封
- 使者楊廷世・劉九皋が永曆帝の朝廷で成功の実力と忠誠を報告し、冷孟銋の建議により成功は「延平王」に封じられた。諸将にも伯爵などが授けられ、永曆帝は江南進撃を励ます詔を発した。
揭陽方面の攻略
- 十一月、南澳の陳霸の献策で鷗汀寨を攻略、清の水軍の脅威を除いた。
親軍「鉄人」の編制
- 順治十五年二月、成功は屈強な兵を選び、重厚な鉄製甲冑と鉄仮面で武装した精鋭部隊「鉄人」を編制し、左虎衛陳魁に統率させた。
江南出兵の決行と甘煇の予感
- 四月、成功は瓜州攻略の方針(崇明を経ずまず瓜州を落とし、江南の門戸を破ってから崇明を圧する)を定め、周全斌・甘煇・翁天祐・万礼らに軍を分けて江南へ向かわせた。
- 甘煇は自らが「崇明伯」に封じられたことと、かつて活閻羅王志章から受けた「位は崇明に至り、崇明にて転ず」という予言を気にかけ、慎重な進軍を進言したが、成功は聞き入れず進撃を強行した。
羊山の暴風
- 六月、成功は温州・瑞安などを次々攻略した後、羊山沖で暴風に遭遇。里人の忠告(羊山の霊験を軽んじるな)を無視して出航したため大時化に見舞われ、多くの船が損壊し、成功の子ら(睿・裕・温)や兵士数千人が失われた。成功は祈祷の末にようやく天候を鎮め、舟山で修理を行った。
瓜州・鎮江の攻略
- 順治十六年六月、成功軍は瓜州を攻撃。馬信・周全斌らの活躍で談家洲の清軍を全滅させ、攔江壩を切り開いて瓜州を陥落させた。続いて鎮江でも鉄人部隊の突撃と周全斌の奮戦により総兵高謙を降し、江南諸郡から次々投降が相次いだ。
南京包囲と招降策の失敗
- 七月、成功は南京(江南省城)に迫り、天地・太祖に祭祀を行ったうえで包囲。総督管効忠は操江軍門朱衣佐の進言により、時間稼ぎの偽りの降伏(三十日の猶予要求)を申し出た。
- 参軍潘庚鍾は「これは緩兵の計、直ちに攻めるべき」と強く進言したが、成功は「攻城は下策、心を攻めるのが上策」として猶予を認め、包囲を緩めて降伏を待つ方針を取った。
梁化鳳の反撃と成功軍の大敗
- 清の援将梁化鳳は密かに神策門を掘り開いて夜襲を敢行、成功軍の陣を各所で撃破した。成功は反撃を試みるが、山上の指揮旗を守ったまま自らは船に向かい、指揮が混乱する中で梁化鳳の猛攻を受け、甘煇・万礼・張英・林勝・藍衍・陳魁・潘庚鍾ら十四人の大将が次々に討死する壊滅的な敗北を喫した。
撤退と崇明再攻撃の失敗
- 成功は残兵を収容して撤退。八月には崇明城を再度攻めるが、周全斌の「小城なれど堅固、得ても益少なし」との進言もあり、攻略を断念して厦門へ帰還した。成功は敗戦の責任を負い、永曆帝に上表して自ら王爵を辞し招討大将軍の印を用いることとした。
甘煇の最期
- 捕虜となった甘煇は総督管効忠の前でも屈せず、「大丈夫は死に場所を求めて来た」と言い放ち、投降を勧める余新(かつての部下で先に降伏していた)を痛罵したうえで殺された。余新もほどなく殺害された。
事後処理
- 十月、援剿鎮劉猷が温州で敗死。十二月には清の提督馬進宝が逮捕され、将軍達素が三省の水軍を率いて金門・厦門の両島攻撃を準備しているとの報が届いた。